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交換日記を1か月半続けてみて思うこと。

完全に思い付きでTwitterで呼びかけ、それにしあんが応えてくれて、あれこれ喋りながらとりあえず、ということで始めてみたこのアカウント。

まず一番最初に思うのは、こんなにたくさんの投稿をするとは思わなかった、ということ。
最初は文章を書くことに不安を漏らしていたしあんも、書き始めてみると、私の日記にすぐに呼応してくれて、私もそれにすぐ共鳴して日記を書きたくなり、振り返れば1か月半で28本もの日記が投稿されている。なかなか多作じゃん?

それから、私は書きたいことを事前にまとめておく、といったことはほとんどしない。
しあんの日記や他の方のnoteを読んで感じたこと、書きたいと思ったことがもやもやと風呂の湯気のように生じていき、それが消えないうちにnoteに書き留める、あとは脳からキーボードを叩く指へ伝わる神経の動きに任せるまま、といった様子である。

だから長くなるし、何が言いたいのかよくわからない日記になってしまうのだが、日記だからいいよね、とも開き直ったりしている。

さっき読んだこちら↓のnoteに、本の紹介や情報系はクリックやスキがされやすいが、何が得られるのか分かりにくい日記やエッセイは読まれにくい、クリックされにくい、といったことが書かれていて、それは確かに!笑と思った。

日記やエッセイというのは恐らくかなり属人性が強く、自分が魅力を感じている”この人”が普段何を感じているのか知りたい、という動機で読むことが多いのではないだろうか。だから、SNSとの紐づけをほとんどしていないアカウントの場合、ある程度記事を読んでみて、それを書く人間がどういった人なのか、どの程度自分が共鳴できる人間なのかが分からないと、読む気になれないのかもしれない。

そういう意味でいうと、本当は私もTwitterとの紐づけを行ったほうがビューやスキが増えるのかもしれないが、私のTwitterアカウントは友人知人で溢れているため、表出しにくいことが多い。(たとえばジェンダーアイデンティティのこととか、病気のこととか)

だから、「はじめに。」でも述べたように、あなたにとって誰でもない人間のとある一つの物語として私の日記を読んでもらえれば、それで満足かな、という気持ちはやはり変わらない。

とはいえ、そろそろ早速、ネタ切れの予感もしている。
当初書きたいと思っていたテーマについては早々に触れてしまったので、今後は読書記録とか日常記録が主になるのかなぁ、と思ったり。

ちなみにこの交換日記の中で一番「バズった」のはアダルトチルドレンについての読書感想文だった。

アダルトチルドレンというのは、その界隈で言えば比較的古い用語だと私は考えていたが、案外そうでもないんだな、この言葉によって自分を再定義しようとしている人が多くいるんだな、ということをひしひしと感じた記事だった。

その一方でスキもなくビューもない記事というのも当然あり、むしろそちらのほうが多いのだが、あまりその評価に重きを置かないようにしたい、と考えている。
どうすればスキされる記事になるか?ということと、どう書けば自分自身を物語ることができるだろうか?ということは、全く異なるベクトルを持つものだと思う。

分かりにくい文章を書いていれば当然受け入れてくれる人は少なくなるが、分かりやすいものに溢れた世界はそれほど魅力的だろうか?
分からないからこそ、もっと知りたい、分かるようになりたいと思うのもまた人の心理であり、この世界の真理でもあると思う。そして、そうした人に理解されない分かりにくさを自分が持っているのだとすれば、それが自分自身の持ち味なのだと思いたい。それをこそ、表現していきたい。
私は最近そんなことを考えている。

といったって結局書くことは凡庸で、誰かがすでにどこかで触れていることばかりなのだと思うが、時々誰かの心に届くこともあるだろう。
そうやって私にとって誰でもない誰かに届くことを目指して、これからも続けていきたいと思う。

追伸になるが、しあんと同じで推しを推せないときは私にもたくさんある。
最近までそうだった。
私の場合、それは元気かどうかの基準というより、推せるときと推せないときの大きな波があり、推せない波が大きすぎるとその推しは過去の人へと変わってしまう。
そもそも日常的に何かにハマり続けるということが苦手なのかもしれない。
それでもその存在に心が救われる事実は確かにあるし、自分のことをファン失格とか考えたくない。
今はそういう時期なのだ、と考えて、ひたすら自分自身を養生してほしいと思う。

(緑青)

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