道草の家のWSマガジン - 2024年11月号
詩のようなもの - RT
福井のおがらす神社というところに
今年も行くことができた
暑い暑い日
蝉が鳴いている
透明な水路があって
勢いよく湧き出る水を
触ってみたらひんやりとしていた
大きなボトルに水を汲む人がいて
この水で珈琲を淹れてみたいと考える
水路で梅花藻という小さな白い花が揺れる
サルスベリの花が散って
白とピンクと緑がゆらゆら
大きな青いトンボが飛んでいく
植木作業をしている人たちが
こんにちはと声をかけてくれて嬉しくなった
ぺこりと頭を下げて境内に入ると
カラスの声
御賽銭箱の前に黒い羽根が一枚落ちている
もらっていくことにした
カラスの神様の贈り物かもしれない
美しいものをたくさん見せてもらった
お礼を伝えた
私の妹が中島みゆきのはずがない - 岡田忠明
トーク番組のゲストは、吉岡由里子だった。 「ねえ、私にも詞を書いてよ、相田さんや三木さんには書いていたじゃない」 MCの凛久は、スタッフの方を見て苦笑した。「それで1週間入院したのだけどね。僕に何の得もないし」 「私が歌うわ 見たいでしょう」 神妙な顔の由里子に凛久は目を細めた。「ちなみに、どういうテーマで。書かないけれど、今日、朗読用の本を持ってきてないし」 「清楚、情熱と来ているから、私は世に出せる上限のエロがいいわ。本が無くても、スマホがあるでしょう。ほら、源氏物語」と紫式部が薄ら笑む。 「なるほど日本最古のエロか。 歌うって、ウチからデビューでもするの」 「まさか、あなたの詞は、深幸さんが歌うでしょう。私がカラオケで歌う姿を見せてあげるって言っているのよ」 凛久は朗読をする由里子の顔の中心を見つめた。周りの音が全て消えていく。由里子の声だけが、水の中で優しく響く。目の奥の鈍痛に気を失いかけながら、無数の言葉は相反の境界線上をうねり、由里子に肩を揺さぶられた時には、サビをリフレインさせるだけだった。 凛久は表題に『瑠璃色の夜へ』と書き由里子に渡した。 由里子は無言で歌詞を見つめていたが、声を絞り出すように「ほんのりエロだわ」と発すると、思わずスタッフが笑い、収録は終了した。(続)
とめどなく夢の中へ私 貴方と溶けてゆきたいの
眠り足りない気分をそっと 貴方と分かち合うために
掌だけください 温もりだけください 肌と肌 瑠璃色の夜がくる
触って 私の髪をただ何気なく 震える心は密かに隠して
(引用「瑠璃色の夜へ」 作詞 来生えつこ)
犬飼愛生の「そんなことありますか?」㉑
そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。
「置き手紙」
朝起きたら、息子がいなかった。早朝、夫が遠慮がちに私の部屋に入ってきて「Sがいないけど······」という。飛び起きる私。トイレにいない、リビングにいない。Sの部屋に入る。そこには置き手紙があった。「散歩に行きます。それから部活の引退式用のプレゼントをメンバーと買いに行きます。それをカラオケボックスでラッピングとかして晩御飯も食べてきます」。もっともらしい置き手紙だが、なんでこんな早朝に出かけるんだ。そしてなんで晩御飯まで食べてくるんだ。一日中不在になるではないか。全員受験生なのに? S以外は全員女子なのに? 他の保護者がそれを許すとは思えない。そして、一番おかしいのはあんなにいつも握りしめているスマホが一緒に置いてあったことだ。ロックの暗証番号は知っているので慌てて打ち込むとパスコードが変えられている。これは散歩や外出ではない。そう、Sは家出をしたのだ。
スマホを置いていった理由は明確である。スマホの中にはGPSが入っていて私たち親が検索できるようになっている。部活のほかに外部のJAZZのビッグバンドにも所属していて移動の多いSの現在地を知るためにSの了承のもとに入れたものだ。Sは自分の居場所を検索されないためにスマホを置いていった。寝ぼけたまま頭をフル回転させる。どこに行った? なぜ? 昨夜特に親子喧嘩もしていないが少し元気がなかった。何かあったのかと聞いたけれど、何もないと······。どういうこと? 学校でいじめられていた? まさか闇バイトに手を出していた? あらゆる最悪な仮説が駆け巡り血の気が引いた。心臓がバクバクしている私に夫が困惑した声でこう言った。「まさか、ビッグバンドのほうに行ったんじゃないか。今日、下呂温泉で演奏会だっただろ」。そうだ、たしかに下呂温泉の演奏会は毎年楽しみにしていたけれど、今は受験のために休部しているのだから参加しないように伝えていた。なにより他の受験生よりも部活の引退も遅く、勉強量も足りていないことは本人もわかっているはずだ。私は集合場所にいるであろうビッグバンドのメンバーの保護者仲間に電話した。「早朝にすいません······実は······」と言ったところで電話口で泣いてしまった。不安だった。もうむしろビッグバンドのマイクロバスがいる集合場所にいてほしい。Sの身の安全だけが知りたかった。果たして、Sはそこにいた。マイクロバスが出発するまであと少しある。私はSのスマホと防寒着をひっつかんで集合場所に駆け付け、荷物を押し付けた。メンバーはSの家出計画を知っていたようで、「バレたバレた!」と笑っていた。そこまでの覚悟ならもう行ってもいい。15歳のSのヘタすぎる置き手紙、強行突破したメンバーと音楽への青い愛。
ここで読者には驚愕の事実をお伝えしよう。実は私も去年家出をしたことがあるのだ。(『アフリカ』2023年11月号参照)。子供は親の背中を見て育つ、いまその巨大ブーメランが私に返ってきたのである。では、今月もご唱和ください。「本当にドジとハプニングの神は私を愛している」。
銘刀 - スズキヒロミ
「なんだあのジジイやべえな、大丈夫か?」
「いいよ行こ行こ」
朝、いつものように仕事場へ向かう道で、すれ違った二人連れの会話が耳に入った。
聴いていた音楽を止めて彼らが振り返る方を見ると、老人がひとり、今いるこの歩道を先へと歩いて行く。その方向から「ケーン、ケーン」という、犬の遠吠えのような甲高い音が聞こえて来る。音を発しているのは、どうやらあの老人らしかった。
この辺りはフシギ爺さん(言い方)がなぜか多く、仕事場の近くにも一人、紐で繋いだ猫を連れて道端に座り、道ゆく猫好きを釣っている爺さんがいる。猫はかわいいが爺さんの心中は不明なので、私はいつも無視と決めて通り過ぎる。
今、あそこの爺さんも、できれば接触せずにやり過ごしたかったが、あまりにも歩くのが遅いので、思わず追いついてしまった。「ケーン、ケーン」はもちろん聞こえているが、イヤホンで聞こえないフリをして通り過ぎようとすると、
「おい!」
と人語で呼び止められ、私はつい、そちらを見てしまった。
爺さんは小柄な私よりさらに小柄で身長150センチないかもしれない、半白の髭とモジャモジャ頭。古びたセーターにジャージのズボンを履き、左手に赤いビニールテープでグルグル巻きにした太い棒を持っている。
私は自分のうかつさを悔やみつつも爺さんに応えた。
「どうかしましたか?」
「ハア、やっとニンゲンに会えた」
「は?」
今さっきまで犬のように遠吠えしていた爺さんにそう言われて、私は二の句が継げなかった。
「さっきからずっと呼んで歩いてたんだが、ようやく通じるニンゲンがいた」
こちらこそ話が通じるか不安ながら、
「はあ······なんかお困りですか」
と聞いてみた。
「そうだ。オレはもう引退しようと思って、これを誰かに渡したいと思っててなあ、ずっとニンゲンを探してたんだ」
そう言うと老人は、左手に持っている棒を掲げた。
太い棒に見えたそれは、鞘に収められた刃物らしかった。だとすれば刃渡り30センチ以上はありそうである。
「うわ、それはちょっとボクにも使い道ないですよ。何用の刃物なんですか」
「熊だ」
「熊?」
この小柄な老人は、ほとんど埼玉にせよ一応東京であるこの町の真ん中で、堂々と熊狩りのナタを手にして歩いていたというのだ。
「こないだ相棒が死んでな、もうやめることにした」
「相棒」
「柴犬だ」
「はあ」
そうか、あれはひょっとして犬語なのだろうか。
「色々処分して、これだけ始末がつかん。お前には分からんだろうが銘刀だ。誰かにやろう、と思ってこうして歩いてた」
銘刀と言っても見知らぬ人からそんなものを誰が受け取るというのか。にしてもその扱いがビニテでグルグル巻きであるし、私はまるっきり疑っていた。その上、熊の血を吸った刃物かもしれないと聞けば、なおさら欲しく無い。
「あ、まあ見る目のいる人はきっとほかにいますよ。ためしにリサイクルショップにでも持って行ってはどうですか」
「ダメだったから言ってる」
ここまで話してきて、私の仕事場が近づいてきた。
「あ、ボクそこなんで、じゃあこれで」
と私は急に角を曲がった。
「なに! お前これいらんのか!」
「きっと価値がわかる人がいますよ、ボクは遠慮しまーす」
自称熊狩り老人は「チッ」と舌打ちして、また「ケーン、ケーン」をはじめて歩き出した。
やれやれと思って道を急ぐと、猫で人を釣る爺さんが道端に出てきたところに出くわした。私は猫とだけ目を合わせ、いつものように無言で通り過ぎた。
ぽぽっといる人 - 優木ごまヲ
「わたし、移住してきたんです」と言わなくても、新しい人間関係を築くことはできる。「出身はどこどこなんです」と打ち明けなくても、お互いの共通点を見つけることはできる。
転職した家族と香川県高松市にやってきて四年目。市街地での暮らしで「あなた、県外の人でしょう」なんて言われることは皆無。結婚後の姓が少しだけユニークなせいか、書類を書くと相手がコンビニのおでんを覗く時みたいに「あらっ」となって、会話が広がることはあるけれど。黙っていれば昔からの香川県民。気がつく人なら、イントネーションの違いで「もしかして転勤族かしら」と思うくらいだろう。
いや、違うんです。本当はここで生まれた人間じゃないんです。移住者なんです。山に囲まれて育った海なし県民なんです! ······そう主張する時は、いつも前のめり。頬がちょっとほてる。一通り自己紹介を終えてから、相手の表情を見て、あるいは話の流れが変わったのを感じ取って、冷静になる。「この情報、要らなかったかもなあ」と。わたしが移住者であるということは、ほとんどの場合、目の前の人にとってさほど重要な情報ではない。
移住者? 香川生まれじゃない? だから何? そもそもあなたはだれ? あなた自身という人間はだれ? 「移住」という言葉のかげに隠れていないで、そろそろ出ていらっしゃいよ、光が当たるところへ。わたしのなかのそういう声が最近、強くなってきている。
でもなあ。ここで生まれたんじゃない、という思いから逃れるには、自分の輪郭を変える必要がある。海はわたしの原風景じゃない。山は好きだけれど、香川の山のかたちは地元のそれとは違う。お笑い芸人さんのYouTubeを真似た「関西弁」はどうしたって借り物。讃岐弁はわざわざ使うもの。家にいる時、ふとした瞬間口からこぼれ落ちる地元の方言にハッとする。小さい頃遊んだ庭は、「美濃屋」の猿橋まんじゅうは、嫌いだった小学校は、体操服を買いに行ったスポーツ用品店は、バタフライを覚えたスイミングスクールは、トンネルの多い中央線は、親友と出会った教室は、香川県のどこにもない。きっとそういうことを言いたくて、移住、移住とおしゃべり好きなインコのように繰り返してきたのだろう。
今読んでいる本に、韓国から日本への移民、ラッパーのMOMENT JOONさんの著書『日本移民日記』(岩波書店)がある。人類みなきょうだい、多様性、そういう言葉で満足しきっている人々の横っ面を思いっきりぶん殴るような一冊。まさか自分のこと、寛容な人間だと思ってないよね? というパンチ。見えるもの、見えやすいものしか見てこなかったでしょう? というキック。正直、前半を読むのはかなり辛かった。それでいて、何とも言いようのない、人肌のあたたかみがある。例えば次の部分。
「『失ったホーム』を懐かしく想うことは(中略)『失ったホーム』を取り戻すためでなく、もう一度『新しいホーム』を作るためです。」
「そこにいた人々、あなたと一緒に笑って怒って泣いてくれた人々がいたから、そこはあなたのホームだったのではないですか。」
思わず涙ぐんだ。たぶんそういうことだから。地元だけでなく、後にしてきた東京への思いも、MOMENT JOONさんからの問いかけと響き合うものじゃないだろうか。いずれ向き合ってみたい。というか「ここから見える東京」というZINEを作ってみたい、と考えている。ひとがとらわれる土地のイメージとか固定観念とかに興味がある。
(最近は「東京が嫌いで移住してきたんじゃないんです、今も好きなんですよ東京」と主張している。)
などと言っておきながら。一方で、こういう地元がどうとか東京が懐かしいとか移住うんぬんだとかにこだわるのは、もうやめたいな、とも思っている矛盾。全部どうでもよくなりたい。普通にそのへんにぽぽっ、といる人になってみたい。きっとそんな人はいないのだろうけれど。キジバトみたいでかわいいな。ぽぽっ。
麻績日記「東京にはないものがここにある(2)」 - なつめ
村での冬の朝は、一段と空気が澄んで清々しかった。小学校に出勤するときには、すれ違う村人にあいさつをしたり、話しかけてくれる人もいて、精神的にも心地がよかった。東京の生活では、目的地に向かってスタスタと急いで向かう人ばかりだったが、この村では、ポツンポツンと、ときどきすれ違う人が知らない人でも会釈をしたり、声を掛けたり、話しかけてくれたのだった。教育委員会の職場に向かう途中の浅井さんは、帽子をかぶり、マフラーも手袋もしっかり身に付けて、私よりもいつも寒そうにしながら、すれ違い際に「今日もさびーっすね! 寒さ大丈夫ですかー? かなり寒くてやんなっちゃうでしょー! うははははー」といつも気さくに声をかけてくれた。私にとっては、こうして村の方々が気さくに声をかけてくれるおかげで、真冬の朝のマイナスになる気温の中でも、そこまで寒さを感じることがなかった。体感的には確かに寒いのだが、いつも人々が声を掛け、人を気にかけ、思いやるようなあたたかさを感じることができた。東京の風のほうが心身ともに冷たく、本当にいやになることもあった。村の風は冷たいというより、スッーと澄んでいて、むしろ心地が良い。わざわざ車の中から手を振ってくれる方もいて、この村の人々は、人間がしっかり見えていて、私のことも見えているということがわかった。横断歩道の脇に立っていると車がいつも止まって、横断させてくれた。人間が「ここにいる」ということが見えていて、それが当たり前のように気にかけることができる村なのだ。
休日、数少ないバスに乗るときは、だいたいいつも私と息子だけだった。東京で利用していたバスは通勤や土日にはだいたい混雑していて、乗るだけで疲れてしまったが、この村のバスは乗るだけでほっとする。村の運転手は、いつも同じ人か、代わりの人が一人二人いる程度で、片方の運転手は何も話さなかったが、もう一人の運転手は、子どもの頃の村の生活のことや、最近の村の様子などを私に語ることが度々あった。口調が少し訛っていたが、それもこの村ののんびりとした雰囲気と合っていて、毎回ほのぼのとさせられるいい時間だった。バスから見える風景もビルやマンションが多い東京とは全く異なり、のどかな里山が広がっていていつでも自然を感じることができた。東京に帰る日の直前、最後に聖湖まで出かけた。半年前の夏休みに、最初にここに来たとき、湖のベンチで松本さんにウクレレ弾き語りをした場所だ。夏休みに移住お試し住宅に泊った日のことを思い出し、再び帰りたくない気持ちが湧き起こってきた。あれからわずか半年後に去ることになったことが本当に信じられない、と思いながら湖の周辺をゆっくりと息子と歩いた。ここで半年間でも息子と暮らせたことに感謝の気持ちと悲しみの気持ちで聖湖を眺めていた。夕方になり、この村で乗る最後のバスが来た。また例によって運転手の昔語りが始まり、下まで降りた。たった15分ぐらいのひとときだったが、やはり忘れることなどできないおだやかな時間であった。私とは全く異なる世界を生きてきた運転手の村の昔話を聞いていると、生きてきた環境も価値観も全然違う村だということがわかった。この村には、お互いさまの文化がいつもあり、隣近所で助け合いながら過ごしている村だと言う。隣近所同士で話すこともあまりしない東京では、助けや支援先が必要な場合は行政のボランティアやサービスを探すが、この村では、村内で顔見知りの人たち同士で声をかけ合い、助け合う精神が昔からあるらしい。人口が少ない分、そのようになりかねないものもあるのかもしれないが、興味深くその話を「うんうん」と聴いていると、昔から住んでいる村人同士のつながりがとても強そうだいうことがわかる。私のような住んで半年ぐらいの移住者は、まだまだお客さん状態だったのだろう。村外からやって来た人が、村の人たちと助け合っていくには自分からもっと声をかけたり、関係を築くのに時間もかかりそうだ。昔からそのようなお互いさまの精神がある環境では、行政のサービスやボランティアを新たに作ろうという必要性を感じる人も少ないのかもしれない。村の人口が圧倒的に東京より少ないということも、様々な面で人手不足状態になっていることもあるのだろう。そのように考えると今早急に村外から来た私のような人が、息子に必要な支援者を探そうとしても、見つかるまではまだまだ時間もかかりそうである。もしかしたら見つからないかもしれない可能性だってある。息子が小学4年生という中途半端な時期に突然やって来た私は、「普通はもっと色々調べてくるでしょう」と最初にここへ来たときに、とある村の方から言われた言葉の意味がようやくわかり、良くも悪くも昔から恐れ知らずの自分の大胆な挑戦魂と行動力を今後はいったん立ち止まらせたほうがいいかもしれない、と思うのだった。
運転手の村の昔話を聞いていると、やがてこの里山の風景が、息子が幼かった頃に読んだ日本昔話の絵本の風景と重なってきた。夕暮れの里山の風景や村の古い民家や寺などが、昔話の風景を想起させ、懐かしい気持ちにさせられた。バスの窓から見える夕方のオレンジ色の空の色と、のどかな里山と、運転手の少し訛った語り口調、息子と一緒に読んだ日本昔話とがぼんやりと混ざり合い、あたたかな気持ちが増してくる。外はまだ肌寒かったが、この心身ともにあたたかいバスの中でのひとときが、まるで現実離れした夢の世界の中にいるような感覚になり、今、私はどこにいて、何時代にいるのだろうと、自分の居場所が一瞬わからなくなってしまった。なんだか夢を見ているような感覚になり、息子は私の隣で、いつも通り座っていて、これは今、現実に起きていることだとわかった。もうすぐ私は東京に帰ろうとしているのだ。ここを離れることになった今、こんなにかけ離れた世界に半年間でも住むことができて、本当に夢のようで、幸せな日々だったなぁと、心に深く刻まれた日であった。どこからともなく涙がじわじわと溢れてきて、この優しくてあたたかい村にもっともっと長く浸っていたかったと、バスの中で懇願している私がここにいた。
「何もない」と村の多くの人が言っていたが、何もない村ではない(と最初から私は思っている)。軒数は多くはなくても、居心地の良いカフェ、おいしい定食屋も確かにある。出入りしているお客さんたちも複数人見かける。一つ一つの店や一人一人が地域に大事にされてきた場所である、ということがわかる。東京は人もお店も多過ぎて、激戦区の中、多くの人に認められたい、大切にされたい、見つけてほしいといったような承認欲求が競い合っているように感じることがあった。そのような環境をいったん抜け出し、何も飾らなくてもよい自然体の私でいることができるようになったのはここに来てからだ。この村の人々や先生方も子どもたちも、飾らず、いつも自然体で、むしろ自然体の自分のままのほうがいいと思うことができた。自然体の自分を自分でも認めることができるようになったのは、ここに半年間住んだおかげである。なにもそんなにだれかよりたくさんがんばって、秀でたものを持とうとしなくてもよかった。私は東京でどれだけがんばらされていたのだろう。自然体でいる自分のままでいいと言ってくれる場所に初めて出会えたことで、張り詰めていた気持ちはどんどんゆるんでいった。流行や文化に溢れている東京にいたときは、私の好奇心が周りの環境から刺激を受け、心身ともに忙しくなりがちだった。村の人が言う「何もない」という環境に身を置いたことによって、私の忙しかった好奇心の向かう先が自然へと落ち着いた。都会の慌ただしさの中で、グルグル巻きでこんがらがってしまっていた私の心の糸が、自然の中でゆっくりほぐされ、清浄され、まるで機織り機で織る前の糸のようにまっすぐに整ったようだ。比べるものがこの村には「何もない」ということにこそ、大きな価値があった。私はその「何もない」ことによって心が落ち着き、「何もない」から、得られた感覚だったのだ。この「何もない」村に来ないと、この感覚は得られなかった。そのことに気がついたのに、ここを去ることは本当に悲しいことだ。半年間でも住むことができてよかった。もうまもなく離れ、これからどうやってあの雑多な東京で、自然な私のままで再び生きていけるのだろう。今まで真正面から向き合えていなかった息子の特性と、自然な私を見つけることができた場所である麻績村は、私が見つけた場所であり、私を見つけてくれた場所である。こうして心の中に麻績村が静かに宿り始め、この村が自然に目覚めた私の原点となった。再び東京に戻っても、ときどきここを訪れ、都会の空気と麻績村の自然の空気を交互に入れ替えるように深呼吸をして、これからも自然な私で歩き続けたい。
この村で過ごした様々なことから得たことを東京に帰る電車の中で思い出していた。素朴で優しい麻績村がだんだん遠ざかって行く。この移住生活がまだ終わらないでほしいと本当は思っているのに、東京へと向かう電車は山の中のトンネルを猛スピードで駆け抜ける。その電車のスピードに私の心は全然ついて行けなかった。まもなく東京に帰ったら、この夢のような日々が、儚く終わったことを実感するのだろう。現実の移住生活は夢のように儚かった。こんなに儚い移住期間だったからこそ、無念さとともに私の心に色濃く残った。しかし、クタクタでボロボロでグチャグチャにこんがらがっていた私の心の糸は、麻績村に住んだことで、草木染めのように自然の色に染まって、まっすぐになり、ここで新たに甦った。この私の糸をこれからどのように編んでいくことができるだろうか。
うた - カミジョーマルコ
雨が降るとおもいだす
子どものころ人がそばにいると歌がうたえなくて
でもほんとは歌がたいすきで
どしゃぶりの雨が降るとよろこんで
人のいない部屋に閉じこもり
おもいきり歌をうたった
優しい歌、哀しい歌、ノリノリの歌、
いろんな顔をしながら
ひとりで思いきりうたって遊んだ
雨の音で誰にも聞かれていないと思っていた
でも実は周りにきこえていて
雨になると歌う私をカエルちゃんと呼んでいたらしい
ずいぶんおとなになってから聞かされた
そして今は人前で楽しくうたっている
でもなんでたろう
あの頃がちょっとだけなつかしいんだよ
書けないことを書く - 下窪俊哉
簡単には書けないと感じることと出合ったら、チャンスだ、と私は思う。
なぜなら、それは自分を待っていてくれたのだから。
簡単には書けないことをこそ書きたいと願う。そして、それを自分がまず読みたい。
書き手にはそれが一体どういうことなのかわかっていない。わからないからこそ書けるのである。書けないことだから、これから書ける可能性を拓けるのだ。
語ることのできないものを、文は語るだろう。
書き手は聴かねばならない。その声を。
聴こえてくるその声を、書き手は写し取ろうとする。すると、そのことばも鳴っていなければならない。
逆説のようになるが、同時に人は誰でも、自分に書けることしか書けない。
書けないことをこそ書きたいが、書けるものしか書けない。
──これはどういうことだろうか?
書けるものによって、書けないことを語らせる、ということになるのだろうか。
頭の中では、そのくらいまで整理できる。では、私が(あなたが、あのひとが、etc.)書く上でそれは具体的にどのようなことになるのか?
書かれた後のものはたくさん残されている。しかし、書かれる前のもの、書かれている途中のものを感じるには、自ら書く以外に方法はないのだ。
(私の創作論⑭)
巻末の独り言 - 晴海三太郎
● 今月もWSマガジンをお届けします。● 表紙は「道草図案舎トマルコ」の今月はジョーさんことトモヤスさん。タイトルは「もう絵の中に書いてるから」だそうです。確かにそうですね! ● 今月、初登場なのは岡田忠明さん。メールでいただきました。どのような方なのか編集人も知らないそうです(よかったら教えてくださいね、でも謎の人で居続けるのも味があったりして?)。何はともあれ、WSマガジンへようこそ!● さて、この場所は、とりあえず書いたようなもの、ことばの切れ端でも、メモでも何でも、ここに置いておこう。──そんなコンセプトを抱いて続けている、ウェブマガジンの姿をしたワークショップです。● 参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、再び読むこと、たまに話すこと。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。● では、また来月!
道草の家のWSマガジン vol.24(2024年11月号)
2024年11月10日発行
表紙画 - カミジョートモヤス
ことば - RT/犬飼愛生/岡田忠明/下窪俊哉/スズキヒロミ/なつめ/晴海三太郎/優木ごまヲ
工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - アフリカン・ナイト
読書 - 何でもよむ会
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
喫茶 - うすらい
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
雑用 - 貧乏暇ダラケ倶楽部
心配 - 鳥越苦労グループ
謎掛 - 魚がとある虫を飲み込んだよ、何の虫?
音楽 - 口笛吹奏団
出前 - 落葉弁当
配達 - 北風運送
休憩 - マルとタスとロナとタツの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会
企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎
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