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〝借り〟と言語 debt & langauges

〝借り〟debt というありふれた現象をどのように捉えるか。それを認識するための言語(専門用語、範疇)にはどのようなものがあるかを考えてみたい。

〝借り〟という現象は日常生活でも、裁判所でも、ビジネスでも現れる。しかし、その認識のされ方、扱われ方は異なる。例えば農村の日常生活では葬式や家造りや大量のトウモロコシの皮むきでお互いに「手間」を借りあっていることがあるという。弁護士は権利義務の観念に基づいて債務という借りを算定する。ビジネスではツケもあるし、手付金(前受金)を受け取っておいてサービスは後から提供することもある。

これらの場面では倫理人、法律人、会計人とでも呼べる種類の人(一種の専門家)がいて、各々の視点で〝借り〟を解釈して異なる特徴付けを与え、独自カテゴリで対象を認識しているとも説明できるだろう。だから、それに伴って運用される倫理言語、法律言語、会計言語が階層的に識別できる。

また、強いて哲学の領域で考えるならば、倫理言語は一種の徳倫理学(この村で美徳とされる恩とは何か)、法律言語は法哲学(公正な権利義務関係とは何か)、会計言語は会計哲学(負債とは何か)によって分析できる可能性がある。

例えば、倫理人は〝借り〟を貨幣によって定量的に取り扱うことにあまり好意的ではない。なぜそう言えるかというと、私たちはそれを〝借りがある〟と表現することもある一方、〝恩〟や〝義理〟と表現することもあり、特に「恩返し」のステレオタイプに貨幣による借金返済・清算のイメージは相容れないからである。倫理人が認識する恩としての借りは、(1)天から貸与された力を遺憾なく発揮して共同体に貢献したり、(2)お互い様の気持ちで義理を果たしたり、(3)相手に常に貸しをつくるようにポトラッチするといった態度をとることによってお返しされるものである。そして、そこでは等価交換ではなく継続的関係の確認としてむしろ多めに貸し返されることの方が多いかもしれない。

一方、法律人は〝借り〟を権利義務関係、あるいは債権債務関係の一部であると考える。倫理人と異なり、そこには実定法にもとづくテキストが根拠としてあらかじめ示されていることが多いだろう。つまり、その言語は立法機関によって制定された規約的なものである。そして制定された法令は暴力装置による強制や司法としての権威、公平無私の理念を背景に伴う。民事訴訟の賠償額などはあらかじめ算定基準があり、失われた人命すらもそこでは貨幣によって測定され、債務となる。

さて、会計人は〝借り〟を負債として、「将来現金の支出」として考えるが、このような定義だと巡り巡って現金で支払う予定が見込まれるものはおよそすべて負債である。だから、法的債務だけでなく、例えば工事の前金(前受金、対価となるサービスはまだ支払っていない)や、提供している商品に不良品が出て確率的に損失が見込まれる場合の積立金(商品引当金)も負債には含まれるのである。だから、恩義も負債も〝借り〟のようなものであるが、まったく異なる印象を受けるのではないかと思う。会計言語を駆使する会計人は将来の支払見込を会計的な合理性によって算定する。また、負債を資産の単なるマイナスとは必ずしも捉えず、資産の言語と負債の言語とを分けるべきだと考える人もいる。なぜならば、資産は現在の資源だが、負債は未来の資源の犠牲であり、時制が異なるからである。

(1,404字、2024.01.11)

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