心が現れるから洗われる?
今回はオカリナという、えんじろうの生きる目的となっている楽器のお話です。よくオカリナ演奏をお届けすると、お客様から「心が洗われました」とか「純粋な心が音に出ていますね」とかいうコメントをいただけます。
罪の意識と勘違い
実はこのセリフをいただくと、えんじろうは心が痛むのです。言ってもらっては困るという意味ではないのですが、自分はそんなに心がきれいな人間でもないし、卑しい部分もたっぷり抱え込んで生きている。それなのに「心が純粋」などと言われると、まるでオカリナで人を騙して歩いている人間のような気持ちになってしまう時があるんです。
エゴと勘違い
でもこの気持ち、自分のエゴから生まれているものだということに、さっき気が付きました。
お客様が言った言葉は「心が洗われました」と「純粋な心が音に出ていますね」です。誰もえんじろうの心意気を褒めているわけではなく、そんなふうに感じられるオカリナの音色を褒めてくださっているのです。
いわゆる「自意識過剰」っていう、えんじろうが結構嫌っている感覚を自身で描いてしまった結果だということです。
的はずれなピエロ
こうなると「いや、そんなことないですよ」などと腰を低くしている自分の行動さえ滑稽に見えてきて、恥ずかしくなってくる。なんだか「的はずれなピエロ」っていう気分です。
心を洗うオカリナ
人の心は絶えず色んな色に染められ続ける存在のように感じます。それは生きていく仕組みだと思うので必要なことであり、それが嬉しいときもあればそれが嫌なときもあると思います。
色んな色に染まる心
勘違いしてはいけないのは、染まるというのが上の写真みたいに汚い色になることだけを指すのではないというところだと思います。美しい緑一色とか、ピンク一色とか、染まったらそれできれいだなあと思える場合もある。
それじゃあいづれ真っ黒に?
とお感じのあなたは鋭いですね。そのまま様々な色に染められる一方ならば、確実に真っ黒ケッケ(子供の頃言われた言い方)になりますね。
でもそうはならないんです。なぜでしょうか?人は忘れる生き物だからです。忘れることによって透明度が回復する。そう感じます。
宇宙規模の包容力
そしてオカリナを聴いたり吹いたりしているときには、またちょっと違うんです。
オカリナの音色には、人の心を覆って撫でてくれるような暖かさがあり、それは忘れかけている「優しさ」を呼び起こしてくれる気がします。小鳥のさえずりを聞くと心が安らぐ、というのと似ているかも知れません。
とにかくすべての状況をただ黙って受け止めてくれるような、そんな宇宙規模の包容力を感じるのです。
そんな宇宙規模の視点の前には、目の前の壁のような考え事でさえ些細なちりのように思えてしまい、笑っちゃいそうになるわけです。その心境こそが「心が洗われる」という瞬間なのではないでしょうか?
心が現れるオカリナ
次に「純粋な心が音に出ていますね」の部分について考えてみます。
えんじろうは別に聖人(聖者の人)じゃないし、自由に好きに生きていたいと強く願う「我欲の塊」です。だからその気持のまま吹いていたら、スペシャル詐欺師でない限り「純粋な心を感じる音色」なんてものは出ないはず。
もし出せるのなら、僕が信じていた「心がそのまま音になる楽器」という定義がひっくり返されてしまいます。そんなのやだ。
そして考え抜いた末、至った結論が「確かに演奏中の自分は純粋なのかも知れない」ということです。
純集中!
先程は忘れることで純度が回復すると書きました。でもそれは全体の話で完全な透明に戻るには、赤ちゃんの頃にまですべてを忘れるしかありません。
でも他にも瞬間的に透明になる手段があるのです。それが「純集中」です。今考えた言葉ですが、透明でない部分の自分を一時的に切り離してしまうのです。多分僕はこれをしているのでしょう?
ガラスのハートのようになったえんじろうは、オカリナを手に構えた瞬間から「オカリナを最高の音色で吹きたい。なぜならば自分がその音色を聴きたいと願っているから!」という気持ちだけになっています。
だから「確かに演奏中の自分は純粋なのかも知れない」と思えるのでしょう。
いつでも純粋になれる
結論としては、人はだれでもいつでも「純粋になれる」ということ。
ときどき「私心が汚れているからきれいな音が出ない」なんて言う人がいます。これからは「吹くことに集中すれば、その間心は透明になれるんですよ」といえば納得していただけそうですね。
ところでこれ、いつでも純粋になれるから普段は不純でいいって話じゃないですからね!
それどころか純集中力を繰り返しているほど、その度合を調整できるようになってゆくかも知れません。うまく行けば心の純度をコントロールできるようになったりシて。
できれば常時穏やかでありたいですからね。えんじろうは全然普段はそうなれていないと感じていますが、そうありたいとは思っています。
心の修行は続くのでありますが、それはオカリナを吹くことだから苦行じゃないです。ありがたいですね。
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