無職が社会支援を受けるときの気持ち Feeling of jobless person when he takes social supports
若い頃、正社員で入った技術系の会社を逃げ出して辞めて、それから2年ばかりすっかり何もする気を無くしていた。会社を逃げ出さなければならなかったのは業務内容云々以前に集団における人間関係がダメで、人間関係がダメならどこにいっても生き延びられないと判断したからである。もっと具体的に言えば、人とうまく目を合わせられず、物理的に首を回して周囲の様子(つまり雰囲気)をサーチするクセが無かったからだとも言えるだろう。
何もせずにわずかな貯金を食い潰したり、知人に紹介してもらったアルバイトでヘマをしてクビになったりしていた。途中からは親からのススメもあり、発達障害の相談や診察を受けることになった。
障害者というのは言うまでもなく特殊な立場である。発達障害の相談をおこない、診察を受け、各種の検査を受け、子供の頃の体験も交えて生活の様子を話し、診断を受け、さらに書類に書くためにまとめた内容を社労士の人と相談し、障害者手帳を取得し、就労移行支援を受けるかどうかを検討する。これらのことが非常にゆっくりと進む。一ヶ月で終わらない。私は一年ぐらいで一応、障害者手帳を利用しての障害者雇用のアルバイトをすることになったが、一年以上かかる人もきっと珍しくないだろう。
将来の展望がなく、未熟で経験も浅く、なんなら体調も気分も悪く、先天的な障害も診断された無職なわけであるから、もともと悲観的である。それでも、支援機関や病院へ行くために身体を動かして外出しただけは、少し気分転換には成っていたのかもしれない(良い方に転換したかはともかく)。
とはいえ、支援者の人やお医者さんは就労を目標としながらも、「今はあせらず、体力の回復をまちながら療養しましょう」と言ってくれている。実にもっともな言葉だし、それ以上に言うべきことは無いのであるが、当時の自分としては「自分には何もない」「何も稼げない」「何も人のために成れない」と思っていただけに、そうした「支援者」や「医師」の人の配慮のある対応がそれも含めてすべて「賃労働」に見えたこともあった。
こちらとしては、結局働くことがターゲットならどうすれば……と焦りまくりであるし、「なにもしない」とか「リラックス」とかコトバで言われてもそれが一体何をすることなのかわからない。しかもそれがわからないのが障害の一部であるかもしれない(つまり、わかろうとしてもムダかもしれない)。考えて悪あがきすればするほど深みにはまる。私のような態度はプライドが高くてせっかちに見えたのかもしれず、私のようなタイプを支援者の人や専門的な医師は数多く見てきたので、きっと「あせらないで」と言ってくれているのだろう。ただ、支援者の方は主に公務員だったり士業の方であったりするし、医師の方は言うまでもなく医学部に通って難関資格に合格したエリートとしてそこにいて、一体全体当時の私のような「無職」に対して寄り添える前提があるのかという考えも一瞬よぎってしまったのである。
もちろんそんな風に敵対的に解釈する必要はない。「無職」なのにきちんとした専門家から手厚いサービスを受けられるのは素晴らしいことだ。有難いことである。しかしその一方、支援者に依存し過ぎてもいけないわけだから、やっぱり支援者は仕事として私に接してくれていることも事実だ。自分が一番心細いかもしれないときに、敵対もせず依存もせずうまくサービスを利用する──これはこれで、当事者にとってひょっとしたら生まれて初めて直面するかもしれない難しい課題のひとつではないかと思う。
(1,458字、2023.10.12)