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「“強い”ランナーになりたい」【青山学院大 折田壮太】

2022年12月、烏丸通へ入る曲がり角。須磨学園2年(当時)の折田壮太は、沿道を埋めるたくさんの観衆の中で、第1中継所へ飛び込んでいくランナーの背中を、チームメイトたちと見つめていた。

都大路に、走者として立つことがかなわなかった日から1年。あの烏丸通の中継所を、誰よりも早く駆け抜けていたのは折田だった。2023年12月22日、全国高校男子駅伝。駅伝王国と謳われる兵庫県の県大会を制し、3年ぶりに都大路へ戻ってきた須磨学園は、学園史上最高位となる4位に入賞。このレースで折田は、日本人選手最高タイ記録となる28分48秒で1区区間賞に輝いたのだ。

レース前後の2度のインタビューで、折田は2度とも同じ言葉を発している。

「高校最後の3年目、この舞台に “やっと” 立てました。」

9月には、男子5000メートルで高校歴代2位となる13分28秒78のタイムをマークし、世代最速・最高ランナーと評されていた折田。そんな彼をして「やっと」と言わしめたのは西脇工業高校だった。

全国大会出場を賭けた県大会で、過去2年間、須磨学園の前に立ちはだかってきた。2022年の烏丸通で、折田が雪辱を誓いながら目に焼き付けていたのは、西脇工3年(当時)長嶋幸宝(現旭化成)の背中だったのだ。

その長嶋は、折田が高校最後の駅伝大会で有終の美を飾った頃とほぼ時を同じくして、ニューイヤー駅伝(全日本実業団対抗駅伝競走大会)への出場を決めていた。実業団駅伝の日本一を決めるこの大会で、高卒ルーキーながら、優勝を狙う強豪チームの1区走者に抜擢されたのだ。

高校卒業後、実業団で走ることを選択し、旭化成に入社した長嶋。「5000メートル、1万メートルで、世界の舞台に立ちたい。」とランナーとしての将来を見据え、実業団には「呼ばれる時に行くほうがいい。」と決意してのことだった。

意気込みそのままに期待されたレースだったが、途中、転倒のアクシデントに見舞われ、1年目は力を存分に発揮できないままに終わってしまった。

一方の折田は高校を卒業後、青山学院大に進学した。

入学前の3月早々に青山学院のユニフォームに身を包み、3000メートルで高校歴代4位となる好タイム(8分00秒13)をマークしたり、4月のU20アジア選手権5000mでは、大会新記録(14分08秒71)で金メダルを獲得したりするなど、期待通りの快走を披露した。

しかしその一方で、3月に日本代表として出場した世界クロスカントリー選手権U20の8キロでは20位(24分25秒)、6月の日本選手権5000メートルでも28位(14分15秒00)に沈むなど、勝ち切れない脆さも見せていた。

「速さだけでなく、強さも求めないといけないと思っている。」と話した折田。さらに、記録や勝率に加え、体の異変との闘いも待っていた。

5月10日に開かれた、関東学生陸上競技対校選手権大会の5000メートルでは予選を通過したものの、足に違和感を覚え決勝を棄権。さらに、夏を前に体調不良に陥り、出場が期待されていた出雲駅伝では登録メンバーからも外れてしまった。

実は、あの都大路でのインタビューで口にした「やっと」には、もう一つの意味があった。高校2年生だった一年間、腰の疲労骨折をはじめ気管支の病による入院、貧血にも悩まされ、ほとんど走ることができなかった。体の不調や故障との闘いに向き合う日々を経て、つかみ取った全国の舞台だったのだ。

今年の箱根駅伝で、56分台という驚異的なタイムで6区を走りきった青山学院の野村昭夢(4年)は、故障を敏感に予感する力に秀でていると言われる。

「危ないと思ったら、練習の質・量を落とす勇気を持てた。その結果、4年生になってから継続して練習ができた。」

それが6区の快走につながったのだと、野村自身も分析している。

勝ち切る強さと、体の声を聴き分ける感度。常に勝てる選手になるために、折田が磨き上げねばならない、これからの課題だろう。

その折田が、再びレースに戻ってきた。11月の全日本大学駅伝で3区にエントリーされ、堂々の大学駅伝デビューとなった。

1区4位とやや出遅れた青山学院だったが、2区を走った鶴川正也(4年)が創価大のランナーと競り合い、ほぼ同時に中継所に飛び込んできた。タスキを受け取った折田が勢いよく飛び出してゆく。

腰高の軽やかなフォームから伸びる大きなストライド。淡々と歩を進めるいつものランニングスタイルで伊勢路を駆ける。デビュー戦の緊張はあるのか、サングラスに覆われ表情を確かめることはできない。

7.4キロ地点で2位との差を18秒に広げ、ラストスパートで駆け込んだ中継点では34秒差に。4区の黒田朝日(3年)へたすきを渡すや否や、道路にそのまま倒れ込むほどの力走だった。

「折田の走りが速すぎたよ。」

トイレへ行っている間に通り過ぎていたと、表情を緩めながら声を弾ませる原監督も満足気だった。

「箱根駅伝では1区を走ってみたい。」と入学当時、語っていた折田。この3区の快走と監督の笑顔は、箱根駅伝出場への期待を否が応でもふくらませた。しかし残念ながら、エントリー表に彼の名前は無く、メンバー変更も行われ無いまま年は明けた。

今年の箱根駅伝も圧倒的な強さを見せつけ、総合優勝で終わった青山学院。10区アンカーとしてゴールテープを切ったのは、折田の同期、1年の小河原陽琉だった。

ゴールの様子を折田はどこで、どんな想いで見守っていたのだろう。やっぱりその背中を目に焼き付け、来年への雪辱を誓っていたのだろうか。

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実業団でのほろ苦い駅伝デビューから1年。今年も長嶋幸宝は、ニューイヤー駅伝のスタート地点に立った。2年続けて任された1区で見せたのは、他を寄せ付けない快走と、残り600メートルで仕掛けた切れ味鋭いラストスパート。見事、区間賞に輝き、旭化成の5年ぶり26回目の優勝に貢献した。

そんな長嶋の姿が、明日の折田に重なって見えるのは、大きすぎる期待だろうか。

ほろ苦さにまみれた悔しさや、思うように前進できないもどかしさを経験した分だけ、やりがいが生まれるのだと人は言う。苦悩が大きいほど、乗り越えた先の喜びは何倍にも深くなるのだと、もう何千回、何万回と誰もが口にしてきた。

そんな手垢のついたセリフは、次代を背負うルーキーには似合わない。「やっと」なんて言葉は、もう聴かなくて十分だ。

「10キロしかない短い距離でしたが、本当に楽しくて幸せな10キロでした。」

都大路を疾走したあの日の全国大会で、区間賞のインタビューに答えた明るい声が今も耳に残る。

夢みた箱根路でも、幸せだと聞かせてほしい。走る距離が倍になるのだ。楽しさも幸せも、2倍以上なのは間違いないのだから。   (終)

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