見出し画像

会話における緊張とリラックス

私の身体は硬い。つまり、筋肉が強張っていて、ちょっとマッサージしたぐらいでは逆効果(いわゆる揉み返し)なほどだ。自分自身でも不快な強張りで、これはよくないことである。だが、なぜこんな状態なのだろうか? 原因についてのひとつの仮説としては私が様々な場面で頻繁に緊張するからである。

仮にそうだとして、その頻繁な緊張は必要なのか? といえばそうではない。むしろ緊張そのものが有害な結果を引き起こしており、その身体的な反応のひとつが身体の強張りであり、背中などの筋肉の硬さである。

ではどんな不必要な緊張が私を苦しめているのか? それについて以下分析し、説明してみようかと思う。この説明が妥当かどうかはこころもとない。なぜならば、飽くまで自分自身の体験談に過ぎないので当てはまらない人も多いというのもあるし、自分自身の身体でありながら、自分でもよくわかっていないことだからである。


会話の両極

会話には2つの極がある。ひとつは、問題解決のための会話である。もうひとつはケアのための会話である。しかし、この会話の二つの極のいずれでも私は不必要に緊張する。

問題解決のための会話とは、言い換えればコンサルティングをおこなう会話である。生計を立てるために仕事で利益を出さなければならず、そのためには他の人々と歩調を合わせる必要があり、例えばそのために打合せをおこなったり、認識のズレを調整するための会話である。あるいは解決策を提案したり、現実的な案を絞り込んだりするための会話である。

一方、ケアのための会話とは、言い換えればカウンセリングであり、あるいはセラピのための会話である。医師やカウンセラとの会話においては、こちらは患者またはクライエント、顧客として自分の症状を話す。ときには一方的に話す。その会話の内容はもしかすると必ずしも重要ではないかもしれない。言い換えれば、話した内容よりも話した内容の量や異常さ、時間、話す時の口調や発語に伴う仕草(例えば涙を流しながら、など)が考慮に入る。

このようなケアのための会話あるいは問答は、問題解決のための会話とは異なる。なぜならば、会話内容や問題解決が必ずしも会話の目的ではないからである。また、会話内容には踏み込むとかえってケアにならない領域があったり、会話に参加する当事者に細かい点を詰め寄ったりするのもよくないとされるのも特徴的である。会話の焦点は問題解決ではなく、当事者に寄り添って時間を過ごすこと、そしてそれによって当事者について傾聴する側が知識を取得することである。

大きな意図のある会話

だが、いずれの極の会話にしても、一定の大きな意図が予定されている。問題解決のための打合せは当然、予定の共有であったり、妥当な方向性や解決策を共有することで、お互いにチグハグな動きにならないように意図するものである。

ケアのための会話も、一見、明確な目的はない会話、何を話してもよい会話空間を設定するかのようにみえるが、結局、「急がば回れ」といったかたちでクライエントの余計な緊張を払拭(ふっしょく)するために迂回して治療や社会復帰、あるいは周囲との和解や調整を意図するものであるには違いない。

言い換えれば、問題解決にせよケアにせよ、アプローチは違っても何らかの達成を目指すものなのである。

会話のための会話

私はどちらの会話にしても不必要に緊張してきた。つまり、問題解決のための会話であれば、問題解決のために方向性を共有するという会話の流れに何とかして乗らなくてはならない(例えばワケのわからない専門用語が飛び交ったとしてもときにはわかっているフリをしなければならないし、余計なところで突き詰めたり詳細過ぎる話をしてはならないし、グチを挟むのもよろしくない)。また、医師や支援者との会話ではこちらがお客だからとばかりに一方的に話すことも多かったが、それでいて後からあんな話し方でよかったのだろうかと不安になってきた。つまり、結局その意図を自分であれこれ当て推量しては不安になってきたのである。だから、これらの会話は確かに何かを〝前進〟させるために寄与するものであり、必要なものではあったのだが、同時に私自身に大きな緊張を与えるものでもあったのだ。

だが、世の中の会話はこの両極端だけではない。なぜならば、友人同士の会話やあるいは職場での雑談ですら、それほど合目的的だったり、純粋な目的追求のために予定の経路や帯域から一歩もはみ出さずにおこなわれるわけではないからである。ただ、蛇行して終わる会話もある。ただ、お互いに何かを発声して終わる会話もある。ちょっと冗談を言ったり言われたり、セリフの元ネタを当てたり、他愛もないクイズを出して答えてそれで終わりという会話もある。そういう会話はただ話したいからおこなわれるもので、結果的にリラックスももたらされる。

そう、リラックスだ。緊張しないこと、緊張をほぐして休むことである。人々が会話に求めるものはむしろほとんどの場合リラックスであり、リラックスした関係を築くための行為として会話を利用(?)することの方がむしろ多い。だが、会話のこの重要な役割を私は深読みし過ぎるがゆえに捉えそこねてきた。ただ、そうかといって、意図的に入眠するのと同じように意図的に「自然な会話を楽しむ」報酬系を構築するのも困難だ。

どうすればいい??とどうしても思ってしまう。答えはまだ無い。

(2,209字、[2024年10月22日])



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?