「根の国」「常世」「ニライカナイ」と日本列島の民族風土(ガジュマルの木etc)
皆さんこんにちは。マルチライターの宙唄です。
昨日は時間の選択、そして、日本国、埼玉県、「ところざわ」にある「聖地」について巡りました。
今回は、また宮古島にまつわる風土、風習、文化へと意識を向けていきます。
先日信頼する方が最も信頼している、ユタのおばあを紹介してもらいました。
宮古島や琉球地方の島々には「神女」と言われる神事に精通している人々がいます。「ユタ」もその一つの呼び方です。
今風に言えば、スピリチュアルコンサルタントみたいな人でしょうか。
そのお婆が話の中で、「死」の事を「魂が落ちる」と表現していたことが
とても気になり、今回のテーマになりました。
魂が落ちる、つまり下にいくということ。
確かに、私たちはほとんど、下からの「引力」あるいは「重力」によってこの地上に定着しています。
https://note.com/writer_sorauta/n/nbcc2ea2efc8d
宇宙と重力については、以前のライティングの中でも、サブカルチャー、アニメーションなどで意識されているものと最先端化学研究が、人類に様々な可能性を示唆していると書きました。
宮古島所縁の民族文学者、谷川健一氏の著書の中でも度々「根の国」が度々出現してきます。
そういえば、宮古島の御嶽にはガジュマルの木がほとんどの場所で見られます。
幸せを呼ぶ木として、観葉植物としても人気のガジュマルの木ですが、
とても生命力に満ちています。
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こちらはある場所にある街路樹ですが、木に這うようにつるの様なものがあります。これがガジュマルです。
このまま放置して、土の中にまで伸びた時、根を張り木に這ってやがて巨木を形成していきます。別名「締め殺しの木」と呼ばれる所以はそれです。
御嶽の祠は大体、ガジュマルの木の側にひっそりとあります。
あたかも「根の国」がここにある。と言わんばかりの存在感を与えてくれます。
根の国は、『古事記』では「根之堅洲國」(ねのかたすくに)・「妣國」(ははのくに)、『日本書紀』では根国(ねのくに)・「底根國」(そこつねのくに)、祝詞では根の国底の国・根國底國(ねのくにそこのくに)・底根の国(そこねのくに)と書かれています。
となっています。
入り口は「黄泉平坂」であるが、根の国は地下ではなく、海の彼方、または海の底にある。「ニライカナイ」「常世の国」を連想させる記述です。
また、
妣(はは)は根の国にあり、大国主はそこでスセリビメから受け取ったとされる。
大国主と素戔嗚は出雲国や因幡国に纏わる、日本神話の重要な人物。
大国主も素戔嗚も「根の国」即ち「妣の国」に一度は関連している記述があることになる。
「黄泉平坂」とは三次元的にはどこかの港湾であり、そこから、
「黄泉の国」=朝鮮半島など、
「根の国(妣の国)」=奄美、琉球、宮古島諸島など、
だと仮説を立てると、何となくすんなり神話や歴史、ゲノムが繋がる気がするのは私だけだろうか?
生態系DNAや地層、プレートニクスはやがて様々な宇宙や、地球、人類史を解明していくことになるでしょう。
妣=母は沖縄ではアンマ(Anmar)と呼びます。
実は、南インドでも同じ方言があります。母と父、我々人類は、あるいはそれに連なってきた過去のDNA生命体の歴史は、二つの物語の連なりです。
中島みゆきさんの「糸」が私の心を過ぎりました。
我々はどこにいたのか?生きてきたのか?遠い空の下、二つの物語のでありを紡いて存在していますし、これからも我々がこの宇宙因果の生命体として未来を生きる限り継承されていく。
人類は「間違える」「嘘を付く」「感情的になる」「思考がある」生物です。
科学や技術、AIはその我々の欠陥を超越した未来を与えようとしています。
「間違っていい」「嘘をついていい」「感情的になってもいい」「思考してもいい」
だって「人間だもの」。
そんな悟りの心で様々な過去や未来に繋がる今を生きたなら、
地球上で起こっている、人類社会の不調和や争い、悲惨な出来事から解放され、美しい惑星を全人類と全生命と共に生きることが当たり前になる日が来ることでしょう。
私は、マルチライター宙唄です。
毎日ワクワクドキドキしたまま、生涯を終える事をいつも夢見ながら、活動をしています。
「唄」を「宙う」事は、私にはとても平和な感覚を与えてくれます。
ニライカナイ、常世の国に最も近い宮古島よりライティング。
以上、宙唄でした。