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私の語り方と西洋哲学の伝統;類推スキルアップしてうれしかったこと;あなたの語りはディセルタシオン的だと言われて


本記事でイイタイコト

自分の語りスキルアップがうれしい。なぜなら長年視野の広い語りというものをしてみたかったが、それに私の思考の柔軟性や類推能力や知識量がちょっとでも追いつきそうになかったからである。

予備知識

4つの文化圏における作文教育の実証調査と相互比較

比較社会学者の渡邉雅子氏は35年間に渡って4ヵ国の作文教育を調査し、それらを比較している。4ヵ国比較というのは同時並行ではなく、まずは日米比較、日米仏比較、そして日米仏+イラン(イスラーム圏)の4つの文化圏の比較と次第に研究範囲を拡大した結果で、文化圏の追加ごとに単著も上梓している。

この構造主義社会学の素晴らしい成果が今年2024年にわずか150頁の新書としてまとめられた。学際的な研究にありがちな表面性やキズもあるとはいえ、実証研究としてはとんでもない労作であり、なんとなく言われていた国際的な合理性に対する感覚の違い(異文化あるある)を言語化した点も学術的な功績である。

第三章だけ読んでください。マジで。

ただ、合理性についての単なる文化相対主義の確認というだけではその社会的意義としては薄くなってしまうというのが私=深草の意見である。それに乗って頂けるなら、それを確認した上で著者がどちらにどこまで進めたのかがもっと注目すべきポイントであろう。

だから、この新書の中でも真っ先に見るべき箇所は第三章であるというのが深草の評価であり、それを書いたのが上記の私の記事である(=無礼な「論理性」)。なぜならば、そこには深草が最も知りたいこと、そして知った上で実際の会話や執筆において生かすべき知識が書いてあるからである。

その最も知りたいこととは「作文の構造の違いがなぜ知的な低評価だけでなく、執筆者に対する怒りや倫理的な低評価にまで至るのか?」というメカニズムである。そして、その「怒り」「呆れ」は4つの文化圏がそれぞれ自分以外の3つの文化圏を眺めるときに独自の形態を取って現象するのだが、それについて描写されているのが第三章なのである。

この第三章は私が生まれてから会話において悩んだ課題を潰して来た中で最も最初に知りたかったことだと断言できる。この第三章こそ私のオールタイムベストだ。

イイタイコトに至った経緯

自分の語りについて、今日は「フランス的だ」と指摘を受け、すぐに反例を挙げたくなってしまった。

さて、今日(12月05日)は「ふかくさの話し方は、〔渡邉氏の研究結果による〕作文教育の分類でいうと、フランス語圏〔あるいは欧州圏〕の作文教育であるディセルタシオンに近い話し方をする」という指摘をもらった。

ディセルタシオンという形式による小論文試験

ここで補足説明をする。「ディセルタシオン」とは、与えられた問いに対して、常識的な問いと答えを確認して、それに対する異論の問答を「アンチテーゼ」としてさらに提示し、両者のギャップを無力化する第三の問いと答えを自分自身で書いて「ジンテーゼ」とする不思議な作文教育である。

不思議だというのはなにしろ、試験問題であるにも関わらず与えられた問いに対して即答してはいけないというのだからだ。また、最終的に自分が出す答え(ジンテーゼ)ではない常識的な見解や非常識な見解に対しても、同じだけの労力をかけるからでもある。

言い換えれば、小論文の問題という外形を取ってはいるものの、ディセルタシオンで評価されるのは、結論の正確性ではなく、問いの深さや観点の複数性をいかに確保し4時間という長い試験時間の中で明示できるかということである。

他人から自分の多くの語りを、ディセルタシオンというひとつの分類にまとめて寄せられて、反例を挙げたくてたまらなくなり、挙げたこと

ディセルタシオンの説明から、深草の話はディセルタシオンっぽいと指摘されたところに戻ろう。

深草自身では当然、長年に渡って雑多なことを雑多に話して来たと思っているところを、いざ実際に他人の口から、客観的にそう分類・総括されてしまうと、思わずいくつも反例が思い浮かんでしまった。すなわち、例えば自分の中でいつもとは異なる例外的なスピーチをした事例や、ディセルタシオンでは推奨されない「冒頭に結論を書くこと」「結論から話を切り出すこと」を意図したこともあると言いたくなり、言ってしまった。

ディセルタシオンと哲学の精神;ひたすら自由を稼ぐ自由クリッカー

だが、後から思い直してみると、確かに私の語りは、ところどころディセルタシオンという作文形式やフランスの小論文試験の規定からきっと逸脱しているのであろうが、それがひたすら「視野を拡げる」姿勢である点は、確かにディセルタシオンっぽいと言える。なぜならば「ディセルタシオンっぽい」と総括(そうかつ)されて、反例を挙げたくなったのは、相手の視野の狭さを示そうとして挙げようとしたのであって、反例提示によって何か統計的な結果を出したかったからではないからである。

すなわち、脱ディセルタシオンもまたディセルタシオン的なものに回収されてしまう、ということでもある。そしてこのようなディセルタシオンの精神に私が呑まれているのは、西洋哲学の伝統、すなわち思考の自由をとにもかくにも拡大しようとすること、あるいはしばしば自由を稼ぐことを結論の獲得よりも優先するという奇妙な哲学の伝統に触れて来たからだと自覚したのである……。

積年の課題;哲学する意義が腹落ちしなかった

ところで、私は哲学や思想の本を素人ながら乱読しても、少なくとも10年前まで、30代に入ってもそれらの意味がわからなかった。哲学するとか思想を持つということは何やらカッコいいことのような気がしたり、ひどく政治的な極端さの現れのような感じもしたが、自分の中でその正体がわからなかった。もちろん「哲学」の名で呼ばれるもの自体が雑多なので、その雑多の中から私が何をこれぞ哲学だこれぞ我が人生で追及すべきものだとしてクリアにピックアップできなかっただけだとも言える。

とにかく、ほとんどの時間、私の頭はピンボケだったのだ。ピンボケがよくないとはなんとなく思っていたので哲学の文章を読んだり他の知識を補充したりしていたが、さりとて仮にこのピンボケが直ったとしたら何が見えて何がうれしいのか、見通しがないままにそれをやっていた。言い換えれば、私は私がもし死ぬ運命なら、それがつまらないことだったとしても、せめて自分が何をやっているのか自覚してから死にたいと思っているのだが、実際は何をやっているのかわからないまま、何かをやっていた。

構造主義への親しみ

目標もわからずに学ぶ中で、どの哲学あるいは思想が好きか?と問われたことは何度もある。自分の中ではラベルで言えば「構造主義」がクールな印象で親しみが持てた。

ただ、構造や図式はいかにキレイに整理されたとてダカラナニ?になる危険があり、事実や事柄に沿おうとすればするほど自己主張としては薄くなるつまらなさもあるのは確かだ。

また、構造主義者の具体例を一応挙げておけば、私は山下正男氏の著作を素晴らしいと思っているが、これは哲学研究者にも実務家にもなぜか人気が無い(だからよほどのマッチングが無ければ推薦できない)。

そういうわけで、長年、理想としては構造主義の語りを自前でしたかった。しかしできなかった。だがそれが近年になってやっとアナロジーを使った語りとしてできるように成った。全然違う事柄の中に共通の構造を自分で発見できる。それを文章に仕立てて語れる。これがうれしかった。

共通構造を摘出手術した後の「だから何?」にどう向き合うか?;価値あるいは実存の問題

しかし、構造主義のデメリットを思い出そう。共通の構造が在るねと語れたとして、その上で、その語りは何のためか?その語りができて何がうれしいか?ということこそが重要だろう。

アナロジーを駆使して構造主義の語りができる。それによって異なる事柄の共通の構造を見据えられる。そうすることの意義は、どの立場でも無い「高み」に立って、眺め得る限りのあらゆる他の立場を見渡せることだ。それによって、部分的な視点を綜合して全体的な観点を〝回復〟すること、思考の自由を無限に稼げることだ。常に「これですべての立場を網羅したと言えるのか?」「これですべての棚を見たと言えるのか?」と問い続ける。そして、新たな観点を輸入・創造・捏造し続けることがこの語りの意義である。

哲学の精神は限りない自由の追求だがそれは解決策よりも優先されるという点で「無」への突進でもある

これは哲学の精神にも通じている。だから哲学と共通の欠点というか奇妙さも当然抱え込むことになる。当然、問題に対する解決策よりもなぜ自由を稼ぎたいのか?というのには究極的には応えられない(つまり、私にとっての哲学の本質がそれだから)が、この自由稼ぎの自覚にやっと手持ちの類推スキルが追いつくようになってきてうれしがっていることを今はただ自覚して執筆している。

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(3,675字、2024.12.06)

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