構造と機能を超えた何か、あるいは夢オチして出会う超越者 out of structures & functions
学問的な調査や分析は、一般にその対象の特徴や機能を調べるものである。
構造と機能
この特徴がセットにされて定義されると構造 structure または手順 procedure または秩序 order になる。例えば、リンゴの特徴として「赤い」という述語を指摘することができる。だが、リンゴは果物の一種であり、それは植物の一種から収穫できるという生物分類構造に関連するから、そのような分類構造や生育順序(順序を認めるためには算術的構造を認めなければならない)にしたがって形成されたものをリンゴと我々は呼ぶのである。
一方、機能とは構造や特徴が他の構造や特徴に対してどのような影響を与えるか、あるいは構造や特徴を使ってどのような影響を与えられるか、すなわちどのような操作ができるかを意味する。機能は作用、操作、変換などと呼ばれることもある。例えば、リンゴは飢えた人間を元気にする作用があるかもしれない。リンゴは誰かに投げつけて武器にすることもできるかもしれない。リンゴがどのように消費されるかというのはリンゴがどのように機能するかということであり、それはリンゴ単独では決まらず、リンゴとそれに関係づけられる他のモノや人との関係によって決まってくる。あるいは「リンゴ+人=満腹」のように「計算される」と言うこともできるかもしれない。
構造や機能を詳細に調べていくと、それらは私たちの直観や先入観と食い違うことがあるかもしれない。つまり、非常識な調査結果が得られるかもしれないし、その非常識な調査結果を利用すれば結果をまだ知らない人々に対して優越したり、価値を提供して儲けることができるかもしれない。それもひとつの醍醐味だと言えるだろう。
超越者は……(沈黙)
構造や機能には「外側」というのがある、という人々がいる。信仰を持った人や哲学者にはそういう人がいる。例えば、悟りや神や善は構造や機能の外にある、あるいは超越していると考えたりするようだ。今、幾つかの名称をあげたが、この超越者は、どうやら幾つもあるようである。少なくとも「幾つもある」というのはこの記事で言っておきたいのであるが、そもそも「複数/単数」という数的特徴自体が構造に還元可能なものなので、それを言うことに矛盾が生じる。無論、反対のことも言える。つまり、超越者に「一つだけある」という述語をつけることもまた矛盾している。なぜならば、述語をつけるという操作は構造においてのみ可能だからである。
これらの誤りからわかるように、一般に、構造の外にある「規定」とか「述語」という言い方が異常な使い方だと認識されなければならない。なぜならば、あらゆる言葉による規定は言葉による特徴づけと同義に解釈されるおそれがあるからである。
何にでもつけられるマジックフレーズと夢オチ
例えば、何かおとぎ話を語ったとしよう。浦島太郎の話などでもよい。その話を一通り語り終わったあとで、その話の内容とは関係なく(つまり外在的に)、「~と私は語った」とか「~と私は思った」とか「~というのはすべて現実=実話である」とか「~というのはすべて虚構=架空の話だ」とか「~というのは昨日見た夢だ」と述べることができる。このような記述は物語の内容に対して何も付け加えないし、何も差し引くものでもない。
だから、物語それ自体は無意味なのであって、仮にそれが実話だとすれば他の史実と関係があるはずだ(つまり機能を調べられるはずだ)とか、虚構だとすればそれを事実と信じたり影響を受けた人はどのぐらいいるのかとか消費分析(機能分析の一種)をおこなうことができる。しかし、それらの調査を進めてもなお、調査結果は一種の構造を持った物語として語られる他はないし、そこには常に「~と私は考えた」とか「~というのが現実だ」とか「~というのがこの一つの世界で起こった」とか言えてしまうのである。
したがって、我々の語りは常に「夢オチ」する可能性がある。だが、そのオチ、その落差については夢の中で表現することが不可能なのである。夢においてあらゆる構造や機能について記述を書き連ねて言葉を尽くしても、それでも「夢オチ」そのものについては述べ切ることができない。それでいて、では「夢オチ」した先には同じ「現実」、同じ他者、同じ超越者が待っているかというとそうとも言えない。なぜならば、同一性や単数性もまた、夢の中で語られるカテゴリであるからである。それでも我々の直観は我々が同じ世界に再び目覚めることを保証しているとは言えない。そのように言える根拠などどこにも存在しないし、またあってはなならないからだ。
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(1,894字、2024.06.08)