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冬の夜の刹那ー心に残る爪痕とはなんだろう

「あれは一体何だったのだろう、何んと名付けたらよいのだろう」、という
小林秀雄の呟きを思い出しました。大学受験の国語の試験によく取り上げられた、評論家小林秀雄の「当麻」の一節です。梅若満三郎の能「当麻」を観た帰りの雪道での思索。小林秀雄でなくても、ワタシ程度でも、あれは何だったんだろうと思う瞬間があります。

秋の事ですが、30年ぶりに映画「バベットの晩餐会」を観ました。ザッピングの途中で、NHKのBSPに差し掛かった時、ちょうど始まったタイミングでした。そして最後まで観てしまったのです。
1989年2月に公開された時、ワタシは23歳。ミニシアターで上映され、今で言う“意識高い系”が観る、おしゃれグルメ映画として扱われました。所謂グルメブームが最初の盛り上がりを見せていた頃です。

観終わった時、今まで全く思いもしなかった感慨に囚われました。まったく違う映画でした。グルメ映画として見た若僧は、60歳の手前にして、老い、年齢、人生の、出会いのタイミングを考える映画だったと気づきました。そして、図らずも、グルメブームの来し方を、自分の経験で辿っていました。

社会人としての最初の年、初任給をホテル西洋銀座のメインダイニング、パストラルで使いました。パストラルのグラン・シェフは鎌田昭男氏。六本木にあったオー・シュバル・ブラン(ベテランのメーテル・ドテルがその接客でも知られていた)は、ランチでの一度、伺ったことがありました。その時受けたメーテル・ドテルの洗礼は忘れられません。そしてチーフ・ソムリエは、やがて世界チャンピオンとなる田崎真也氏。当時の日本では初めての“スター”を集めたレストランでした。
記憶では、この店で「バベットの晩餐会」に登場した料理を再現する会が催されたことがありました。流石に、ワインの年代は同じものではなかったように記憶しています。
当時は、料理番組を作っていました。フランス料理がらみの番組企画をいろいろ会議に提出していたのですが、その席上、「日本にはフランス料理は根付かない」、と言われたことを思い出します。現実は、皆さんがご存知の通りですが。

宴の後、登場人物たちが戸外に出ると、道に雪が降り積もった道を歩きながら、神の祝福を祈る言葉を交わすシーンがあります。凍てついた星空の下を、覚束ない足取りの老人たち。ワタシは、このシーンで星空と夜の暗さから、冒頭のように小林秀雄を連想しました。さらに、作中の人物たちが、今食べたばかりの料理とその食事の時間が、いったいなんだったんだろうという思いを持って、家路についた光景そのものが、「当麻」の冒頭、雪道での小林秀雄の問いと重なるのです。

オーケストラを観る機会で、毎度、残念というか、何だかなぁと思うのが、曲が終わるや否やの「ブラボー」の掛け声です。何故、余韻が無くなるのを待てないのだろうと思うのです。でも、今の状況下ですと、“声援”は不可なので、その恐怖を感じる心配がありません。
NHK交響楽団の第1945回定期公演は、指揮ガエタノ・デスピノーサさん、コンサートマスター白井圭さんで、ブラームス「ハイドンの主題による変奏曲 作品56a」、バルトーク「ピアノ協奏曲 第3番」(ピアノ:小林海都さん)、シューンベルク「浄められた夜 作品4」というメニューでした。
ブラームスもバルトークも良かったのですが、「浄夜」(慣れたタイトルがこちらなので)は聴かないと損、の演奏でした。デスピノーサの腕が降り、動きが止まった時、無粋な拍手が起きるとかと一瞬、恐怖しました。しかし、曲の終わりに緊張をもたらした空白の間が観客の間にも保持され、デスピノーサがその緊張を解いた時に、拍手が空白を埋めました。
音が、音楽が創造された瞬間に消えていく儚さ故の美しさを堪能しました。ワタシには、力演という言葉が浮かびました。N響の名手たちが、その力量を余す事なく披露したように思えました。コロナ禍で予定が変更になって、演者と演奏曲目が変わったので、会場に来るのを取り止めた人が多かったのか、空席が目立ちました。でも、来ればよかったのに、という演奏でした。1月の末にテレビ放送があるようなので、それも楽しみにしています。

東京ではしばらくぶりの厳冬の入り口の日に、緊急事態宣言の合間、今夏に観たNODA・MAP「フェイスクスピア」がWOWOWで放送されました。野田秀樹さんの作・演出の舞台です。主演が高橋一生さんということで、切符が高嶺の花でした。もう一度、観たかったのですが、それ以降、切符は取れずじまい。大坂の公演に行こうか考えたくらいでした。テレビ放送があると知って、それが待ち遠しかったなんて、しばらくぶりです。

舞台そのものと舞台収録されたものは、ずいぶん印象が異なります。カット割されて、グループショットやアップショットがあるからです。テレビの舞台中継(収録)は、複数のカメラを用い、それぞれに役割を与えて、視点を補助するように、カットを割って、収録します。一方、人間の眼は、見たい対象を自由自在にサイズを変えて、脳に焼き付けるます。舞台全体から個々の俳優さんの顔までの無限階調ズームは無論、素晴らしいものなのですが、その持ち主の加齢等の条件によるフェイディングが玉に瑕です。

テレビでは舞台が明るい!ワタシの眼には、あんなに明るく見えませんでした。また、野田秀樹さん演じる狂言回しのフェイスクピア(シェイクスピアの子孫!)が、野田さんの加齢のためか、小さいおばあちゃまのように見えたのですが、それがさらにマシマシ感をもって迫ります。でも、それはそれ、です。

ストーリーは、フィクションがノンフィクションによって完結します。(なんのこっちゃ!?)ワタシは、初めての野田秀樹作品でしたが、最初から引き込まれてしまいました。あれほど、舞台に集中して観たのは、初めてかもしれません。

“筐から溢れ出した言の葉は、音になって消える。消えた言の葉には重力がない。だから、天に向かって舞い上がる。その言の葉は目に見えないまま、天空の高みに消えて行く。”

共演の白石香代子さん、橋爪功さんはやはり上手い。何より、主役の高橋一生さんの声、表情に魅了されました。NHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」では、少々、演技が鼻につくなぁと思っていたのですが、同じNHKの「岸辺露伴は動かない」シリーズでは、それが功を奏しています。今回の舞台では、圧倒的な存在感の主役でした。岸辺露伴、ちょうど、新作の放送もありますから、この年末、ワタシ的高橋一生ウィークを堪能できて幸せです。(「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズについては、また別の機会に。)

それぞれ、映画、音楽、演劇というジャンルの作品です。しかし、それぞれ、ジャンル名ではなく、さらにそれぞれのタイトル名や作家の名前を超えて、何か別のものとして、記憶を呼び起こす何かとして、ワタシの中に残りました。来年も、あれはなんだったんだろうという瞬間がたくさんあればいい。
大学受験、そろそろ時期ですね。ワタシの解釈では、国語の点数は大したことにならないでしょう。でも「美しい「花」がある。「花」の美しさと言う様なものはない」。美しい「藝」にまだまだ出会いたいのです。

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