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フランス現代思想とヨーグルト
フランス現代思想の何がそんなに人を引きつけるのかを理解するために わたくしもフランス現代思想を読まなければならぬか…… https://t.co/wbYNaE5XRw
— はるか (@hrk_book) January 10, 2025
「フランス現代思想、ねえ。なんだってあんなに人を引きつけるのだろうか。サルトル、デリダ、フーコー――なんだか名前だけ聞くと、とても賢そうで、近寄りがたい。いや、近寄りがたいどころか、そもそも、彼らの言葉がわたくしに理解できるのか。自信がない。読む前から挫折の香りが漂う。
しかし、それでも心のどこかで思うのだ。わたくしも一度くらい『構造主義』とか『脱構築』とか口にしてみたい。たとえば職場で、「それってまさにフーコー的な視点ですよね」なんて、さりげなく言ってみる。相手はきっと驚き、尊敬の眼差しを向けるだろう。「あなた、そんなことも知ってるの?」と。しかし、その直後、「じゃあ具体的にどういう意味?」なんて聞かれたら終わりだ。沈黙しか返せない未来が見える。やめておこう。
それでもわたくしの目の前には、フランス現代思想の本がある。大きく開けたままのページは、何やら抽象的なカタカナ用語で埋め尽くされている。『シニフィアン』?『エピステーメー』?まるで呪文のようだ。一文読むたびに脳が悲鳴を上げる。「いや、ちょっと待て」と脳が言う。「これを理解するために別の本を読めということか?」それでは終わりがないではないか。
しかし、ここでふと気づくのだ。わたくしは実際のところ、フランス現代思想そのものに興味があるのではなく、それを語る自分になりたいだけなのではないか。たとえばカフェで気取って本を広げ、「ふーむ、やっぱりデリダの視点は示唆的だ」とつぶやいてみたい。きっと隣の席の誰かがチラリとこちらを見て、「あの人、きっと哲学者か何かだ」と思うに違いない。自己満足だと?その通りだ。
いや、だが待て。それはちょっと滑稽すぎやしないか。わたくしがデリダを読んで、知識人ぶる?そんな姿を想像するだけで、思わず笑ってしまう。実際のところ、わたくしにはもっと身近な悩みがあるのだ。たとえば、冷蔵庫にある賞味期限切れのヨーグルトをどうするか、とか、今月の家計簿をどう埋め合わせるか、とか。デリダもサルトルも、きっとそんな悩みについては何も教えてくれないだろう。
そうだ、結局のところ、フランス現代思想を読むべきかどうかという問題は、わたくしにとって、それほど重要ではないのかもしれない。ただ、読むフリくらいはしてみたい。それで満足してしまいそうな自分が少し情けないけれど、まあ、それもまた一興ではないか。
――さあ、どうする?本を開くか、それとも冷蔵庫のヨーグルトに挑むか。」