チルする;共に待つ;発言のラリーそのものを楽しむ。そのために、敢えて閉じない;意図的にクローズしない;終わりを決めない……
先日、括弧(かっこ)について話しました。 我々の人生には「閉じカッコ」がありません。常に開かれています。なぜならば将来はまだ確定していないからです。
ですから、そこに閉じカッコを仮でも設置するのは常に我々自身、あるいは我々の上役や保護者です。言い換えれば、閉じカッコとは人工的なものであり、閉じカッコを正しく配置できるのは我々が訓練されているからです。
我々は実は閉じカッコの「向こう側」にある何かを知っています。なぜならば、それを知っているかあるいは少なくとも予想して仮定しなければ閉じカッコをちょうどそこに置いていいかどうか判定できないからです。しかし、我々の間で「向こう側」、すなわち超越的な領域についての主観的な予想が常にトラブルに陥らない程度に一致するとは限りません。それでも、「向こう側」から、閉じカッコはやってくるのです。
会話の入れ子構造;発言のラリー;会話は構造化しないといけないのか?
例えば、あなたが話題Aを始めたとしましょう。ところで話題Aに出てくる事柄 a に別件の事柄 b がよく似ていて、その内容を相手が連想したとします。そこで、相手は「ところでBという体験をこないだしたのですが……」とあなたの話題Aをいったん遮って中断させて話題Bを始め、bについて説明をし始めるかもしれません。
あなたが相手の話に耳を傾けていると、相手はそこからまた、あなたが既に話した話題Aのaに戻って(=話題Bを閉じて)、「bもaに類似している」というかもしれません。このシナリオでは相手が別の追加の話題(伏線)を通じてあなたの話題Aを豊かにしてくれた(長引かせた)、ということになります。
とはいえ、ここには幾つかの危険もあります。まず、相手はあなたの話題Aに話を戻さないこともできますし、すっかりあなたから話題を「奪い取った」ことを忘れてお話を泥棒してしまうかもしれません。すると、あなたは自分自身の話題を閉じるタイミングを奪い取られてイライラするかもしれません。
次に、仮に相手が話を話題Aに戻してくれたとしても、あなたは自分自身が話した話題Aの内容を相手が話している間ずっと憶えていて、相手の話を聞き取った上で、過去自分が話したことに自分自身で接続する必要があります。これはあたかも相手があなたの作業記憶(ワーキングメモリ、短期記憶)に負荷をかけてテストをしているようなものです。あなたは相手が何と何をつなげたがっているかわからないかもしれません。そこで、結局あなたは「あなたは私の話と関係あるかのようで、実際はまったく無い話をしただけだ!」といって非難するかもしれないし、やはりイライラするかもしれません。ひどい場合には──つまり、相手の話が黙って傾聴するにはあまりにも長い上に先行させたあなたの話とも関係ないとなれば──あなたは「結局、何が言いたいんだ!」「〝結論〟から話せ!」と叫ぶかもしれません。
しかし、このように話を枝葉から幹に「戻す」必要は本当にあるのでしょうか? むしろ最初からしりとりのような、連想ゲームのような、何がメインで何がサブなのかわからないような発言のラリーの方が我々のやり取りには多いのではないのでしょうか? そのような会話の方が我々にとってリラックスできて、ゆるくて、気楽なのではないでしょうか? 相手の発言が常にあなたにとってハプニングであるような話し方というのも可能なのではないでしょうか?
心理、不安、生き方
秩序と不安
人間が投げ込まれた環境において、閉じられて構造があることと、まだ閉じられるかどうかわからない状況とでは異なる反応を示すでしょう。これは、リラックスしているかどうかにも関連します。なぜならば、堅固で揺らがない構造=秩序は実際の治安と安心をもたらしますが、一方でその厳格さに適応できず萎縮してしまう人もいるからです。
他方、極端な状況ではありますが、仮に構造や規則、ルールがまったく無ければ人は不安になり、強者が弱者を好きに取り扱ってしまうでしょう。しかし、それは規則がなく、解放されているという意味では「自由」でもあるし、規則が無いことによってリラックスできる人(そういう人はかつてできなかったワガママができるようになった憎まれっ子かもしれませんが)も出てくることでしょう。
既に挙げた上記の会話の事例で言えば、会話の枝葉と幹を強く意識することと、連想ゲームで次々と話を横に横にと流していくこと、この両方をうまく取り入れなければ、会話そのものを楽しむこと、リラックスすること、あるいは「チルする」ことはできません。「要はバランス」です。
意味への意志
少し話を大きくしますが、精神科医のヴィクトール・フランクルは人生にとって「意味」は重要な役割を演じると考えました。人々は自分自身の人生の中に何か重大な意味を探し求めます(青春時代だけかもしれません)。なぜならば、それがあればもっと快適に生きられるかもしれないし、少なくとも自殺しようと思わないでいられるからでしょう。
このような「意味」もまた、人生の「閉じカッコ」に例えられます。なぜならば、人はただ天寿を全うすること、すなわち、時間経過による死を目指して生きるだけでは満足できず、自分自身で意図的に「終わり」「期限」「目的」「決算」「終端」「見直し時期」を設定したがるものだからです。
フランクルにおける意味、すなわち「閉じカッコ」は既にどこかにあって発見されるべきものだという態度から、むしろあなたはどのような閉じカッコ思い描くかを、この世界、この宇宙、ここから先の将来があなたに問いかけていると捉えているようです。あなたは何等かの意味の到来を待つのですが、具体的に何を人生の意味、人生の閉じカッコとして待つかはあなた自身が創造し選びとるのです。とはいえそれは簡単なことではないし、もしかしたら思ったよりずっと地味なことがあなたの生きがいになるかもしれません。そして、もしそれを見つけられるとしたら、それはあなたが発する借り物の言葉よりも、あなたが生計を立てるために不承不承賃労働している行為の一部かもしれません。これもまた、言葉や環境を超越してカオス(=超越者)に関わろうとする行為です。
ただ、自分で従来他人をみて羨(うらや)んでいた閉じカッコの向こう側、すなわち、確固たる括弧で区切られていないカオスな領域(超越的な領域)からその意味は汲み取られてくるのかもしれません。
数学と構造
例えば、幾何学における点と図形を考えてみましょう。古典的には、点は部分を持たないが、図形は部分を持つとされます。言い換えれば、点には内部が無いが、図形には内部が有るということです。また、数における単位としての1とそれによって測定される量もこれに似ています。なぜならば1はそれ以上分割できませんが、7や13は分割できるからです。ただ、数の場合は0という概念もあるのが厄介なところです。
点や図形を描くのは我々です。点や図形自身は単なる構造や構造の部品であり、それ自体が何か構造を超えたものを指し示すわけではありません。しかし、点や図形を描く我々自身は点や図形を超えた何かです。
哲学;難問;アポリア;ただ始めるために始める;問うために問う
当然ながら、問いと答えはよくペアで語られます。ときどき哲学者がしかつめらしく言うことですが、誰からも異論が出ない答えを確定させるよりも豊かで気の利いた問いを発する方がよいのだそうです。哲学者も結論を出さないわけではありませんが、意見を統一しようという努力が薄弱なのか、はたまた結論を統一するためにむしろ問いをうまくスケールダウンさせる気がないのかわかりません。おそらく、答えのために問いの壮大さを犠牲にするよりはその逆を好むのが哲学者というものなのでしょう。
思想;構造主義
ところで、閉じカッコの話ばかりするのは奇妙かもしれません。あるいは偏りがあるかもしれません。なぜならば、始めに「(」を置いた時点でそれより前と後とが識別されるからです。 その後のどこかで、さらに閉じカッコを付け加えてカッコをペアとして完全なモノとするのは、ただ前後を区別するだけでなく、内外という非対称性をつくるためです。
ここまで、カッコの話をして、それは訓練して書かなければ正しく閉じられないということを強調してきました。なぜならば、我々はカッコを生産する主体として教育(=生産)されるからです。我々自身も〝内側〟(=内面)を持つとされるカッコの一種です(我々に「内面」があることは歴史的に発見されました)。しかし、書かれたカッコ記号と我々人類との違いは、我々はカッコ記号を用いて記号列に書き並べる能力を持った装置であり、カッコの内側だけでなく、カッコの外側(=カッコを超越した領域)に何があるのかを見極めることができることです。
論理学;推論
括弧によって前後を識別し、内外の非対称性を明示し、構造を生み出すことができます。それによって複雑な分類も可能になります。ところが、ただ分類が複雑なだけでは論理学 logic というには不十分です。なぜならば logic とは推論 / 論証 inference, argument を不可欠な任務とするものだからです。
乱暴に言ってしまえば、ただ要素 element を袋に入れて仕分けるだけではなく、それらを組み合わせて計算/演算ができなくては論理学とは言えません。とはいえ、構造があれば、推論規則をそこに設定するのはさほど困難ではありません。具体的に考えてみることもできます。
例えば、都市や頭脳においては、文と文とを結合して新しい文をつくるという推論または計算が頻繁におこなわれます。「東京は大阪の北にある」という命題から、「大阪は東京の南にある」という命題が推論できます(この前提命題は間違っていますが)。あるいは、幾何学において、「△ABCと△DCEとは三辺がそれぞれ等しい」という命題から、「△ABCと△DCEとは合同である(移動させればぴったり重なる)」といった推論が可能となるわけです。
このような推論の経路をたどることで次から次へと定理が証明されることでしょう。そのようなツリーもまた構造です。そしてそのような構造では到達不可能な命題(=超越的な命題)についても我々は思いを馳せることができますし、むしろそれを知ることによって、推論の構造全体に対する特徴づけができます。
個人における頭脳と身体
身近な事例でいえば、我々は脳によって判断し身体を動かしているかのようでいて、実は身体という超越者に依存し、一方的に影響を受けざるを得ない存在者だともいえます。身体は常に外部から我々のメンタルに影響を与える超越者です。
社会;集団;地図;地球
集団における贈与と社会
閉じカッコについて、我々はそれの到来を待ったり、努力して閉じカッコをこしらえようとしたりします。けれども、待つことには積極的なやり方もあります。すなわち、待ち望んでいる何かを我々は呼んだり、祈ったり、祭ったりするのです。また、贈与と返報との関係もこれに類比的だといえるでしょう。私があなたに何かをギフトする。このような贈与はカッコの始まりをつけることです。これによって、あなたにはそれを閉じる〝義務〟が生じますが、これは商取引ではないのです。なぜならば、私は何がどの程度返報されるか知りませんし、返報があるかないかも不確実だからです。
文明圏と周辺;都市と田舎
市場や文明、あるいは都市を重要視して中心とみるような見方は、「中華思想」とか「ネオリベラリズム」とか呼ばれることもあります。しかし、これも複雑な秩序を高評価する系譜で、括弧偏重主義のひとつでしょう。都会あるいは大都市圏において、人々は理想としては「待たない」し「予定をつくってから動く」ものとされるのです。
市場や文明や都市や金融やインターネットは複雑な秩序を形成していて、いかにも自律的・独立的にみえます。ところが、それは事実ではないし〝傲慢〟や〝専横〟でもあります。なぜならば、実際にはそれらの周辺、つまり秩序の外にあって秩序からは手が出しにくい超越者に都市は依存しそこから影響を受けているからです。つまり、都市は地方に依存しています。ひとつには、労働力も依存していますし、また例えば「東京」のような地球一の大都市圏が郊外に無限にスプロールするためには、かつては「東京」ではなかった土地が必要になるからです。
誤解を防ぐための補足
なお、現象学とかフランス現象学の専門的な言いまわしにも「カッコ=ギュメに入れる」というのがありますが、特に本稿では念頭においていません。「ギュメにいれる」とは日常的には焦点化されがちな実在をまとめて棚上げして考察から外しておくという程度の意味と承知しています。
(5,328字、2024.11.16)