道草の家のWSマガジン - 2024年4月号
春に - 橘ぱぷか
みててよね儚いだけじゃないからねバーンと夜に桜のランウェイ
毎度のことながら慌ただしい毎日がはじまって、嘘みたいな速さで時間が過ぎていく。意味わかんない意味わかんないゆっくりしたい、けれどできないが続く中、気づけば桜が満開になっていた。咲いたそばからすぐにひらひらと散っていくのがかなしい。でも綺麗。
昼間は控えめ、夜はまばゆく月やライトに照らされて、なにやら溜まった鬱憤を晴らしてるみたい。
華やかな風景やゆるんだ空気に心が追いつかず、今年もうまく春に馴染めない。
そんなふうにハイパーミラクルセンシティブになって日々を泳ぐ中、ある朝見上げた空に大きく「×」の形をした飛行機雲が浮かんでいた。なんでこんな形になったんだろう? あっちとこっちに行き交ったのかな? わからないけれどあまりに見事な「×」の形に、朝から心に影が射した。こんなにきれいな青空なのに。
でもめったにないことだし、子どもたちに見せたいと思って声をかけた。
「みてみて、空に大きな『×』があるよ。」
「えー? どこ?」
「ほらほら、あそこ!」
「ほんとだ! ウルトラマンXの『X』だ!」
息子が大好きなウルトラマンX。そうか、「バツ」じゃなくて「エックス」か。
自分ひとりじゃすぐにオーバーヒートしてしまう。けれどそんな私を、いつもほんわりとほぐしてくれるかわいい2人組。黒いモヤモヤが放たれて、代わりにたぷん、とあたたかいもので満たされていく。
頬をよぎるうららかな空気。私の手を握る小さな手と手。なんだかまた少し大きくなった気がする。
ピンクとほくろ - 坂崎麻結
アパートを出て左に曲がると、少し歩いたところに、はなちゃんがいる。はなちゃんは今どきめずらしい外飼いの柴犬だ。何年も名前を知らずにいたが、引っ越してきてから4年くらいたった頃に飼い主のお父さんが「はなちゃ~ん」と呼んでいるところを目撃した。それ以来、前を通りすぎるときは「はなちゃん、はなちゃん」と心の中で声をかけている。はじめの頃は手をなめてくれたりもしたが、高齢になってきてからは警戒心が強くなっているようだったので見つめるだけで触ることはしなくなった。近所の人がはなちゃんに会うためだけにエプロン姿で家から出てくるところもよく見かけていたけれど、それも最近は少なくなってきた。でも、はなちゃんの姿を見ると嬉しい気持ちになるのは変わらない。
子どもの頃は外飼いの犬が今よりずっと多かった。学校からの帰り道や学童に行く途中など、犬がいる家を通ると必ず立ちどまり、よく触っていた。今でも思い出せるのは、ゴールデンレトリバーがいた家だ。そのゴールデンレトリバーは舌に大きなほくろがあって、わたしの手をなめるときにそのほくろが見えるのが好きだった。犬の舌はどうしてあんなに綺麗なピンク色なんだろう。両親は自営業だったので、小学校のあとはよく学童に通っていた。学童までの道を何度も何度もひとりで歩いた。まだ道には畑もあって、空が広かった。ずっと遠くからでも学童の屋根が見えた。古い建物の小さな学童だったけれど、100円で好きなお菓子を選んで買う日があったり、すいとんを作ったり、外にある物置にお化け屋敷を作って遊んだり、押入れの中にみんなで集まって怖い話を朗読したり、キャンプに出かけたり、近くの草原でつくしを取ってきて佃煮にしたり、なんだか思い出がたくさんある。そこにはテレビもゲームもなかった。毎日、絵を描いたり遊具で遊んだり漫画を読んだりしていた。同じ学年同士で集まることもなく、男女も関係なくみんなで遊んでいた。学校にいるときよりも、お互いに対して優しくできたような気がする。最初からバラバラだから、違いを探すこともない。だから居心地がよかった。
その学童はわたしが6年生になる頃にはなくなってしまい、建物も取り壊された。第2たけのこクラブという名前だったからか春になると思い出す。第1がどこにあったのかは知らない。舌にほくろがあるゴールデンレトリバーはもういないし、実家で飼っていた犬も15年ほど前に亡くなってもういない、はなちゃんもきっとあと何年かでいなくなってしまうだろう。とりとめのない記憶だけがシャボン玉のように空中を漂い、そしてあるときが来たらパチン、とはじけて消えていく。
今日の空の色は - RT
4月5日 さくら色
過眠が続いている。昼夜逆転はしていなくて夜に寝て10時ごろ起き出すというリズム。
中途覚醒や早朝覚醒はしなくなって、たぶん7時頃目覚めて頭からスーっと力が抜けていって何度も眠る。寝そうになってなぜかビクッ、ドキッとなるから心臓のことを心配していたけどどうやら眠りかけのときに呼吸が浅くなって、フーッと深い息を吸った時に驚いて起き上がってしまうらしい。Twitterで同じ症状の人が書いておられて判明した。
何度かビクッとしながらごろごろして、目覚めたら考え事をする。
今日は、地震のエネルギーを病気を治したり電気を作るエネルギーに転換出来たらいいのにということを考えた。それと、人の幸せを願うためにはまず自分が幸せになってそれを溢れさせるのがいい、と思ったりした。
家族に深く考えるなと言われているので考えるのは程々にして遅い朝ごはんを食べる。昨日の夜コンビニで買ったチョコのパンと簡単ドリップのコーヒー、八朔、6Pチーズひとつ。食欲はだんだん戻ってきており、今家に頂き物のお菓子がたくさんあるので、おやつを食べてはくださった人たちの顔を思い浮かべて泣きたくなったりして、美味しくてありがたくて寂しくて、情緒が不安定。
今週はほぼ家にこもっていたので、今日晴れたら出かけてみようと決めていた。
まずクリーニングを引き取りに行って、ガスの火と娘のヘアアイロンの電源オフを確認して、玄関の鍵をしっかり閉めて、ICOCAは持ってる。マスクも持った。
お稲荷さまにお参りして、電車に乗った。
電車から見える珈琲豆屋さんがカフェを始められたのが気になっていて、今日は開いているみたいだ。どうしよう。途中下車して行ってみようかな。今までのわたしなら衝動的に行っていたはずなのだけど自信が無くて、いつもの古墳に行きたいし、スーパーにも行きたいし、辞めておこう、そんな時に限ってその駅で電車が長く停まっていてかなり迷いながら帰り行けたら行こうと思った。スーパーの袋をぶらさげて行くことになる。氷入れたら大丈夫やわ。
いつもの駅に着いて、そういえばこの間、車で連れてきてもらった時に棚貸しの本屋さんが出来ているのを見つけていたのを思い出した。行きたい方向と逆にあるのだけど今度は迷わず歩き出した。
大きな公園の前を通ったら、たくさんの人がお花見をしていた。桜が満開だ。カメラを構えている人を見た。でも写真を撮る気持ちになれなくて、公園に入ることもせずに、本屋さんを目指した。
体調が良くなったら家の片付けをしたくて、本をブックオフに持っていくより本屋さんの棚に置いてもらえたらと思っていて、どんな感じのお店か見たかったのと、HPに心理学的な本の棚もあると書いていたので自分に合う本があれば買いたかった。
何度も繰り返す鬱の波にはまってコントロールなど出来なくて、これからどうやっていけばいいのか手がかりを探している。自分の中に答えがあると思っていたのにそれならどうして生きる事を続けられないと思う程苦しくなったのか。自信を失ってしまっている。考えれば考えるほど混乱して、たぶんまだ休養が必要なのだと思うけどいつまで休めばいいのだろう。
本屋さんは清潔で明るくて店員さんが声をかけてくれた。お店のシステムを説明してもらって棚を眺める。有料の飲み物やお菓子もあって、他のお客さんは飲み物を飲みながら本を読んでいる。ブックカフェでもあるようだ。
天井まで本棚があって、どの場所に棚を借りるかによって利用料金が変わるらしい。確かに自分の目の高さのところばかり見てしまう。梯子に昇るのはちょっとやめておこうと思った。
文芸書より生活に役立つ実践的な本が多いみたいだった。お店によってカラーがあるのだな。わたしの持ってる本をここに置いたとして手に取ってくれる人はいるだろうか。あっここ棚空いてる。いろいろ考えながらすっと横に目をうつすと、Twitterで見て気になっていた山元加津子さんの本があった。養護学校の先生をしておられた人。
山元さんの本を一冊とzineを一冊手にしてお会計をしようとすると60代くらいの女の人が入ってきて、どうやら自分のお店の前に自転車を止めて桜並木を見に行ったりピザ屋さんや公園に行ったりする人だらけで、かなわんわーと言うのを本屋さんに訴えたかったらしい。わたしの方にまで顔を向けて話してくれるから、うんうんとうなずいた。
本屋さんを出た隣に喫茶店があってドアを開けたらさっきの女の人がいた。話したばっかりなので覚えてくれていて、笑顔でいらっしゃいと言って下さった。カウンターに座ってコーヒーを注文した。
「うりずん」という店名が気になってと言うと、沖縄の言葉だと教えてくれた。店主さんは沖縄出身ではないけれどお店を開くときにお世話になった方が沖縄の人で、こういう言葉があるよと教わったそうだ。
「これから葉っぱが繁ったりいろんな命が始まって育っていく季節」とおっしゃったので、どんどん良くなって行くような素敵な言葉ですねと言ったらにこにこしてくれて、初めて会った人だけどわたしもにこにこしたくなって、コーヒーも美味しくて、今日出かけてきてよかったと思った。
また公園の前を通って、桜を見ながら歩いている人たちの表情がふんわりとして優しくて、わたしもその中のひとりになって、楽しそうな人を見て嬉しくなって、いつもなら世の中に置いて行かれたような気持ちで拗ねているのに桜の魔法にかかったのかな。
帰り電車で「うりずん」について調べたら、ちょうど3月、4月ごろの意味らしくて、沖縄の人たちがご先祖様のお墓の前で集まる「清明祭」という伝統行事がだいたい4月5日ごろから始まると書いてあった。4月5日。今日だ。そんな大切な日に「うりずん」さんに出会えた。こういうことに意味を感じてしまう。
仕事を辞めて家に引きこもって先の見通しもなんにも無くて、なのにうりずんの季節をきっかけに良くなって行けるような、それを信じてみたいような気持ちになっている。
思い込みが激しいのはわたしの短所ではあるけど長所でもあるのではないかと思う。
こんどは珈琲豆屋さんのカフェにも行ってみよう。
春-4月 - のりまき放送
ソファに寝転がっていたら、「夕食作ってよね」と奥さんから唐突に言われた。料理は嫌いではないが、少しカチンときた。新しい仕事が始まったばかりで落ち着かない気持ちを引きずっていたのも原因かもしれない。「大根と豚肉は早めに使ってね」と続けざまに言われる。「ちょっと、待って」と言葉が出かかったが、何も出なかった。のそりと起き上がって冷蔵庫へ向かう。野菜室から大根を取り出している時、みりんを切らしていたことに気がついた。ショルダーバッグに財布を入れて外に出る。生暖かい。宵の闇。コンビニの駐輪場に滑り込む。煌びやかな広告が目の端に入ってくるが、見ないようにして調味料の棚に辿り着く。うどんの素、味の素、ソース······一番下に並んでいたみりんを掴んでレジへ持っていく。
手を洗ってから夕飯の準備を再開した。大きめに切った大根を鍋に並べる。トレイの中でくっ付いている豚肉をほぐす。ぐにゃりとした感触が伝わってきた。買ってきたみりんの蓋を開け、調味料を計量カップで混ぜる。鍋を火にかけた後、豚タンとピーマンの炒めものに取りかかる。昨日の職場の歓迎会で「料理できるの?」ときかれた。味付けはどの料理もほとんど同じだし、ぱっとしたものを作れるわけでもない。どう答えたものかと考えていたら、ごにょごにょと曖昧な返事になってしまった。
麻績日記「この道」 - なつめ
「先生はどうして先生になったの?」
と、ある日突然、小学校の子どもたちにそう聞かれた。
「教えることが好きなの?」
「うーん、そういうわけでもないかも」
「じゃあ、なんで?」
と、どんどん聞いてくる。私は、なんと答えようかと真剣に考えていた。
「子どもが好きなんだよ」
と、近くにいた他の先生に言われ、子どもたちは「そうか」と、いったん落ち着いた。そのときの私は、結局自分では何も答えなかった。この村へ来る前、「先生」と呼ばれる職業にはしばらくならないだろうと思っていたのに、またここで「先生」と呼ばれているのは「なんでだろう」と自分が自分に一番聞きたかった。そのときの私はただこの村に住みたくて、たまたま教員免許があり小学校の支援員の先生の仕事を紹介され、この村で「先生」になったのである。「たまたま先生になったんだ」と子どもたちにそのまま言うことなどできなかった。そもそも先生になろうと思った一番最初の理由はなんでだろう、ということを振り返っていた。
幼少期から幼稚園に行くことが好きではない子どもだった私は、その後の小学校、中学校ぐらいまでも、学校という場所があまり好きではなかった。子どもの頃から、なぜこんなにたくさんやることがあり、朝早くから夕方近くまで、毎日学校という場所に行かなければならないのか、と思っていた。行きたくなくても、幼稚園バスのお迎えや、当校班という集団の場にみんなで一緒に行く流れがすでにできており、幼い私は義務感のようなものを感じながら、しぶしぶ登園、登校するのであった。バスも登校班の人たちも私のことを待っている。待たせてはならない、そう思わせられるしくみがもうすでにできあがっていた。こうして私は、行きたくないと思っている学校へ、疑問と不安を抱えながら、やむを得ず毎日行っていた。学校へ行ったら、その日に何か特別嫌なことがあるわけでもなかったが、とにかく毎日が私にとって疲れる場所だった。学校が好きではなかった私が、この村に来ても、小学校で働いているということも、何かがズレている。
そのような私が教員免許を取り、先生になろうと思った最初のきっかけはなんだろう。それは幼少期まで遡る。私は子どもの頃、あまり人と話せなかった。その理由の一つは、幼少期から自由に話す機会と場所がほとんどない環境で育っていたからだ。私は、学校の後にも習いごとがあり、土日も何か習いごとや、家族で出かける用事があった。私には自由にゆっくり過ごせる時間がなかった。子どもの話を聞いてくれる親でもなく、騒がしく慌ただしい家庭環境だった。部活動や塾にも行くようになると、ますますゆっくりと自由に過ごしたり、友達と話す機会や時間が少ない日々が続いた。それだからか今でもそんなに自分の話しをするのが上手なほうではない。そのような話せない子ども時代に、話をそっと聞いて気持ちに寄り添ってくれるような先生に私はずっと出会いたかった。なかなかそのような先生や場所に出会えなかった。それならいっそのこと自分が、子どもの話に寄り添って聞いてくれる大人や先生に自分がなろうと思い始めた。小学生の頃から人と話す機会が少なく、いつも緊張し、学校へ行きたくないこの気持ちを理解してくれる大人や先生に出会いたかった。遡ってよく思い出してみると、これが先生を目指してみようとした一番最初の理由だったとしばらくしてから気が付いた。
移住する前は、東京の小学校で日本語教室の先生という仕事をしていた。日本に来たばかりの外国籍の子どもたちに、日本語をゼロから教える仕事であった。私は日本語と日本文化が好きであり、外国人に限らず子どもたちに伝えたい、教えたいと思っていた。子どもが好きかということは、そのときは意識していなかったが、よく考えてみると、ある一つのことに気が付いた。外国籍の子どもたちも最初は日本語が話せない子どもである。私は好きな日本語を教える仕事をすることによって、いつのまにか話せない子どもたちの気持ちに寄り添い、日本語を教えながら、一緒に日本語を話せるようになっていった。子どもが好きかと聞かれると、そうだともはっきりとは言い切れないが、大人が多い職場より、子どもたちと一緒にいる職場のほうが自分には合っているのかもしれない。なぜか私は子どもたちに話しかけられやすい雰囲気があり、よく話しかけられた。私もそんな子どもたちに対していつも対等に接し、よく話を聞いていた。大人のむずかしい話に途中で混乱してしまう私にとって、子どもたちとの話はいつもシンプルであり、わかりやすくて、おもしろかった。子どもたちから話しかけられやすい私は、なんだか全然先生っぽくない先生だった。こんな私が先生でよいのだろうかと、ときどき思うこともあった。
村の小学校の校長先生は、気さくで明るく、はっきりと物事を言うすがすがしい先生であった。私が支援員の先生をするときも、
「子どもたちの気持ちに寄り添っていただければ、まずは良いです」
と、最初にはっきりと言われた。そのときの私は、しばらく何か教える先生にはなりたくない気持ちがあり、子どもたちの気持ちに寄り添う先生でよいと言われ、とても気が楽になった。以前の日本語の先生の仕事は、日本語を教えるための準備と教材作成に時間と頭を使い過ぎた。好きだからこそ、追求し、いつまでも考えていた。日常生活の中にある日本語が、いつ、どんなときに、どんな場面で、どんな人と、どんな会話をするときに、使うものなのかということを、いつも考えなければならなかった。私が使う日常会話も外国人に伝わるようにやさしく短い日本語がほとんどになり、日本人の大人との会話も、とてもシンプルなものになっていた。外国人には日本語の難しい表現を使うことで混乱してしまうため、日々、簡単な日本語で伝えることが習慣になってしまった。好きなものとは少し距離を置いた方がいいと、後になって気が付いた。また、そのような私の仕事は、家族にとって何の役に立っているのかわからない、無意味だとも元夫に言われ続けた。父母も私の仕事にはあまり関心はなく、一体それが何の役に立つのか、安定した仕事なのかと、あまり理解されなかった。自分がしている仕事に価値がないと思われている家族に対し、子どもたちが私の日本語の授業によって日本語が話せるようになっていく姿を見ることで、いつも救われていた。そんな私を支えてくれていたのはいつも目の前にいる子どもたちだった。
ある日、他の日本語の先生に「先生、ズレています」と、言われたことがあった。指導書に書いてある通りの、型通りのやり方を重要視するその先生は、理論的な正しさを子どもたちに教えることを統一させようとしていた。私は楽しく日本語を教えたかったが、その先生は楽しさを重視していなかった。小学生の子どもにとって、日本語の理論を教えたところで、それはとてもつまらないものであり、むしろ混乱するだろうと思った。「それが正しいのはわかるが、かえってそれだけでは、その子が混乱するのでは」と言ってみたが、型通りの正しさを重視している先生には、型通りの答えが返ってきただけだった。混乱するだろう子どもの気持ちを汲み取らず、私の小さな意見は、あっさりと切り捨てられた。その先生が言うように、やむを得ず理論通りに教えることになった私は、その子の表情が明らかに混乱していることがわかった。ただでさえややこしい日本語がさらに嫌いにならないだろうかと、心配した。その日は、私とその子にとって、つまらない授業になった。私は子どもたちと楽しく日本語の勉強がしたかった。楽しければ自然と勉強し始める。かつての私がそうだったように。常に忙しく勉強しないとならない環境の中で、勉強することが楽しいと思わせない授業の時間が、その子にとって何になるのだろうという疑問が、大人になった私にはあった。その気持ちを共感してくれる大人が大人になった今でも周りにいなかった。本当は「おかしい」と思っていたとしてもとしても、周りは外には出さずに黙っている。これで本当にいいのだろうか。「ズレている」とはっきり言われた私は、周りと「ズレないように」することができなかった。もう今後、学校の先生と呼ばれる仕事はしないほうがいいと思った。
20代の頃、一緒に教職の勉強をしていた同級生の友人が「全然先生っぽくない先生になりたい」と言っていたことを思い出した。後に小学校の先生になった友人の話を聞くと、正しさだけを押し付けてくる先生が「先生」で、正しさだけではないことを知っている先生が「全然先生っぽくない先生」、ということを言っていた。そういう意味で言うと、今この村での私は、子どもたちの気持ちに寄り添う先生という立場の支援員の先生であり、正しいことだけを押し付けなくていい。やっと私も全然先生っぽくない先生でいられるようになった。「子どもたちの気持ちに寄り添ってくれれば良い」という校長先生の言葉によって、支援員としての私は、今までとは違う先生になることができた。先生と呼ばれる立場であるが、子どもたちに正しさを押し付けず、一緒に話を聞いて、一緒に考えることができた。東京の小学校ではズレた存在であった全然先生っぽくない先生だった私は、この村の子どもたちと過ごすことによって、このズレた存在のままでいいと思えるようになっていった。
全然先生っぽくない私を、むしろよしとしてくれる先生もこの小学校にいた。特別支援教室の先生だった。その先生は私の雰囲気を「こうしろ、ああしろと、押し付けない雰囲気がいい。子どもに寄り添うことが一番大切だから」と言ってくれた。特別支援の先生にも向いているとも言われたが、あまりピンときていなかった。私は子どもが好きというより、正しさを重要視し、押し付けてくるような大人が大勢いる職場が苦手なのである。この村の子どもたちは、特に無邪気であり、先生に対して、おかしいことは「おかしい」とはっきり言える子も中にはいた。そのような子を見ては、私はその子どもの気持ちを肯定し、共感していた。先生に向かっておかしいことを「おかしい」とはっきり言うことができる子どもの素直さにも尊敬していた。休み時間に子どもたちの話を聞くことで、私もニュートラルな人間の気持ちを取り戻していった。子どもの気持ちに寄り添う先生というこの状態が、今の自分に合っていた。授業中、全然関係のない話をし始める子もいた。隣でそっとその話を横で聞いていたら、一時間一緒に授業を聞いていなかったという日もあった。授業中に今何をするかということを気づかせてあげないとならない立場にいながら、その子の話を聞き過ぎてしまった私。やはり私は先生っぽくない。それなのに担任の先生には「あの子の話をいつも聞いてあげてくれて、ありがとうございます」と言われた。先生としてズレた感覚だった自分が、ここへ来て、そんな自分を少しずつ肯定できるようになっていった。
私が先生になろうと思った最初の理由は、子どもたちの話に耳を傾ける先生になりたかったからだった。それは私が子どもの頃に大人や先生に話を聞いてほしかったことから始まっていた。子どもたちの目線で話を聞いてくれる大人や先生に出会いたかった。そのような私は、大人になった今では目の前の子どもたちに救われている。私にとっては理論的な大人といることのほうが窮屈であり、わかってもらえなさを感じ、悲しかったのである。子どもたちの話を聞いていると、いつもニュートラルな状態を取り戻し、私も元気になった。私が今まで歩いて来たこの道は、子どもたちによって支えられてきた。全然先生っぽくない支援員の先生である私は、日本語の先生という経験を経て、話すことが苦手だった私も、子どもたちと一緒にいつの間にか話せるようになっていった。今まで歩いて来たこの道は、こんなに遠く縁もゆかりもなにもない場所まで来たというのに、一本の道でつながっていた。子どもの気持ちに寄り添う大人に出会いたかった私が大人になった今、子どもの頃の話せなかった自分と出会えたとしたら、なんと声をかけるだろう。
犬飼愛生の「そんなことありますか?」⑯
そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。
「あなたはオーバーワーク」
息子の塾の面談、約束の2時間前に電話が鳴った。「わたくし、●●塾のAと申します。本日の面談予定なのですが担当の塾長に予定が入ってしまいまして······今から1時間後に変更していただけないでしょうか?」。電話してきたAと名乗る人物はあきらかにバイト先生でたどたどしい。えっ。沈黙するわたし。だって、我が家はこの塾に息子が入ったときから面談は教育熱心な夫の希望で夫も参加していたし、今日はそのためにわざわざ夫は仕事を調整して面談に間に合うように段取りしていたのだ。それでもあと1時間後には戻ってこられない。そもそも、当日変更、しかも予定の2時間前にこんな電話をバイト先生にさせてくるなんて、おかしいじゃないか。わたしはそのことをはっきりバイト先生に告げた。沈黙するバイト先生。「申し訳ございません······」と繰り返すだけで解決しない。わたしはこのような時間の約束を簡単に反故にする人がとても苦手だ。こういうとき、みんなどうするのだろうと思う。最低でもこんな大切なこと、塾長が連絡してくるのが筋じゃないのか。だってわたしたちは塾長と面談するのだから。他の日でもいいといわれたが、面談は3月中に終えたいという。はぁ、もう予定が調整できない。結局夫は面談に参加できないままわたしと息子で塾に向かう。
塾に到着するとさきほど私と電話したバイト先生と思しき名札を下げたA先生と目が合ったが、A先生はさっと目線を外した。きっとやべえやつだと思われているんだろう。おい、私の怒りをちゃんと塾長に伝えたか? と心の中で問いかけながらブースで塾長を待つ。若く、営業マンのような塾長。予定が入り乱れすぎて大変なんだろう。でもね、時間の約束っていうのは信用問題なんです、とまじめなわたしは思う。しかも面談の当日になっての予定変更は以前もあった。二回目なのだ。だからこそわたしはがっかりしたし、頭にきた。そして、マンツーマン指導の塾なのに来月から担当先生が変わることをわたしたちに伝え忘れていたことも発覚。え、「そんなことありますか?」だ。ここでハプニングの神の登場を感じてきたわたし。先月は4月からも大丈夫って言ってましたよね? なんか塾長、今日ボロボロじゃない? この人、こんな感じだったっけ? いつも笑顔で誠実だと思っていたのに。塾長のデスクには飲みかけのエナジードリンク。うわぁぁ、ない燃料を無理やり燃やして仕事しているのか? あなた、オーバーワークだよ。いろいろな感情がうずまく中、面談を終えて外に出てみると目の前の歩行者信号が90度くらい横を向いていて、信号の役目を果たしていない! なんで? 読者のみなさん、ここでタイトル回収です。「そんなことありますか?」。
どうやって傾いたのか? トラックとぶつかった? いや、長い棒であえて叩いた? 今日は変なことばかり起こる。まじめなわたしは管轄の警察にこの信号のことを報告した。数日後、この傾いた信号は一応直っていたがまだちょっと傾いている。この信号を見るたびにオーバーワークでボロボロだったあの日の塾長のことを思い出してしまうのです。
帰ってきました. - maripeace
帰国後4日目です。2ヶ月ほどコロンビアに滞在していました。東京は、しとしと雨です。寒いです。向こうで主に滞在していたのは標高が約1500メートル、最高気温が30度くらいあるメデジンという街。以前はおそらく25,6度くらいだったのでしょう。常春の街、と言われていましたが、今年はもはや常”夏”に近くなっていました。雨が極端に少なく、なかなか気温が下がらない日が続きました。
出発したのが2月1日だったので、私の身体は冬→夏→春という順番で移動したことになります。日本の春にすぐに順応することができません。出発前に始まった家の最寄り駅前のビルの解体工事は、まだ今月いっぱいかかりそうです。隣の敷地も新築工事が始まっていました。時差ぼけで夜眠れないのですが、2つの工事の音と振動で昼間家にいても休まらないので、体調を回復させるまでには時間がかかりそうです。
そろそろ生理が来そうなのですが、この2ヶ月の記録をし忘れてしまい、アプリは正確な予測を出してくれません。片付けるエネルギーがないので荷物に埋もれてこの文章を書いています。
コロンビア滞在の最後に、首都ボゴタに4日間滞在しました。こちらは標高が約2500メートルある、私が子どものころ住んでいた街です。メデジンから直接メキシコシティに飛ぶ便に変更することもできたのですが、どうしても会いたい人がいました。でもボゴタに同行してくれるはずだった友人はひと月前に怪我をしてしまい、ホテルに一人で滞在することに決めたのでちょっと心細く、3泊4日の日程で日本に帰ることにしました。
寝つきが良くなかったのは、朝晩の寒さと、久しぶりに一人で眠る不安のためかなと思っていました。でも高地に慣れないせいだったのかもしれません。1日5時間くらいの睡眠が続き、4日目の朝にホテルを出ました。14時すぎの便で4時間かけてメキシコへ、そのまま夜中の1時の成田ゆきに乗り継いで、15時間50分のフライトで朝6時に成田に着く旅程です。飛行機の中でずーっと眠れれば、朝そのまま起きて時差ぼけも少ないのでは? と思ったのですが、そう簡単にはいきませんでした。ホテルを出てから自宅に着くまで、横になって休むこともできず、連続48時間移動。そりゃ疲れますよね。地球の反対側、なめてました。
メデジンではいくつかの本屋さんと図書館と、一つだけ出版社にも行きました。日本を出る時、日本食と日本語の絵本を詰め込んだスーツケースの空間は、甘いお菓子とドライフルーツ、スペイン語の絵本にかわりました。
大切にプチプチに包んだ絵本たちをまだ開いてはいません。今は一冊の本を手元に置いています。Nobara Hayakawa ”LA VOZ DE LAS PIEDRAS”(石たちの声) 。コロンビアに移住した日本人のご両親のもとボゴタに生まれ育った女性が、自分の家族のルーツをたどってスペイン語で書いた、出版されたばかりの小説です。その本を持ち帰ることになったのは偶然の連なりでした。
去年の夏、北海道斜里町にある「北のアルプ美術館」のことを札幌の古書店「円錐書店」で知り、訪ねるのを楽しみに知床まで行ったのですが、なんと調べが足りず定休日にあたってしまいました。とても残念に思い後日ホームページを開いたところ、竹久野生さんというコロンビア在住の画家の画集が販売されているのを見つけました。そんな方がいらっしゃることを初めて知った私は、ちょっと興奮して、彼女の著作を図書館で探したり、スペイン語のプロフィールを翻訳して読んだりしていました。
メデジンの本屋さんで、ハヤカワ・ノバラさんの絵本を何冊か見つけました。この方はどんな方だろう? と調べたら、野生さんの娘さんでした。一冊だけ購入し、その後出版された小説も見かけましたが、もうスーツケースが一杯になりそうだったのと、スペイン語初心者の私には難しそうに思えたので見送りました。その話をしたら、お世話になった方が、それなら私の買ったのをあげる、と旅の最後に手渡してくれました。日本に戻って、何をモチベーションに言葉を学んだらいいかと悩んでいたけれど、その本をどうしても読みたいので、スペイン語を教えてくれている先生と一緒に読めたらいいなと思っています。
そんなふうにして、自分が求めたものと全く違うものが、思いもよらない形やタイミングで手の中に落ちてくる。何かがしたい、と強く思ったけれど、できなかったり、思い通りにいかなかったことも、めぐりめぐって何か別の、贈り物のような出会いや出来事をもたらしてくれるのかもしれない。
子どもの頃に別れてしまった犬やおもちゃ、大切な友達や言葉。自分には無理だと思ったり、家族に応援してもらえなくてあきらめたこと。躁鬱をくり返して、我慢をためて勝手に爆発したり、飛び込んでは全力で逃げた場所や人との関係。憧れや目標を見つけても、自分との落差に落胆して、ほんの小さな努力や積み重ねもできず、いつの間にか気力を失い、延々と自分を責めてしまう、私の脳みそのクセ。人生思い通りにいかないことばかり、失敗やあきらめばかり積み重ねていたように思ったけれど、案外そうでもないのかもしれない。
今朝も、いろんなことをやろうと思うけど、頭も体も思うようにいきません。でも、思いついたこと全部を、手をつけたり完成させなくていいと思ったらホッとしています。
時間差 - スズキヒロミ
父が亡くなって一週間が過ぎ、葬儀も終えて一息ついてから、納骨の相談になった。父は生前に、公営墓地の利用許可を取得してくれていた。使用料も完済してある。あとはそこに納骨してひと区切り、と思ったらそうはいかなかった。墓地利用者の名義を変えなければならないのだという。
素人考えでは、利用許可を持った人がその墓に入るのに何の不都合があるのか、と思う。思うのだが、墓地の規定によると、利用者が亡くなった場合、その「祭祀財産」承継の手続きが必要だという。
承継候補者の一人であり、妻である母は、
「あたしはどうせ時間の問題だから、あんたたちどっちかにしなさいよ」
というのである。私たち兄妹は顔を見合わせた。
墓地利用者の名義は私に変えることにした。必要な書類を取り寄せる。私の住む自治体では、自分の戸籍謄本や住民票、印鑑証明などを職場近くのコンビニでも取ることが出来た。ただ、父の戸籍謄本だけはすんなり取れなかった。
父は本籍を生まれ故郷に置いていて、現住所に移していなかった。私の住む役場に行って手続きをすれば手に入るらしかったが、あいにく仕事が毎夜の残業続きで、とても半日の休みすら取れそうにない。また他にひとつ気になることもあり、父の故郷の役場に郵送で申請を送って、戸籍謄本を取り寄せることにした。疲れ果てて申請書をただ眺めるだけの夜もあったが、仕事の合間にようやく一式調えて、それを速達で送った。
投函から2日ほど経って、故郷の役場から電話がかかってきた。
「三郎さん、ですね。まだそちらの自治体の方から、死亡の連絡が入っておりませんで······」
これが気になっていたことだった。死亡届が出されてから戸籍に反映されるまで、時間がかかるらしいと聞いていたのだ。それにしても、もう二週間は経っている。オンライン化が進んでいるとしても、戸籍の処理はまだ人間がその目と手で確かめてから、ということなのだろうか。
担当の方とのやりとりで、記載事項の変更後に役場から私に電話をもらい、そのあと書類を送ってもらうことになった。
電話を切って、すこしほっとした気分になっているのに気がついた。係の人の、かすかな訛りが懐かしかったからだろうか。カレンダーの日にちを眺めながら、私は今後の段取りを確かめた。いついつまでにあれをして、その後にこれをして、という幾つもつながった予定が、お役所仕事の大らかさのおかげで少し間延びした。
手続きは半ばながら、墓石を作ってくれる石屋さんの担当者に電話をかけて、今の状況を伝えた。墓石の方は、相談通りの日にちに届くそうである。
それにしても、書類決裁の狭間にもたついて、父は故郷でまだ生きているかのようだ。行くも戻るも動きようもない父はきっと、この隙に一服つけているであろう。いつものあの仏頂面で、と思うとおかしくなった。
父に愛されたふるさとの方でも、「あのひとが死んだなんて聞いてません、証拠をこの目で見るまで、わたしは認めませんからね」と駄々をこねている様子が妄想されて、これまたおかしくなった。
離婚日記を書くために 03 - UNI
おかしなふたり、というタイトルにしようと思っていた。離婚してからの日記だ。そのタイトルに、おかしなふたり。
神戸のアパートは窓サッシが薄い。11月後半だっただろうか、あまりの寒さに腹を立てた。そのときに買った窓用のエアクッションをまだ貼っている。貼りっぱなしにしていると、カーテンを開けていても曇りガラスの要領で、外の景色が見えない。だからなのか、まだ時々、ふと、ここはどこなのかわからなくなる時がある。
元夫とはほぼ毎日LINEをする。昨年末に彼と会うといったら、「ヨリ戻るんじゃないの」と言われたことがある。絶対に、絶対に、そういうことはない。年末は忙しいならまた今度にしようと私は一旦断ったにも関わらず会うことになり、それでいて当日の彼はずっと所在なさげで会話も弾まず、わたしは帰りの阪急京都線で情けなくなってしかたなかった。来なければよかった。会わなければよかった。別に前向きな気持ちなんてないのに、どうしてお互い時間をあわせたんだろう。そうすることが大人の、前向きな離婚をしたひとの過ごし方だと勘違いをしたのかもしれない。
あの年末に、「なにが“おかしなふたり”やねん」と目が覚めた。おかしくもなんともない。面白さは無し。しっとりも無し。
先月、元夫の誕生日だった。一応やり取りは続いているので、なにがほしいか尋ねた。エッセイがほしい、と返ってきた。湿度が高いものになりそうで嫌だった。何文字か確認したら、100文字程度だった。エッセイを書くには短すぎる。どんなテーマで書けばいいのかもわからない。自由律俳句、みたいなイメージで書いたものを送った。おかしな人間、と思いながら送った。
「ふたり」という枠から出られたから、もうふたりについて書く必要はない。離婚してからの日記のほうがだんぜんおもしろい。今、何月だっけ? 今、どこにいるんだっけ? それくらいの勢いでわたしはわたしの人生に振り回されている。自分で自分を振り回さなきゃもったいない。
ということでWSマガジンでの離婚日記は突然終わりです。
Twitterやめた - Huddle
詩人の大崎清夏さんの文章がとても好きで、3月に日記が本になったのを読んで、ため息をついている。というのも、2023年6月30日の日記で、Twitterを華麗にやめていて、うらやましいのだった。
自慢じゃないけど、わたしもTwitterはかれこれもう20回はやめている。ここ数年は、毎年イベントが近づくと「そろそろ告知でもするかな」とアカウントをつくってぽちぽち書きはじめるが、イベントが終わるともう用無しとばかりにやめてしまう、みたいなことを何度もくりかえしてきた。でも、前回やめた(やめていない)「おかやま文学フェスティバル」の関係で、今後はなにかと告知したいようなことなど細々とありそうなので、そろそろTwitterやめるのもやめにしようかなとおもいつつ、とはいえ、できることならいいかげん別のプラットフォームに移りたい、Twitterやめたい、という気持ちを温めつづけている。
理由はいろいろあるけれど、いちばん大きいのは、サービス名が変わってしまったことでしょうか······ もちろん嘘ですけど。でも、大崎さんも書いていたように、オーナーがかわってしまったことに起因するもろもろがユーザのモチベーションを下げまくっているのは間違いないという気がしている。大崎さんはTwitterをやめて、当初はInstagramだけになった、とのことだったけれど、いまはThreadsにもいるようです。
Twitterに似たようなプラットフォーム、増えましたね。ほかにもTwitterからの移住先の候補としてはBlueskyというのがあり、のぞき見るたび、古き良き時代のTwitterみたいな感じがして悪くないな、とおもう。MastodonとかPost.(post.news)なども話題になったりならなかったり。でも、こういう短文投稿サイトの時代はもう終わったので、これらが遍く焼け野原になることを願ってやみません。
ではここで、2009年2月13日から14日のTwitterを振り返ってみましょう。
当時はまだ@なんか使わずともTL上で会話が成り立っていたことがわかる。やっぱり、まいにちこれくらいつぶやかないとTwitterって感じがしないですよね。Twitterやめた。
大崎清夏さんの日記は『私運転日記』といって、twililight(トワイライライト)という版元から出ています。ライが2回。nakabanさんのじゅわっとした装画もきれいです。ぜひ。
H駅の印象 - 下窪俊哉
しばらく山と山を縫うように走ったあと、国道と川が並走してついてくるのを見ていたら、いつの間にか雨はあがっていた。やがて薄暗い空の下に、次の街が見えてきた。その街の駅を出ると、巨大な車庫のような区間に入る。たくさんの線路がある中のひとつを選んで、孤独に走っていた。快速になった電車は途中にある駅をいくつもとばした。どの駅のホームにもかならず人がいて、私たちを見送っていた。急に左右の揺れが激しくなって、車窓の風景は大きく浮いたり、沈んだりした。
地方都市の大きな駅に降りた。自動改札のない地上一階の改札で、駅員に切符を渡して外へ出ると、駅前に停まっている路面電車の向こうに見える大きなビルの照明が眩しかった。
いつ来ても、H駅は明るい印象の中にあった、と彼は思った。そこでどんな出来事があったのかは、思い出そうとしなければ思い出せない。たくさんの人声がかたまりになって、駅の屋根の下を埋めていた。また雨が降り出しそうな気配を感じた。
地下へ下りてゆくエスカレーターと階段が、交互に連なって見える。その向こうにガランとした広場があって、巨大な壁には無声のカラー・アニメーションが映されていた。コミカルな犬のキャラクターが、何かを一所懸命に喋っているが、何を喋っているのかは全くわからない。その地下の空間はしっとりとした感触に満ちていて、透明な匂いがした。空洞の中を軽いボールが転がるような音がした。
何かの門を模した入り口があり、彼はそこを潜って行った。そこは駅ビルの地下の商店街で、関連のなさそうな雑多な店が集まっている。その一角にある雑貨屋に、彼女の姿が浮かんだ。数ヶ月会っていないだけで、もう懐かしさをまとって見えた。向こうは自分に気づいていない。一方的に観察していると、もしかしたら人違いではないか、という気がしてきた。それくらい自分の知っている彼女ではないような気がした。腕時計を見て、彼はその場を離れた。約束の時間まで、まだもう少し時間があった。
建物の中央付近は吹き抜けの空間になっていた。らせん状になったエスカレーターに乗り、上の階にあるらしいカフェへ向かう。途中、用途のわからない隙間のような空間があり、そこに取り残された裸のマネキンが彼を見下ろしていた。
ひとこと - 矢口文
高校生の頃、美大に行ったら映像を学んでアニメーションの映像作品が作りたいなぁと漠然と思っていました。
美大へ進学するために受験というものがあり、受験のための絵を勉強していました。予備校の先生と私の母の思惑などがあり、日本画専攻を受験しなさいと言われました。日本画にも興味はあり、東山魁夷や高山辰雄の展覧会に行ったりしていたので、言われた通り日本画を受験して日本画専攻に入りました。入学してみたら、クラスの人も先輩達も面白い人ばかりで、私はそのまま日本画の道を歩むことになり、映像を学びたいというぼんやりした気持ちは消えてしまいました。
で、いまさらながらファインアートをやっている自分に無理矢理感を感じていて、そういえば高校生の頃アニメ作りたいと思っていたなぁと思い出し、「自作 アニメーション」で検索していろいろ見ていたら、ストップモーションアニメというのを見つけました。絵を描くのではなく、実写のコマ撮りアニメです。なんとiPad用のアプリがあります。誰でもすぐにストップモーションアニメが作れるのです。早速作ってみました。楽しい!
そういうわけで今月の表紙画と挿絵はアニメからのモチーフになりました。切り絵の一種ととらえていただけたらと思います。
巻末の独り言 - 晴海三太郎
● 今月もWSマガジンをお届けします。初登場の坂崎麻結さんは、Twitterでたまにお見かけしていましたが、やりとりするのは初めてかも? WSマガジンへようこそ! ● アフリカキカクのウェブサイトに、WSマガジンの総目次を載せることにしました。これで、いつ、何が書かれていたか、見渡せるようになるでしょうか。ちょっとやってみています。● このWSマガジンの参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、再び読むこと、たまに話すこと。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。● では、また来月!
道草の家のWSマガジン vol.17(2024年4月号)
2024年4月10日発行
表紙画と挿絵 - 矢口文
ことば - RT/犬飼愛生/UNI/坂崎麻結/下窪俊哉/スズキヒロミ/橘ぱぷか/なつめ/のりまき放送/Huddle/晴海三太郎
工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - 春眠会
読書 - 眠読推進会議
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
喫茶 - うすらい
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
雑用 - 貧乏暇ダラケ倶楽部
心配 - 鳥越苦労グループ
謎々 - 空に、こぶしを突き上げている妖怪って、なーに?
音楽 - あなたの鼻唄
出前 - 残り物研究会
配達 - 一輪車便
休憩 - マルとタスとロナとタツの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会
企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎
提供 - アフリカキカク/道草の家・ことのは山房
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