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綿谷りさの『オーラの発表会』を読んだ


個性的な人の思考回路って案外シンプルなのかもしれない。

主人公である海松子はだいぶ変わっているが本人はそのことに気づいていないし気にしていない。私が今まで出会った子に、彼女にとても似た子がいたが何を考えてるのか分からないのではなくあまり考えていなくて、もっと他のことにきょうみがあるんだろうなと薄々感じていた。

人に興味が湧かないというのは、私にとって怖いワードなのだけど、以前知人に、貴女は薄っぺらくて知りたいとか全く興味が湧かないと言われたことがあってかなり心をかき乱されたことがある。その人は良くも悪くも海松子のように人の気持ちが分からない人だったのだろうと今ではわかる。わかるけどその通りだったのだとも思うのだ。


読んでて人の機微が分からない主人公が苦手だなと思ってしまっていた。同じクラスなら関わりたくないタイプ。(ごめん海松子)(考え方に全く賛同できなかったんや)

読んでてあまり楽しくなかった。なんで楽しくないんだろうかと考えてみた。

私は高校一年の時、クラスの人と全く会話をしなかった。進学校の静かさに馴染めず、クラスの子の名前すら覚えていなかった。傍から見れば海松子はわたしだったのかもしれない。クラスメイトに興味がなかった。高校二年にあがると仲良い友達ができ、とても楽しい毎日を過ごすが、同時に一年の頃同じクラスだった子達には変わったねと言われた。わたしが知ろうとしてなかった彼女や彼らからそんな風に言われて、それは違うよ。と、喉に言葉がつっかえた。二年生になって仲良くなった子は私に興味を持って話しかけてくれた。私が変わったのではなく、周りが変わっていたのだ。こんなこと言いたくないけれど、一年の時は成績が悪かった私のことをクラスメイトは馬鹿にしていたのをよく知っている。馬鹿にされているのを机に突っ伏しながら聞き、名前なんか覚える必要ないなと思ってた。馬鹿にされている人と付き合いたいとは思えない。海松子はかなり人を馬鹿にしている。そのことに気づいていないのが、彼女自身にも興味を持っていない証拠だし、人の言葉を軽んじているところが本当に嫌いだ。


嫌悪の感情は伝播してしまうかもしれないが、好意はなかなか伝播しないなと思うことがある。人に好かれるために動く人も嫌いだが、それ以上に人を馬鹿にする人が嫌いだ。これは伝播して私が嫌われる原因のひとつかもしれない。だけど、30を目前にして自分の嫌いは否定しなくていいと思う。好きも嫌いもその人だけのもので、他の人がとやかくいうことじゃない。ただ伝播することだけ覚えとけばいい。


たまに、薄っぺらい自分は生きている意味あるのかと思う時があるが、人に薄っぺらいと言えてしまう無神経さに殺されるのは少し違うなと思う。それが正しいことであったとしても人に言う時点で正しくなくなる。

私の厚みはその人から見ると薄っぺらかったんだろう。とても魅力的な人から言われたので心の棘となって今も抜けない。だけど、夫になんでそんなこと言うやつのこと信じてるの。と言われて私は選んでくれた夫を信じようと思った。

高校一年の時のクラスメイトではなく、二年の時の友達を信じたように、見る人が変わればどんな人かも変わる。わたしは輝ける場所と人と共に生活していきたい。


大切な人の大切であることに誇りを持てるように日々鍛錬しながら、成長していきたい。


読書の記録ならぬ自己との対話になってしまったが、最後まで読んでくれてありがとうございます。


おわり


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