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道草の家のWSマガジン - 2024年9月号


誰かを頼るということ - 清水よう子

休職することにした。
自分が使うことはないだろうと、思っていた手札だった。ずっと体調は悪かったが、何とかコントロールしてやっていけると信じていた。

ある日の勤務中、その日は仕事にゆとりがあったので、ぼんやりと考え事をしていた。すると、最近、本当に自分が頼りたい方法で、他者とコミュニケーションを取っていないことに気がついた。
ずっと、1人で生きなければならないと思っていた。辛くても1人で問題を解決しないといけないと思い込んでいた。スモールトークからの流れで、何となく悩みを話すことはあるけれど、今の仕事を始めてから、改まって悩みを聞いてもらう機会は以前と比べて減ったように思う。それか、いやーほんと参っちゃったよ、みたいなテンションで、深刻さをあまり出さないように振る舞っていた気がする。

そんなことをつらつらと考えていると、胸の詰まる様な感じと、動悸が止まらなくなった。この不調は今に始まったことでない。身体がエラー信号を出している。誰かを頼らないと、1人では今のこの状況に太刀打ちできないと感じた。なので、友人に話を聞いてほしいと縋るようにチャットを送ると、すぐに返信が来て、その日の晩電話をすることになった。
退勤時刻まで何とかデスクに収まり、逃げるように会社を出て、家に急いで帰る。他者の存在を感じることそれ自体がストレスだった。早く自室で1人になりたかった。
帰宅し、一人きりになるとホッとして少しだけ冷静になると、休職が頭をよぎる。
休職。
会社には嫌な人が誰もいない。誰もわたしに過度に期待しないし、何かを押し付けられることもない。なのに、ストレスを抱えてしまう。
このストレスの要因は分かっている。自分で自分に高いハードルを課し、それを超えている他者と比較し、できない自分を攻め、自らを惨めにしていく。
わたしが感じる惨めさは、自分で作り出した幻想だ。

友人と電話する約束の時刻になったので、電話をかけて話をする。
一般的な価値観ではなく、あなたがどうしたいか、それが一番大切だよ。あなたはどうしたい?
以前よりも随分と穏やかになり、彼女自身に優しくなった友人にそう尋ねられた。
話しながら考える。わたしはどうしたい?
身体が精神が、限界だと訴えている。だから、休みたい。回復するための時間が欲しい。
通話を終え、早速上司に休職することを伝えるための文章作成に取り掛かる。休職願いの文面は生成AIに作ってもらい、出来上がったものに少し手を加えた。文章をメモフォルダに保存し、薬を飲んで、現実から逃げるかのように眠りに落ちた。

ストレスにもっと強ければ、ストレスをもっと感じない様な性質だったらよかったのに。そう思ってしまう自分がいる。しかし、これがわたしなのだ。ストレスを感じやすく、脆さを抱えた人間がわたしだ。
この先どうなるか分からない。復職できるのか、会社を辞めるしかないのか、何も分からない。けれど、諦めずに試行錯誤を繰り返せば、きっと欲しい未来が手に入ると信じている。深刻に考えすぎず、気楽に休職期間を過ごすことが今の一番の目標だ。


太陽の流転 - UNI

聞くと、眠りにつけなくて処方薬を飲むという人がいる。たまたまなのか、わたしの周りでは少なくない人がそうしている。眠れないことはどれほど心細いことだろうか。夜は気持ちが落ち着くことはあっても、明るい気持ちになることはそれほどないだろう。それだけ太陽のちからは心に作用してしまう。

いっときわたしはあまりに明るいので、「太陽」と呼ばれていたことがあった。わたしの役割は「太陽」だと受け止めて、精いっぱい照らそうとした。それでもわたしの知らないところで地面は割れた。あまりにも前向きすぎたのか、「あなたのようにはなりたくない」と言われたこともあった。

今月、株主総会で承認されるとわたしはある会社の代表取締役になる。いつ畳むかわからない会社だし、社員はいない。前任者に「正直、わたしが畳む人になる、と覚悟してます」と言ったら「そうね、申し訳ないけど」と言われた。でもハナから諦めているわけではなく、あがけるまであがくつもりだ。

いろんなことを相談できる人がいなくて、タロットカードをひいた。「正義」と出た。わたしの正義は誰かの不正義だ。好きなようにしよう、ととらえた。

そんなことを書いたけれど、相談できる人は、本当はたくさんいる。だけどよりかかりすぎることが怖い。誰にどれだけよりかかっていいのか、過積載量を知らせるブザーのように鳴らしてほしい。タロットなんてと思いながらカードをくる。タロットなんて、と思うくらいでやっとわたしとタロットの間にいい距離ができる。

原始、女性は太陽であった、と平塚らいてうは書いた。ここから書くことは趣旨はまったく違うのでまず平塚らいてうさんにはひと言お詫び申し上げたいのだけれど、人は太陽であり月であると思う。照らし照らされてやっと光を発することができる。それくらい人はふにゃふにゃとしていて、誰かに寄りかかりながら日々を過ごしている。

最近わたしは少し眠れなくなっている。ただ、寝入るのは変わらず早くて、ラジオのオフタイマーを30分にしても最後までの記憶はないほどだ。朝起きてしまってから二度寝ができなくなっている、というのが正しい。眠れない人たちからすると、それを「眠れない」と言うな、だろう。想像上の眠れない人たちから怒られながら、それでもわたしはややプレッシャーを感じているのかもしれない、とは思う。

どこまで照らすことができるだろうか。一年前には想像もつかなかった道を、わたしは歩いている。


狐狸の蕎麦屋 - スズキヒロミ

 ある町に引っ越して間もない冬のある日、昼飯を食べようと思い、気になっていた蕎麦屋に入ってみた。その店は、もう20年くらいは営業しているような様子で、建物は年季が入り、換気扇の排気口も油で黒光りしていた。  
 私はいくぶん期待しながら暖簾をくぐった。
 客は誰もいなかった。
 店のオヤジは、ストーブ脇に置いた椅子に腰掛けて新聞を読んでいた。
 オヤジは新聞をたたみながら「いらっしゃいませ」と言って厨房に戻った。彼が店主のようだった。
 何の不思議なこともない。
 しかし、なぜか私は戸惑っていた。見直しても、目に入る全てに不思議なものは何も無い。にもかかわらず、席を決めるのも忘れて、店の隅々までつい見渡してしまった。
「お好きな席にどうぞ」
 お茶を持って戻って来た店主にうながされて、私は目の前の席に座った。
「決まったらお声掛けください」
 店主はまた厨房へ戻っていった。
 私はお品書きをめくりながら、自分の感じている違和感にまだ戸惑っていた。
(ストーブが効きすぎてるのかな?)
 その日はよく晴れていて風もなく、冬ではあるが暖かいと言ってもいい日だった。私は天ざる蕎麦を頼んだ。
 店主が入っていった厨房入口の近くに置かれている石油ストーブは、昔、私が通っていた小学校で使っていたものと同じ型のように見えた。天面にはやかんがかけてある。
 なぜそう思ったかわからない。ほかの店や人の家で、そんなことをしようなどと思ったことはない。が、その時はなぜか、そうっとそのやかんのふたを持ち上げて、中を覗いてみたのだった。
 見るとやかんの中には、タバコの吸い殻がびっしり沈んでいた。煮え出ていた湯は麦茶のような色をしていた。
 私は音を立てないようにそっとふたを戻し、席に座った。今の私であればそのまま即座に店を出るところだが、当時の私は、ともかく食べて代金を払ってから出ようと考えた。
「お待たせしました、天ざるです」
 運ばれて来た蕎麦を半分ほど食べたところで、胃の中がまるで石を飲んだように痛み出した。もう限界と思い、代金をテーブルに置いて、黙って店を出た。店主がこちらを見ていたのかどうか、分からなかった。
 蕎麦屋の建物の角で(出されたお茶は何色だったろうか?)と思った途端、こらえきれず戻してしまった。お金を払って飲食して、そんな目にあったのは初めてだった。
 数年後、たまたま車でそこを通りかかったことがある。あの蕎麦屋のあった場所を見ると、何事もなかったかのように、そこだけ更地になっていた。私は(あの時は狐か狸に化かされたのだろうか)と思った。



小さきもの - RT

台風が来る来るというのにゆっくりとした進み方で来る日がどんどん遅れていく。たくさんの人の予定に影響が出ているようで、わたしは金曜日鍼灸院に行けるかどうか気を揉んでいたけど当日どうやら電車が動いてくれるらしいので、早めに出かける用意をして電車に乗った。

三十分早く着いたのでいつもの古墳に行くことにする。チョウトンボはまだいるだろうか。しばらく来ないうちに葦がずいぶん伸びて青々とした丸い繁みがいくつも出来ている。葦の隣に黄色い花が咲いている。湿地に咲く黄色い花の名前はなんだろう。家の近所ではいつの間にか蝉や蛙の声はしなくなり虫の音に変わっているけど古墳ではツクツクボウシとウシガエルが鳴いていた。曇っていたのに晴れてきて額に頬に汗が滲んでくる。

鳥達の姿は見えない。木立の中に避難しているのかな。亀が甲羅干ししている。ずいぶんとのんびりしているね。人間は台風で大変だよ。ここら辺りにも風が吹いてくるだろうからすぐ水の中に逃げるんだよ。と考えながら写真を撮った。トンボがツーっとまっすぐ飛んでいく。チョウトンボではない。

前方から車椅子に乗ったおばあさんと娘さんか介護の人か、車椅子を押している人の、二人連れが歩いてくる。介助の人はおばあさんにいろんなことを話しかけながらにこにこしていた。

「なにかいるんですか?」と話しかけてくれたので、亀がいることや、蝶々みたいに羽ばたくトンボが夏の初めにいたので今日もいるかなと思って見に来たこと、などを身振り手振り交えながら話した。
介助の人に話しながら、時々おばあさんの顔を見る。
車椅子利用者の友人と出かけていると、ほとんどの店員さんがわたしに向かって説明してくる。友人の方が年上で人生経験も豊富でしっかりしているというのに、だ。それが差別であるとは言い切れないけど、悲しいような申し訳ないような気持ちになるし、わたし自身が精神障害者はちゃんと話し相手にならないと思われたりするのは寂しいので、ふたりの顔を交互に見ながら話した。

あそこに見える、二つ目の繁みの辺りにカイツブリが巣を作っていたという。そうなのですか。いまはどうなっているかわからないという。見たかったです。カイツブリってタニシの仲間みたいな名前だけど後で調べたら鴨にそっくりな鳥だった。初めて知ったこと、鴨は水に潜れないんだって。だからいつも鴨だと思って見ていたのはカイツブリだったのだ。水に潜ってどこから出てくるかなと思ったらずいぶん遠いところでひょっこり頭を出して、水中でどんなに速く泳いでいるのだろうとびっくりする。
「ここは春は桜を見られるし、いつお散歩に来てもいいですね。」「おばあちゃん、今日ゲートボールの人達いてないね。台風でお休みかな。」とか、短い間だけどいろんなお話をした。わたしはここの駅の鍼灸院に通っていて、早く着いたのでちょっと古墳に寄ったんです。と言ったら、介助の人が、おばあちゃん、お姉さん(!)はここの病院に来てはって、時間があるからちょっと寄ったんやって。と話しかけておられた。
「そろそろ行ってきます。」と頭をさげて歩き始めたら、それまで一言も話さなかったおばあさんが、「お大事にー」と大きな声で何回も言ってくれた。

車椅子を押してもらって、話すこともなく、うん、うん、と時折うなずくだけだったから、もしかして痴呆も入っているのかもと思っていたので、とても驚いたのと同時に、お世話されている人だから可哀想、という思い込みが自分の中にあったことに気付いた。

お大事にという言葉がすごく嬉しくて心がぽかぽかしていた。わたしがいつか年をとって体が不自由になったとして、人を思いやる言葉がとっさに出てくるだろうか。あんな素敵なおばあさんになれたらいいな。

小さきもの。という言葉が浮かぶ。わたしは自分を世界で一番小さい存在だと思うことはあまりない。むしろ自分のいるところが世界の中心くらいに思っている。だから繰り返し繰り返し教えられるのかもしれない。悲しいことが起こったり、心を病んだりして。
渦中にいる時は苦しいだけだけど、少し後になって考えると、おまえはもっと優しくなりなさいと言われているように思う。悲しい時小さきものに心を寄せる気持ちになる。嬉しい時は調子に乗る。
神様が小さきものの目で世界を見るようにと言っておられる気がして、そのことを忘れないようにしようと思う。少しはましになれてるのかな。
働けない自分には価値がない、なんて、思い上がりだったかもしれない。自分にはまだ言葉が残ってる。優しい言葉で話したり、微笑むことだってできる。それが世の中を照らすことに遠くても繋がってるかもしれない。今日ここに来ておばあさんに会えてよかった。

先日自由港書店さんで詩人の池田彩乃さんの朗読の会に行って、年齢も来たところもバラバラで初めて会った4人が、ベンチに身を寄せ合って座った。芝生で輪になったり、灯台の前で朗読を聞いた。
池田さんはまるで灯台守のようだ。言葉で私たちを照らしてくれる。言葉の持つ力を思う。灯台を守り続ける人の孤独を思う。

鍼灸院の受付で「お願いします。」と言った。いつもより心を込めていた気がする。先生が他の患者さんと話しているのを聞く。中学の時親のお金を盗んでボコボコにされたとかお祖父さんに殴られたとか。先生にもそんなことがあったのだとなんだか親しみを覚える。
殴られたことは傷だと思っていた。傷からまだ血が流れていると思っていた。けれどもうカサブタくらいになっているかもしれない。コロッと剥がれて新しい皮膚が現れるのかもしれない。わたしたち患者に大きな安心を与えてくれる、先生もまた、灯台守のような人だ。

買い物だけして急いで帰るつもりだったけど空が青いから喫茶店に入った。美味しいモーニングを食べて、お会計の時「ごちそうさまでした。」と言った。いつもより心から言えた。サマーブレンドの珈琲がとても美味しかった。

胸焼けしない珈琲を淹れてくれるお店って案外多くないんだ。


誰がために服を着る - 橘ぱぷか

母はおしゃれをすることが大好きで、私が物心ついたときから様々なファッションに身を包んでいた。
安室ちゃんにハマっていた時にはミニスカートや厚底ブーツを履いたり。ピンクハウスに夢中になりはじめたときにはフリルやリボンたっぷりの服を着てみたり。
歳を重ねた今でも変わらずに自分の好きな服を着続けていて、すこし前にはしょっちゅうご当地キャラのくまモンのTシャツを着ていた。その他にも、ばーんと目立つ色やプリントもの、華やかな柄のワンピース。
テーマパークに行く時には必ず好きなキャラクターのかぶりものを買っていたし、いつでも母のファッションには自分の「好き」が溢れていた。

けれどもいつしか私は、それを苦々しく思うようになっていた。
派手な服は目立つからやめて欲しい。隣に立つのが恥ずかしい。もういい歳なんだから落ち着いた服を着てほしい。

でもそれって、本当に私が心の底から思ってたことだったんだろうか。

気がつけば私もギャル期の母の歳を越え、結婚して子どもも生まれた。妊娠、出産、子どもの赤ちゃん期を経て、それ以前に着ていた服たちに袖を通してみたけれど、悲しいほど似合わない。衝撃。体型も変わったし、30もとうに過ぎたし?  仕方がないよね、でも何を着たら良い?

ああなんかイマイチだけどとりあえずなんとなく、で服を選ぶ毎日を過ごす中、このままじゃ嫌だって強く思った。そこで、やんわりと気になっていたパーソナル診断なるものを受けてみることにした。決して安い金額ではなかったけれど、えいっ! と予約し受けてみる。すると、それまでの硬い壁とか鎧とか鱗みたいなものがパラパラと崩れていくのがわかった。自分に似合うもの、自分が好きなもの、他人からどう見られたいか、自分がどうありたいか。そんなことが自然と掘り下げられていって、それらの良いバランスを探っていくうちに、わくわくする気持ちが舞い戻ってきた。
ふだん敬遠していた目立つビビットな色や、自分には決して似合わないと思っていた紫やピンク。これまでは色を使って隠れるようにしていたけれど、まるで色が味方になってくれたみたい。

それから少しずつ自分の本当な好きな服を選べるようになって、同時に「わたし」が戻ってきたような気がした。どんなテイストであっても、いくつになっても、自分の好きを大切にしている大人たちはなんて素敵なんだろうと心の底から思えるようになった。
ものすごく遠回りをしたけれど、今、私の心はいちばんフリーダムでいられているような気がする。

自分の好きな服を着ること。自分の「好き」を守ること。それはわたし自身を大切にすることでもある。まず私が「わたし」を包み尊重すること。合わない誰かの視線や思考に沿わせることなく、ちゃんと自分の目で見てその心に従うこと。
何歳でも、いくつになっても、それぞれが自分の好きを大切にして生きていけたら。そしたら世界中がカラフルになって、虹みたいにたくさんの人を笑顔にできるかもしれない。

今日も自分の好きな服を楽しく着こなす母のことが、とっても素敵だと思うし誇らしい。


犬飼愛生の「そんなことありますか?」⑳

そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。

「市民先生」
 先日、ワークショップのご依頼をいただいた。大がかりなワークショップではなく地域の身近な人が先生となり、さまざまな知識や得意を地域に還元していくというような趣旨だ。今回は役所から見学の方も来た。助成金が出るので、一応ちゃんとやってるか? ということだと思う。ええやっていますよ。まじめと言われ続けて40数年、ちゃんとやることについては自信があります。とにかくちゃんとやる犬飼です、どうもこんにちは。まずは自己紹介に絡めたウォーミングアップ。「あなたの好きな言葉はなんですか?」。これは結構いい質問で、どんな言葉を選ぶかでその人の人となりが見えてくる。ではまずはわたくしから。「えー、私の好きな言葉は「ねるねるねるね」です! 理由は音が楽しいからです!」。ややウケ。場がちょっと和む。人となりは······。たぶん笑いが欲しいんでしょう。関西人ですね。せっかくなので、見学にきてくださった役所の人も巻き込んでみる。この人がなんだかめちゃくちゃしゃべる。「好きな言葉」からこの人の経歴がほぼわかってしまった。おそるべし「ウォーミングアップ好きな言葉」。この効果について特許を取りたくなる。使用許諾料で暮らしたい。
 ワークショップで詩の技法やリズムの話をしたあと、いざ実践へ。ちょうど締め切りが近い童謡詩の公募があったのでみんなで挑戦してみることに。この公募、賞金がなんと20万円もある。これには参加者も色めき立った。みんなすぐさま詩作にとりかかってくれた。賞金の力はすごい。もちろん講師である私も詩作に取り掛かった。この中の誰かが入賞してくれたら今日の講師としてこんな嬉しいことはない。参加者のみなさんはとても勘が良く、みんなサッと童謡詩を作ってしまった。おお、いい感じ。私は勢いづいてこう言った。「もうこの場で応募してしまいましょう! こういうのはぐずぐずしていてもしょうがないんですッ! いますぐッ! Webで応募してしまいましょうッ!」。先にできた人からスマホで応募しはじめてもらった。続いて私も応募することに。スマホを取り出し、必要事項を順番に入力していく。名前、住所、メールアドレス、詩のタイトル······。よし、送信、と。あれ? 本文を入れるところありました? 参加者のみなさんは問題なく応募が完了したようだ。え? 私、本文を入れずに応募完了になったのだけど? あれ? 自分のメールにも応募が受け付けられた趣旨が反映されている! うわっ、操作ミスによって白紙の本文を投稿してしまった! うわーっ! どうしよう! 応募ミスだ! ええええ! あんなに意気込んでいたのに自分だけ見事に応募できていない。ちゃんとやることに自信があったやつでてこい! いや、帰れ! 20万円が!! 私の20万円が! 応募すらできずに獲り逃した! ドジすぎる。あわあわする私を脇で見ていた参加者のおひとりが「わぁ! 目の前でハプニングの神が降臨しているところを見ちゃいました!」と嬉しそうにいう。そうなんですよ、こうやって例の神様は油断しているところにやってきて、ハプニングを起こしてくるんです。では、今月もご唱和ください。「本当にドジとハプニングの神は私を愛している」。


ボブルイスク滞在記 下 - 田村虎之亮

あっという間に8月になった。ベラルーシでやりたいことはほとんどやり尽くした私は、「一人暮らしのための料理本」を読んで、簡単なものを作っては隣のマンションにいる、この家を貸してくれている友人と食卓を囲った。よく考えれば誰かと家で食事をするのは久しぶりだった。それが週に2回、出国まで続いた。とはいえ、即席の家族ごっこは3週間も続かなかった。6月から始めていればよかったとか思ったが6月の時点では私も彼女も碌な会話をしたことがなく、互いに遠慮して暮らしていた。向こうは分からないけど、少なくとも私はそうだった。

この友人、偶然にも死んだ祖父と同じジャンパーを着たり、私がかつて同棲していた人と同じ服を着たりしてくるので、過去の思い出がフラッシュバックすることもあった。祖父は2年前に他界、3年前に恋人と道を違えた。

祖父の家に行くと、かつて料理人だった彼は料理を作ってくれたし、子供の頃は近くまで散歩に行った。元恋人は料理が嫌いと言いながらも最後の数ヶ月は料理を作ってくれた。コロナになる前までは時々散歩に出かけた。

かつて私が深く関わってきた二人の格好で現れて、同じような体験をしたのは何かの因縁だろうか。

8月は写真を撮ったことよりも身近な友人達と過ごしたことが多かった。今年26歳になるが、10年前にやりたかったことを取り戻したくて、遅すぎる青春を過ごした。けれども、本来10代のうちに経験することを今更取り戻したところで、歳まで若返ることはなく、20代が終わりに近づいていることが悲しかった。この10年は何だったのだろう。

ベラルーシを出国して周辺の国に滞在しながら撮影したが8月の思い出が強く残り、早く日本に帰りたくなった。今年の東欧は例年より暑いし。



順路 - ly

 昼過ぎて眼を醒ますことが多くなった。夏の盛りを過ぎて、日中の陽光と熱気が衰えはじめてからのことだ。頬に温水を打つ、髪にブラシを通す、箸を持ち上げる、釦を嵌める──暑さがひけてから、日常のあらゆる挙動が、自分の掌のなかに帰って来た、と思う。たしかに、それを行っているのは自分である、と思うことができる。暑気のひどい間は、こうはいかなかった。自分を質量を持った物質として、捉えることができなかった。けれども身体以外のなにかが重たくてしかたがない、という感覚が、つねにあった。
 質量を取り戻したと、はっきり自覚してからか、その少し前からか、借りている部屋から最寄り駅の周辺を歩くようになった。地図でおおよその位置を知っていた建物が、奥行きを持った実体として現出すること、ばらばらに点在していた場所と場所とが、いくつかの道によってひとつの線で結ばれること──そんなことが面白かった。歩くほどに、振り払われていくものがあるような気がした。がむしゃらに歩き続けたあとは、映画を立て続けに何本か観たあとや、一日中、読書に注ぎ込んだあとと、よく似ていた。
 最寄りのJRの改札前の往来をくぐり抜けて、駅ビルのガラス張りの壁面を右手に進めば、屋根の尽きたところから、駅前広場がはじまる。広場の右手側の、二mにも満たない横断歩道を通り過ぎれば、道幅の広い歩道に出る。傾斜のほとんどない扁平な道のりを、目路の限り伸ばしているこの道を直進すれば、十分ほどで、地下鉄東西線の駅に行き当たる。部屋からは、徒歩二十分弱といったところか。
 学生時代、繰り返し踏んだのは、この東西線の駅までの道のりだった。平らく続いていく道を早足で進んで、あるいは駆けて、夕方ないしは午後遅くにはじまるゼミに、少し遅れて出席した。講義のない日や長期休暇中も、大学図書館に足を運んで、二二時の閉館まで入り浸っていた。図書館では眼についた本を読むことも、端末で書きものをすることも、発表に必要な資料を渉猟することもあったが、書架と書架の間をあてもなく彷徨して、立ち並ぶ背文字を眺めていた時間を、より多く持っていたような気がする。古い書物の日に灼けたぶ厚いページは、人間の皮膚のようで、閲覧席に人気のないときも、ひとりで居るという気がしなかった。
 大学を離れて勤めた最初の職場への最短距離は、最寄りのJRの駅を利用した経路だった。途中、JR新宿駅で他の路線に乗り換える。自宅と最寄駅との往復が続いていくうちに、おのずとかつての通学経路と、その周辺にあるさまざまな場所から足が遠のく。大学の近辺に足を運ぶ用事ができても、気づけば最寄駅からJRで乗り換える経路を選択している。部屋から最寄駅までは、徒歩十分。いつからか、目的地まで辿り着くための経路を短縮する習慣が、沁みついていたような気がする。

 しばらくぶりに東西線の駅から部屋までの道をとったのは、九月の、ひどく蒸す残暑の夕方近くのことだった。その日は朝からスーツに身を包んで、合皮のトートバッグを肩から提げた格好で出かけていた。職を退いてから、すでに三ヶ月が経過していて、もうあとがない、と思いつめて臨んだ面接の帰路だった。
 会場の最寄りの都営大江戸線の駅から、森下駅で都営新宿線に乗り換えたころには、正午を過ぎていた。音楽を聴くに良い喫茶店がある駅で降り立つ。どうしても、音楽が必要だった。音楽と、くつろげる場所とが。つい先程まで自分に向けられていた眼差しが、目蓋の裏でちかちかと明滅し、耳の奥では声と言葉がわんわんと、際限なく繰り返されていた。
 三十分の間、矢継ぎ早に質問は繰り出された。呼吸を整えるひまもなかった。途中、中央に座っていた面接官は脚を揺すり、首を回しはじめていた。なにを話したのか、ほとんど記憶していない。準備していた回答を、用立てられたかすら定かではない。口は応答の言葉を抒べていたが、ひとつ、またひとつ、と質問が重ねられるほどに、意識が遠のいていくような気がした。ひどく痛む下腹と後頭部。窓のない部屋。薄汚れた壁と低い天井、濃灰色の毛羽立った床。退室して数歩というところで、案内役の面接官が、こちらを振り返りながらきゅっと目を細めた。──**さんは、穏やかな方ですね。──
 ぼんやりと、赤い布張りのソファに凭れているうちに、二時間が経過していた。腿の上に開いた本は、一ページも捲られていない。店内には、ショパンの夜想曲が薄靄のように漂っていた。そこに居るために、理由が要ること、意味が要ること。自分が無害で、有用な存在であると、示し立てなければならないこと。嘘でない言葉で話そうとすれば場にそぐわないが、場に適した言葉から嘘を除くことが可能であるのか。いやあるいは、嘘でないという言葉自体に、嘘があるのではないか。──とりとめもない考えが、頭のなかを駆け巡る。客席の顔ぶれは、すでにおおかた入れ替わっていた。
 丸の内線から帰路につくことができると気づいたのは、地上出口を前にしたときだった。下った先で、丸の内線のホームと都営新宿線のホームとに分岐するようだ。都営新宿線に乗れば、新宿で、JRに乗り換えることができる。JRからはいつもの順路に沿って、駅から部屋までの最短経路をとることができる。丸の内線であれば、改札の通り抜けなしに、東西線に乗り換えることができる。いつもとは違う道順で、少しばかり長い時間、歩くことにもなる。だが最短距離をとれば例のごとく、薄暗い部屋で薄暗い考えに浸ることになることが、眼に見えている。足が階段を下りはじめたときにはすでに、行き先は決まっていた。
 東西線の駅のホームから改札までの道のりはあっという間だった。辿りながら、肩の強ばりが解かれていることに気がつく。いつもと同じ、身体に馴染んだ動作をしているときの呼吸が、戻って来ていた。地上出口を出ると、少し翳りはじめた陽光が、平坦な歩道にくまなく注いでいた。暑気もいくらか緩んでいる。人々はゆったりした足どりで、道のうえを通り過ぎていく。学生時代、幾度となく眼にした平日の、午後遅くの街の風景。原風景、という言葉が頭をよぎる。しばらくの間、思い出すこともなかったこの風景が、自分の眼の奥に、たしかに焼きつけられているものであったことに、気がついた。


アメリカ文学のはなし - 木村洋平

8月になるといつも思い出すのは『八月の光』という小説で、20世紀の前半にフォークナーが書いた。広大なアメリカの大地を容赦なく照らす、八月の光は生と死の強烈さを際立たせながら包みこむ。

アメリカ文学のすぐれた作品は19世紀から20世紀の初頭にかけて生まれたように思える。僕の好きなところではソロー、ホイットマン、フォークナーあたり。それから『緋文字』がすごい。

『緋文字』は苛烈な文学だが、その苛烈さがどこから来るのかというと「ヨーロッパ人がアメリカ人に変わろうとするところ」だと思う。今日のアメリカはヨーロッパからの移民が建てた国だが、その過程には大きな葛藤があった。かんたんに言えば、アメリカはだだっぴろい原野が広がる大自然だが、ヨーロッパは古くからの伝統を肩に背負った都市の陰鬱さを持っていた。

ヨーロッパからの移民は、アメリカに来てただ新しいルールや行政を作るだけではなく、まったくちがった土地に合う新しい文化を育む必要があった。『緋文字』はその精神的な移行を深く刻んでいる。『緋文字』には牧師の男性と若い女性と、その二人の子供が登場するが、男性がヨーロッパ、女性がアメリカ、子供が未来の文化という印象を受ける。ギリシア・ローマを継ぐ「文明」世界のヨーロッパ人は、ルネサンス以後、書斎の中で文筆を続けてきた。一方のアメリカ人(ヨーロッパからの移民)は、開けた土地と脅威でもある大自然の中で、イチから共同体を作っていかに暮らすかという問題を抱えた。どこで考え、どこで書くか。この「書斎と大自然」は、大きな環境のちがいだった。

緋文字の悲劇とその重みを担う強力な精神は、この「書斎から大自然へ」の葛藤を生き抜くことから生まれたと僕は思う。老いてメランコリック(憂鬱)になり、今まで背負った財産としての伝統もあるヨーロッパ人が、大自然の中で快活に、野生を持って生き、肉体を使い、戦いもし、新しい国と文化を築くためには大きな変化が必要だった。その精神的な移行が『緋文字』の中にさまざまな暗喩と物語を持って語られていると感じる。

さて、「大自然」の中に精神を置くようになった新しい「アメリカ人」が、ソローやホイットマンであった。彼らの息吹は爽快で、元気にあふれている。19世紀のアメリカ文学にはすごい活力がある。それは葛藤を乗り越え、移行する時の元気だ。その裏には南北戦争や黒人差別をめぐる闘争があり、明るさと暗さは拮抗している。この暗さは20世紀の前半にフォークナーが書く時にも、アメリカ南部の混沌と「野蛮さ」として残っていた。それがなければ、フォークナーの小説はしっかりしたリアリティと、紳士的な理性、同時に弱さと暴力を内包することができなかっただろう。

文学が活き活きとするのは、大きな移行を経験する精神の過渡期であるかもしれない。その葛藤が、精神を練磨する。その際、現実社会には戦いや差別や抑圧といった苦しみも生まれている。そういう状況で、詩や物語は光芒を放つように思える。

だから、今の日本にもたくさんのすぐれた文学が、あるいは評価など寄せ付けない言葉が、小説、短歌、詩······とさまざまな形で生まれ続けているのかと考える。


麻績日記「別世界の心のふるさと」 - なつめ

 いよいよこの村を出る日がやって来た。引っ越しのトラックが来て、荷物がどんどん運び出されていく。部屋があっという間にすっからかんになった。この村にやって来たときと同じ状態の部屋を見て、あの日、息子とワクワクしながら移住した日のことを思い出していた。再びなんともやりきれない思いが込み上げてきて、これは本当に現実のできごとなのだろうかと、また信じられなくなっていた。そんな私に構うことなく、引っ越しの作業員は業務を終え、荷物を乗せたトラックに乗り、あっとゆうまに東京へと向かって出発した。

 トラックを見送った後、住宅を紹介してくれた青木さんが部屋の点検と、鍵を受け取りにここへやって来た。
「なつめさーん、本当に東京に帰られるのですね。うーん、残念ですー。くぅー」
と、青木さんのせつない声とその顔に刺激され、箱の中の「私」が蓋をグラグラさせていた。
「あ、青木さん、ありがとうございました。本当に私も残念なのですが······これにて帰ります」
 再び「ううう」と私もとても心苦しくなっている。箱の中に閉じ込めた「私」が飛び出てきそうだ。蓋をぐっと押し込み、青木さんに「ではまた! お元気で!」と、明るく飄々とお別れをしたのだった。息子と駅のホームに向かった。本当はこの村にこのまま居続けたい。それが「私」の本当の気持ちでもあった。その気持ちを今はどうすることもできないまま、素朴な山々が見えるベンチに座り、この山の風景を静かにしみじみと眺め、篠ノ井線を待っていた。このまま電車がいつまでも来ないでほしいと思っている。東京に戻りたい息子の隣で、この村に対してまだ名残惜しさでいっぱいの「私」がいる。この5ヵ月間、ここに住んだことで私は自然な人間の一人だということがよくわかった。鳥や虫の声を聴きながら、村内を歩くだけで心身ともに回復する場所で、自然の人間の感覚を取り戻したのだった。そんな状態の私が、再びまた雑多で人工的な音が混ざり合う東京へと戻り、どこまで自然な人間のままで生きていけるのだろう。
 
 この村に来る前は、多くの物や人に囲まれ、華やかなでおしゃれな人たちに惑わされながら、自分で選んでいるようで、実は選んでいないような感覚になることもあった。この5ヶ月少しの期間に、この村の自然の中で生活したことによって、自然の一部である人間だとわかった私は、東京でもこの自然の状態のまま、自然を感じながら生きていきたい。それは私の新たな挑戦となっていきそうだ。長年、周りと同じように生きなければならないと思わされ、周りと同じようなものを選択しないと居心地の悪さを感じることもあった。社会に自分を合わせるように生きなければならないような社会からいったん抜け出したい、そう思ってここへ来た。そして、どこか知らない遠くの山奥の、人も少ない自然の場所にやって来て、自然のほうに寄り添いながら生きる自然な人間たちの姿を見て私は安心した。やっと私も自然のままで生きられる場所を見つけることができたと思った。偶然辿り着いた麻績村は、都会の生活で疲弊していた私を自然に戻し、元気(元の気)にしてくれたのだ。心の内側にあった長年の傷を見ることができずにいた私は、この村に来たことで安心感を取り戻し、村人と村の子どもたちの優しさにその傷がだんだん癒やされ回復していったようだ。こたつを囲んでお茶とせんべいを出してくれるような、懐かしいおばあちゃんの家のような村だった。そこで、いったん休憩し、談笑するような時間が私を和ませ、自然な人間の心のままで「これでいいのだ」と、ようやく自然の心が私に宿ったようだ。不自然な世界に生きてきた私には、このタイミングでこの村に住んで自然の心に還ることが必要だったのかもしれない。まるで導かれるように出逢った麻績村。それは私にとって突然現れた桃源郷のような別世界であり、縁もゆかりもないのに懐かしく思える心のふるさとと、勝手に思ってしまうのだった。


痕跡 - 下窪俊哉

 書く。すると、その痕跡が残る。描く。掻く。欠く。同じ音 かく だが、それぞれ意味は違う。全然違うとも言えるし、微妙に違うとも言える。逆に考えてみると、違う意味なのに音は同じなのである。そして、「痕跡が残る」ということについては、共通している。
 書くことは描くことであり、掻くことであり、また何かを欠くことなのかもしれない。

(この短い文を書く前に、じつは「欠く」は頭になかった。書くことは何かを「欠く」ことに(も)なるのだろうか。いまの自分には、そういう側面が「書く」にはある、と感じられているのである。)

(私の創作論⑬)


表紙画・垂田浪華「無題」(木版画)


巻末の独り言 - 晴海三太郎

● 秋らしくなったと思ったら、また夏が戻ってきました。残暑に溺れつつ、今月もWSマガジンをお届けします。● 今月は清水よう子さんが初登場です。SNSで書かれるものを日々、ちら、ちらと拝見していましたが、突然メールで届けられた文章は、読んでいる私自身の、いま弱っている部分に、そっと語りかけてきてくれました。●この場所は、とりあえず書いたようなもの、ことばの切れ端でも、メモでも何でも、ここに置いておこう。──そんなコンセプトを抱いて続けている、ウェブマガジンの姿をしたワークショップです。● 参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、再び読むこと、たまに話すこと。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。● では、また来月!


道草の家のWSマガジン vol.22(2024年9月号)
2024年9月10日発行

表紙画 - 垂田浪華

ことば - RT/犬飼愛生/UNI/清水よう子/下窪俊哉/スズキヒロミ/橘ぱぷか/田村虎之亮/なつめ/晴海三太郎/ly

工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - アフリカン・ナイト
読書 - 暇すぎて本をよむ会
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
喫茶 - うすらい
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
雑用 - 貧乏暇ダラケ倶楽部
心配 - 鳥越苦労グループ
謎掛 - 将棋がとても上手で、勝ってばっかりのひとは何人?
音楽 - 鼻唄合唱隊
出前 - 残暑対策室
配達 - 冷風運送
休憩 - マルとタスとロナとタツの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会

企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎

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