唯識の世界線、『暁の寺』
『豊饒の海』第三巻。これまで狂言回しとして輪廻の目撃者であった本多繁邦が物語の中心となって、仏教の生まれたインドと敬虔なタイ国を訪れる。
ジン・ジャンを松枝清顕の生まれ変わりと俄かに信じて、幼少期の出会いから、美しく成長し渡日してくる彼女に翻弄されていく本多の、壮年期の変り様に驚かされてしまう。
作家自らを重ねたわりに、別荘普請に耽溺する魅力がない男で、ここへ来てワンチャンないかとジン・ジャンに姑息な手を回す本多は中年クライシス只中というかんじ。
合間に滔々とさ迷う唯識の森は衒学的なものじゃなく、作家・三島由紀夫がまさに当時分け入った世界線で難解すぎてとてもついていけない、字面を追うだけだった。
唯識世界の占める分量が、シリーズの印象から本書を、異質に遠ざけていく。
絶対にものしなければならなかった第三巻。
本作の完成が「実に不快だった」という作家の真意と、『暁の寺』の位置する場所みたいのを、最後『天人五衰』ですこしでも知れるだろうか。
ちなみに、読みながら付箋を貼った頁は、感想とまったく関係のない2箇所。
本多自身の自己分析と、第二次世界大戦に関する一文。
『暇と退屈の倫理学』にほんのすこしクロスしておもしろい。
ロマンティックな偏見だと一応後付けしてある。
閑暇の持ち主清顕の言葉「歴史に関わろうとする意志こそ人間意志の本質」と、上の一文と、”時代が身も慄えるほど何かに熱して、何かを夢見ていることは明らか”な背景まで、合わせてやはり『暇と退屈の倫理学』にどこかで重なっていておもしろい。