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『倭國三種の神器』の行方と『倭寇』『仏教』etc

皆さんこんにちは。

なんでもライター宙唄(Sorauta)

です。

最近

『Re:ゼロから始まる異世界生活 3rd season』

が始まってから、

「Ameba」が夜の日課

になりつつあります。

https://note.com/writer_sorauta/n/n6d86b4abe3fe?sub_rt=share_sb

「なんでもOtaku・Sorauta」のリンクも貼っておきます。

まだご覧になっていない人で、興味ある方は、1st Seasonから観ることをお勧めします。時系列で出来事がわかっていないとチンプンカンプンになると思います。「ただのロリ・美少女妄想アニメ」になりかねません笑


さてさて、
今日は

『倭國三種の神器』の行方と『倭寇』『仏教』etc

をテーマにしてみました。

天皇三種の神器(てんのうさんしゅのじんぎ)は、日本の天皇が持つとされる三つの神聖な宝物で、国の象徴とされています。これらは以下の三つです。

  1. 八咫の鏡(やたのかがみ) - 神々の力を象徴する鏡で、真実を映し出すとされています。鏡は、伊勢神宮に奉納されているとも言われています。

  2. 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま) - 美しい宝石の形をした勾玉で、生命や霊を象徴します。古代から神聖視されるアイテムです。

  3. 草薙剣(くさなぎのつるぎ) - 日本神話に登場する剣で、勇気や戦いの象徴とされています。この剣は、愛知県の熱田神宮に保管されているとされています。

これらの神器は、天皇が即位する際に重要な役割を果たし、日本の皇室の正統性を示すものとなっています。

安徳天皇(あんとくてんのう)は、源平合戦の際に逃避行を余儀なくされました。1177年に源氏と平氏の戦いが続く中、安徳天皇は平家に属していました。1185年の壇ノ浦の戦いで、平家は敗北し、安徳天皇は海に飛び込むという悲劇的な結末を迎えました。

安徳天皇が三種の神器を持ち去ったという伝説が存在しますが、具体的にどのように持ち去られたのかは歴史的な記録では明確ではありません。伝承によれば、安徳天皇が平家と共に壇ノ浦へ向かう際に、三種の神器が一緒に持ち去られたとされています。しかし、神器はその後、歴史の中で行方不明になったとされています。

一方、神器は後に再び発見されているという伝説があり、古代の神道において重要な役割を果たし続けています。実際の歴史的背景や神器の行方については、信憑性のある証拠が不足しているため、さまざまな解釈が存在します。

安徳天皇(あんとくてんのう)は、平安時代後期の天皇で、在位期間は1180年から1185年までです。彼の出生から最後までの経緯について詳しく説明します。

出生

安徳天皇は、1168年に、平清盛の子である平宗盛と、その妻である平氏出身の姫、または女官(諸説あり)との間に生まれました。彼は、平家の血を引く者として生まれたため、平家一族が支配していた時代背景の中で重要な存在となります。

即位

安徳天皇は、父・清盛の死後、1180年にわずか2歳で即位します。彼の即位は、平家による権力維持を目的としたものであり、実質的には平氏の大臣たちが政権を支えていました。

在位と歴史的な背景

安徳天皇の在位中、日本では源平合戦が勃発しました。源氏と平氏の対立は激化し、平家は各地の武士たちと戦う中で困難な状況に直面します。安徳天皇は、平家の権力の象徴として利用されていましたが、彼自身は幼い天皇であったため、権力を持つことはできませんでした。

最後

1185年、壇ノ浦の戦いにおいて、源氏による平家の完全な敗北が決定的となります。この戦いで、安徳天皇は平家一族と共に逃避を試みますが、敗北の結果、敗走中に海に身を投げるという悲劇的な結末を迎えました。彼の最期は、歴史的には神話や伝説として語り継がれています。

安徳天皇の死後、平家の権力は完全に崩壊し、源頼朝が鎌倉幕府を開くことになります。安徳天皇はその後も歴史や文学の中で語り継がれ、日本の文化や神話の一部となっていきました。

平清盛の子徳子と第80代高倉天皇(性別は一説によれば女性だった可能性も)だった安徳天皇は、1185年壇ノ浦(現山口県下関市)の戦いで決定的な敗北をして三種の神器と共に身を投げた。

とされています。

そして藤原植子の異母弟、第82代天皇、後鳥羽天皇は1984年
神鏡剣璽亡きまま「4歳」で即位。元服するまで、第77代天皇、後白河法皇による院政が続く(同時に1192年他界しているので実質亡くなるまで権力の座にいた)。

後鳥羽天皇についてChatGPT

  1. 誕生と皇位継承

    • 後鳥羽天皇は1180年に生まれ、父は第81代天皇の久明天皇、母は雅子女王です。彼は少王の皇子として育ちました。

    • 1183年、彼は天皇として即位しますが、当時の日本は平易な争乱期で、特に平家と源氏の抗争が激化していました。

  2. 治世の初期

    • 後鳥羽天皇の即位後、源義仲が台頭して平家を倒すための戦いが続きましたが、天皇自身は実権をもたず、貴族たちや武士団に影響を受ける存在でした。

  3. 源平合戦と平家の滅亡

    • 1185年、源義経の活躍により、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡しました。この結果、源氏が権力を握るようになり、天皇の権威は下降しました。

  4. 院政と晩年

    • 後鳥羽天皇は1196年に譲位し、法皇として政務に関与します。彼の治世後半には、自らの系譜を中心とした院政を強化し、政治的影響力を保持しました。

    • 彼は文化、特に和歌においても影響力を持ち、多くの歌人たちと交流を持ちました。

  5. 北条氏との対立

    • 後鳥羽天皇は北条氏と強い対立を持ち、1221年に貞永式目が制定されたことで勢力は弱まりました。

    • 1221年、承久の乱を起こしましたが、敗北し、以後は隠岐に流罪となります。

  6. 死去

    • 後鳥羽天皇は1242年に流罪先の隠岐で亡くなります。彼の死後、子孫は皇室に残ることなく、後の天皇たちにつながることはありませんでした。

文化的影響

後鳥羽天皇は、和歌の代表的存在でもあり、多くの和歌を残しました。また、彼の治世は日本の中世文化において重要な役割を果たしました。彼自身の詠んだ歌は、『新古今和歌集』などに収められています。

後鳥羽天皇の生涯は、日本の歴史における動乱期の一環として見ることができ、彼の政治的な失脚や文化的な成就は、その後の日本に大きな影響を与えました。

この時代の天皇って、

「院政」を敷くとき「出家」即ち「仏門」に入る

んですよね。

「醍醐味」の記事で「醍醐天皇」「後醍醐天皇」

の名前の由来に繋がりましたが、

「倭人文化」と「仏法」「仏教伝来」は「政治」や「歴史」

に重要な役割を果たしてきた事は明らかです。

では、「古事記・日本書紀」に記載のない、

『倭国女王、卑弥呼』

は誰なのでしょう?
そして何処に

「邪馬台国(ヤマタイ・国)」

はあったのでしょうか?

実は、宮古島の歴史はこの源平合戦を境目に、1317年まで空白があります。

鎌倉時代、南北朝時代、室町時代。

源頼朝、北条政子、執権政治から、新田義貞、楠木正成、吉野朝・・・・

その間に何があったのか?

そして

「戦国時代」「江戸時代」

約300年後、1868年「第日本帝国明治天皇即位」までに「源氏」「平氏」「北朝」「南朝」はどんな歴史を辿ったのでしょうか?

古墳人は「リューキュー」由来であることは金沢大学のユニークなゲノム解析により明らかになりました。

https://note.com/writer_sorauta/n/nae96de5200a9?sub_rt=share_sb

これから、日々、日進月歩の最盛期にある、最先端科学技術や量子AIが、未来に大きな史実を確認してくれるかもしれません。

大切ことは、

「今を未来から通じる道を見て、大切に生きること」

です。

我々

地球人類の全ての祖先は全て20万年以上前のアダムとイヴ

更には

全ての動物は6億年前の多細胞生物の誕生

更には

ミトコンドリアを有する生物は、30億年前の大酸素イベント

から繋がった

「因果律」の中

にあります。

・・・・・大切なことは。

「今ここの地球人の時代」を、「生態系共生時代」を「過去の因果」から解放された「意識」から生きる事。


もう

「ペテン」や「カルト」の暗黒陰謀論時代は未来へ向かって終焉します。


そうなっていくように、我々は、「You Know」

『普通などない、正解などないLife』

です。

ワクワクドキドキの、美しい体験を「命日」を迎えるその日まで生きていきましょう。

ではでは。

なんでもライター宙唄(Sorauta)でした。


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宙唄(そらうた)Author Sorauta
私は地球生命、生態系、精霊、神々は一つであると捉えています。人類が千年先にも続いていく為にも地球生命体との共存共生は、今人類社会を生きる我々全ての責務です。これからも地球規模で、生態系保全や風土に紐づいた文化、生態系資源を未来へ繋ぐの活動を、皆さんと共に共有して生きます。