思うこと徒然(1,700字ほど)
とある有料読書スペースに来ている。見学には来たことがあるけど、はじめての利用だった。座った席の後ろの方に観光客がいるのか、イタリア語のような発音の声がきこえる。男性だ。フーッと溜息をついている。話し声をよく聴いてみると日本語だった。イタリア人風の日本人の話し声。うるさい感じがする。読書スペースなんだから静かにしようよ。ちょっと後を向いて確認すると、独り言を話しているおじさんだった。世の中にはいろんな人がいる。
母が亡くなってから、書くことをしなくなった。Facebookではパスタをつくった記事を時々アップしていたけど、noteには記事をあげなくなった。書くことがなくなってきた感じだった。無理して何かを書いても楽しくない。書きたい時に書くほうが健やかだと思われ。日常で書くことから離れると、さびしい思いが湧いてきた。書くことを辞めることを躊躇していたけど、書けなくなるとしょうがなくて自然断筆状態になった。書けるようになれば何かを書きたいなと思ってた。
仕事は4月に部署異動があって、新しい部署でそれなりに働いていたが、9月にまた小さな異動があって立場が昇格。同時にゆるゆるとしていた仕事に制約がかかり、デスクの上に書類が山積みになった。
自分としてやりたいこと、例えば時間をやりくりして、NVCの講座を受講するとか、そういうことがしにくくなってきて、どうしても出勤してほしいという場面がやってくるようになった。どれだけ調整しても、仕事上のトラブルが発生すると、その対応をしなければならない。社会人としては当たり前なのだろうけど、違和感が増大してくる。ぼくが体験したいことを、なぜ自分で決めることができないのか。「そりゃ、あんた、会社勤めなんだから、お上の言うこと聞くの当然じゃないか」そう、会社勤めは、それが当然なのだ。休むのもお伺い。休むなと言われれば、休まない。そもそも休みを取れない風潮もある。部署によって風土はいろいろあるから。
ぼくは今まで、組織に属して、組織に身を守ってもらうと同時に、自分の選択権を組織に預けてきていた。当然、組織はぼくを拘束することができて、ぼくはその拘束に対して抵抗するのだけれど、最後は負けてしまう。取引が成立しているから負けてしまう。
そのことが不本意で、自分のいのちが望んでいることを生きてみたいなら、一度組織を離れる体験をしてみることだ。組織を離れて、生きて、どんな感じになるのか、味わってみたい。
「組織から離れたい」ということを周囲に対して口に出し始めると、話はどんどん進んでいって、来年の3月末で退職することになった。「なった」という言葉遣いは選択権がない被害者的な物言いで、改めて言葉にすると、ぼくは3月末で退職することに決めた、ということ。
当然恐れがある。やめた後どうやって食べていくのか。多少の蓄えはあるから、すぐに食いっぱぐれることはない。だがその先はどうする。今までの稼ぎと同じ稼ぎを得ることは難しいだろう。「お前のその選択は正しいのか?」、「しがみついて給料を得た方が得策だろう」ぼくのなかの声はそうつぶやくし、周りのリアルな声もそう言う。それでも、ぼくは体験したいことがある。生存的に生き抜くこととは別に、自分のいのちが体験したいことを体験したい。それがなんなのかは、実はわからない。でも、今、これじゃないな、という感覚は強く持っているし、ずっと感じていた。だから、今の仕事をいったん終わりにすることにした。
正直、今までいのちを削って働いていたのだと思う。そのことに気付いていたし、そうしなければ、生き抜いていけないと思っていた。果たしてその働きは、いのちの願いに叶っているのか。そんなこと、誰にもわからないし、ほんとうにはぼくにしかわからないことだ。上手くいくかいかないか、二元的な世界ではなくて、どっちもあるし、どっちでもいい、という豊かな世界を創り出したい。甘い考えなのかもしれないが、ぼくは素直になって、ぼくのいのちに着いていくことにした。いのちとともに旅に出ることにした。