敗北する個人主義
国語の教科書に夏目漱石の有名なエッセイが載っていて、その影響をむやみに受けてしまった。というのも、今思えばものの本に書いてあることよりも近所の同級生や親戚や地域の年配者の言うことをきいて物わかりよくしていた方が、よほど世渡りが上手になっていたであろうに、そういうものは何だか面倒くさくて、文章に成ったものを権威だと思って拝んでいたからだ。
そのエッセイとは、上掲の「私の個人主義」というやつである。これは高校でのスピーチを文字起こししたものであるらしい。だいたい前後編に分かれていて、前半は夏目漱石の身の上話から「自己本位」の話、後半は個人主義と権力や党派性の話となっている。短く難しくない内容であるからお前に解題されるまでもないと思う向きもあるかもしれないが、感想を挟みながら私が感じ入ってしまった部分を抜き出して眺めたい。
身の上話というのは、漱石が英文学を専攻して英国留学するという話である。
この記述をみるに、留学先の英文学の本場、つまり英国の大学で年号クイズやら並べ替え問題やら、まるでクイズマジックアカデミーのような問題を解かされたわけである。まあもし専攻がマジアカであればよかったが、文学とはマジアカではなさそうだというのは極東の日本人にも見当がつくわけである。しかし、漱石、そうはいっても本場の先生がそうやって指導するものだから、いったい英文学とはなんだ、文学とはなんだとずっと悩んでいたという。この状態を本人は「他人本位」と表現している。
私自身もいったいぜんたい世の中の是非善悪というものは何を尺度に判定したらいいのか、いやそれだけでなく日々のメシの美味い不味い、着るもののオシャレだブサイクだは何で決めたらいいのか、到底わからなかった。そこで、何やら権威がありそうな人や自信ありげな人の言うことに従ってみたこともあったが、それを知らない別の人、別の感受性を持った人もまた幾らでもいるわけである。そういう向きから不意に「なんで『お前が』そんな服を着ているのか?」と言われても、まともに答えられないときがほとんどだった。もちろん記憶をたどれば誰かの影響を受けてそうしていたのだが、それを憶えておいて相手にも納得いくかたちでスピーチできるほどの記憶力も機転もなかったのである。
そうやって、誰かの真似事をしながら誰の真似だとたずねられても赤面して答えられない一方、若い私のプライドはアルプスよりも高かった。だから、夏目漱石が上記のように、自分はイギリス人の奴隷ではないのだから、イギリス人の意見がどうあれ、一日本国民として自分自身の「見識」を装備しなければならないというアジテーションはたいへん心地よく響いたわけである。もちろん、これはこれで夏目漱石という有名人が述べていて、教科書にも載るぐらいの権威であるから、夏目漱石の「自己本位」という陣笠をコピーして被っているだけに過ぎないことだ。だいたい夏目漱石がどうして偉いのか私は未だに知らない。大日本帝国の小説家なら他にも芥川龍之介をはじめとして立派な人がいくらもいるだろうに、夏目漱石はお札の顔に選ばれるぐらい格別の扱いを受けているのも不思議だ。
ともかく、そういうわけで、私は夏目漱石の「自己本位」という言葉に勇気づけられると共に、「自己」という本尊をありがたがるようになり、個人主義というイデオロギーをありがたがるようになった。
しかし、家族を見ても近所を見ても、個人主義者なんてどこにもいないのである。つまり、個人を一番偉いとか、自己を本位として他人の権威を盲信しないとかそういうことを気にする人はいないのである。
それどころか、ときどき私は「偉そうだ」などと言われる。まるでわからない。神様仏様が偉いという人にそう言われるならわかる。偉い人から偉そうだと言われるならわかる。しかし、個人と個人との間柄、人間同士の間柄では俺も偉い、お前も偉い、みんな偉いでいいのではないかと思っていたのだが、そうではなくってみんなと同じように下手(したて)に出なくってはいけないのである。まあそれもわからなくはない。言わば「偉さ」についての譲り合いの精神をお互い持とうってことかもしれない。だがそれならそれで、結局「偉さ」は誰にもどの個人にも与えられないまま、どこにお供えされるのだろうか? どこにも行き場がなくていいものなのかもしれない。みんなで大皿の料理をつついて、最後に残った一切れに誰もが手を出さないように、誰も偉そうにせずにいるのが日本的な美徳なのかもしれない。それは無責任に私には感じられるのだが、無責任でトラブルが起きなければ、結果として誰も文句を言わなければそれはそれで構わないというのが我々の生活なのである。
だからまあ、夏目漱石から影響を受けて自分個人も「自己本位」で行こうと思ってはみたが、それほど偉いと認めてもらえるような自己を元から持っていなかった私にはミスマッチなものであった。「自己本位」とはそもそも誰でも自分自身の中に権威があるというものではないかと思っていたが、元々権威がある人がやっと主張して受け入れられるかどうかという種類のものであったのかもしれない。私のような偉くない者が猿真似しても摩擦しヤケドをするばかりのシロモノであったようだ。
(2,976字、2024.06.07)