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フランス現代思想とヨーグルト

「フランス現代思想、ねえ。なんだってあんなに人を引きつけるのだろうか。サルトル、デリダ、フーコー――なんだか名前だけ聞くと、とても賢そうで、近寄りがたい。いや、近寄りがたいどころか、そもそも、彼らの言葉がわたくしに理解できるのか。自信がない。読む前から挫折の香りが漂う。

しかし、それでも心のどこかで思うのだ。わたくしも一度くらい『構造主義』とか『脱構築』とか口にしてみたい。たとえば職場で、「それってまさにフーコー的な視点ですよね」なんて、さりげなく言ってみる。相手はきっと驚き、尊敬の眼差しを向けるだろう。「あなた、そんなことも知ってるの?」と。しかし、その直後、「じゃあ具体的にどういう意味?」なんて聞かれたら終わりだ。沈黙しか返せない未来が見える。やめておこう。

それでもわたくしの目の前には、フランス現代思想の本がある。大きく開けたままのページは、何やら抽象的なカタカナ用語で埋め尽くされている。『シニフィアン』?『エピステーメー』?まるで呪文のようだ。一文読むたびに脳が悲鳴を上げる。「いや、ちょっと待て」と脳が言う。「これを理解するために別の本を読めということか?」それでは終わりがないではないか。

しかし、ここでふと気づくのだ。わたくしは実際のところ、フランス現代思想そのものに興味があるのではなく、それを語る自分になりたいだけなのではないか。たとえばカフェで気取って本を広げ、「ふーむ、やっぱりデリダの視点は示唆的だ」とつぶやいてみたい。きっと隣の席の誰かがチラリとこちらを見て、「あの人、きっと哲学者か何かだ」と思うに違いない。自己満足だと?その通りだ。

いや、だが待て。それはちょっと滑稽すぎやしないか。わたくしがデリダを読んで、知識人ぶる?そんな姿を想像するだけで、思わず笑ってしまう。実際のところ、わたくしにはもっと身近な悩みがあるのだ。たとえば、冷蔵庫にある賞味期限切れのヨーグルトをどうするか、とか、今月の家計簿をどう埋め合わせるか、とか。デリダもサルトルも、きっとそんな悩みについては何も教えてくれないだろう。

そうだ、結局のところ、フランス現代思想を読むべきかどうかという問題は、わたくしにとって、それほど重要ではないのかもしれない。ただ、読むフリくらいはしてみたい。それで満足してしまいそうな自分が少し情けないけれど、まあ、それもまた一興ではないか。

――さあ、どうする?本を開くか、それとも冷蔵庫のヨーグルトに挑むか。」

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