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唯識の世界線、『暁の寺』

 『豊饒の海』第三巻。これまで狂言回しとして輪廻の目撃者であった本多繁邦が物語の中心となって、仏教の生まれたインドと敬虔なタイ国を訪れる。

ジン・ジャンを松枝清顕の生まれ変わりと俄かに信じて、幼少期の出会いから、美しく成長し渡日してくる彼女に翻弄されていく本多の、壮年期の変り様に驚かされてしまう。
作家自らを重ねたわりに、別荘普請に耽溺する魅力がない男で、ここへ来てワンチャンないかとジン・ジャンに姑息な手を回す本多は中年クライシス只中というかんじ。

合間に滔々とさ迷う唯識の森は衒学的なものじゃなく、作家・三島由紀夫がまさに当時分け入った世界線で難解すぎてとてもついていけない、字面を追うだけだった。
唯識世界の占める分量が、シリーズの印象から本書を、異質に遠ざけていく。

絶対にものしなければならなかった第三巻。
本作の完成が「実に不快だった」という作家の真意と、『暁の寺』の位置する場所みたいのを、最後『天人五衰』ですこしでも知れるだろうか。

ちなみに、読みながら付箋を貼った頁は、感想とまったく関係のない2箇所。
本多自身の自己分析と、第二次世界大戦に関する一文。

本多は薪に火をつけたが巧く行かなかった。(中略)本多は薪を燃やすたびに、自分の生涯のどこを探しても、こういうもっとも質朴な知識や技術に親しむ機会のなかったことを思わずにはいられなかった。彼はそもそも「物」に触ったことがなかったのではないか?
これはこの年になってからの奇妙な発見だった。本多はその生涯を通じて、およそ閑暇というものを知らなかったが、それは労働者たちが労働をとおして知る自然の手ざわり、海、その波、樹、その堅さ、石、その重さ、それから船具や引網や猟銃などの道具の手ざわりに、別の方向から、閑暇をとおして親しむにいたる貴族的な生活とも、ほとんど無縁にすごしてきた証拠であった。清顕はただ彼の閑暇を、自然へ向けずに、感情へ向けていたが、もし彼が成長していたら、なまけ者以外の何者にもならなかったことであろう。 

(p193)

『暇と退屈の倫理学』にほんのすこしクロスしておもしろい。

日独伊三国同盟は、一部の日本主義の人たちと、フランスかぶれやアングロ・マニヤを怒らせはしたけれども、西洋好き、ヨーロッパ好きの大多数の人たちはもちろん、古風なアジア主義者たちからも喜ばれていた。ヒットラーとではなくゲルマンの森と、ムッソリーニとではなくローマのパンテオンと結婚するのだ。それはゲルマン神話とローマ神話と古事記との同盟であり、男らしく美しい東西の異教の神々の親交だったのである。 

(p27)

ロマンティックな偏見だと一応後付けしてある。
閑暇の持ち主清顕の言葉「歴史に関わろうとする意志こそ人間意志の本質」と、上の一文と、”時代が身も慄えるほど何かに熱して、何かを夢見ていることは明らか”な背景まで、合わせてやはり『暇と退屈の倫理学』にどこかで重なっていておもしろい。

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