山の「リズール」になること―三島由紀夫『文章読本』から考える
最近、人生に大きな影響を与えるに違いない師に出会いました。これまでにも、たくさんの「恩師」に恵まれてきた私ですが、その方は「恩師」というよりも、出会ったその日、直感的に師と決まったと言っても過言ではないでしょう。初めて視線が合った瞬間にテンポが変わった旋律、そしてものの10分で私の心の琴線を揺るがした言葉との向き合い方。そんな師との出会いに触発されて、以前にも増して思いが巡り、ことばに迷い、そんな自分をある意味脱線させないようにレールに引き戻す作業として、読書をしています。今回は、そんな中で読んだ三島由紀夫の『文章読本』と師から学ぶ山との向き合い方のお話。
□『文章読本』とは
『文章読本』は、谷崎潤一郎が読者向けに文章の書き方と読み方を分かりやすく解説した随筆集が始まりですが、同じタイトルで川端康成や三島由紀夫が続き、その後も伊藤整、井上ひさし、現代では林真理子など多くの作家が書いてきています。今回私が手にしているのは三島由紀夫の『文章読本』(中央公論新社・1973年8月10日初版)ですが、三島が最初に出したのは雑誌『婦人公論』1月号の別冊付録としてでした。
谷崎の『文章読本』は、主に「文章とは何か」「文章上達法」「文章の要素」の3つを分かりやすくまとめてあるものであり、川端の場合は作家の文章を多く引用しながら名文を分析するような形で紹介しています。一方、三島の『文章読本』の特徴としては、文章以前に言語文化の移り変わりや「散文と韻文」「短編と長編」などの対極にあるようなものを並べながら相違点を説明することで、文章とは何で、文章を味わうということはどういうことであるかを説明しています。
その中でも特に「本物の作家にしか書けないような上質な文章」について力を入れて説明しているように思います。文章の良し悪しを言っているというよりは、文章の味わい方、文章の楽しみ方が低落している日本文化への危機感というのでしょうか、世の中に「本物に触れよ」と訴えかけたい気持ちを「私はなるたけ自分の好みや偏見を去って、あらゆる様式の文章の面白さを認め、あらゆる様式の文章の美しさに敏感でありたいと思います」(引用)とある意味謙虚に抑えながら説明しようと努めているような印象を受けました。
□「レクトゥール」から「リズール」へ
三島は『文章読本』の第一章で、次のように述べています。
「レクトゥール」とは、一般的に小説を娯楽で読む人たちのことを言い「リズール」とは三島の説明を引用すると「その人のために小説世界が実在するその人」「文学というものが仮の娯楽としてでなく本質的な目的として実在する世界の住人」「小説の生活者」と述べています。そして、この『文章読本』執筆する目的についても次のように述べています。
私は日頃から文章を書く仕事をしていますが、それはコラムであったり、評論であったり、報告書であったり、コピーライターのようなことであったりとさまざまにあります。それでも「生涯最後は小説を書いて死にたい」という夢を持っています。今、文章と関わる仕事をしている身としても、いずれ小説を書きたい身としても、自分が「リズール」になれているかどうかという点は今後も問いかけていくべき大事な視点であり意識であるなと思いました。そして同時に、ほかの分野でも仕事をする者としてその分野の「リズール」であるべき場合があるのだろうと思いました。
□最上のものによって研ぎ澄まされること
この後に、三島は読者に向けて「最上」に値すると判断している2つの文章(森鴎外『寒山拾得』の一節と泉鏡花『日本橋』の一節)を引用します。これを読みながら、趣味の域を超えてありとあらゆるものに共通していることだと実感します。私はモダンバレエやピアノなど幼いころからお稽古をしていました(最近だとフラメンコを習っています)が、やはり、上達するには良いものに触れることが大事だと実感してきました。
そして、今年に入って没入する勢いで学んでいるのが、山のことです。幸運なことに、たったの1年弱の間で、頼れる先輩たちや私に林業のみ留まらない「道」を教えてくださる師匠、そして最近出会った師というように、素晴らしい仲間と最上の師匠たちに恵まれ、充実した学びを経験することができています。(林業の世界については以前の記事もご参照ください。)
最上の山を見ること、まだ手付かずの山を見ること、これから息を吹き返そうとする山を見ること、さまざまに見ることで目が養われ感性が研ぎ澄まされます。特に、師匠の山(最上)を見るということは、山が持つ本来の味わいやエネルギーや命の重みや大地の声を感じとることに繋がると思いますし、その最上の山をたくさん見ることは、さらに自分の判断力を高めてくれるものだと思います。
三島が引用している2つの文章は、全く性質の異なる文章として引用されています。片方を評価することは、危うくもう片方を否定することになるという前置きをしつつもの、三島はどちらもを最上の文章と評価するのです。私は偶然にも、一見すると対極とも言えるような(施業方法が全く違う)山を施業している師匠に出会いました。どちらの山も美しく、どちらの山も最上に値する山なのだろうと素人ながらに思います。そして、どちらもがどちらものやり方を突き詰めていく中で、互いに山と向き合うものとして認め合い、互いに学び、互いに刺激を受け合っているようにも見えました。
先月見たある山が頭から離れずにいます。圧倒的な美しさ、圧倒的自然感、そして圧倒的情緒が忘れられなくて、あの日私は、最上に触れたのだなあと確信しています。感性が研ぎ澄まされるということは、勘が働くようになります。勘が働くというのは「当たり」「外れ」の世界ではなく「当たりの中の当たり」に矢を当てることができるということなのだろうと思う最近です。
□本のなかを歩くこと、山のなかを歩くこと
三島は、第二章の「文章のさまざま」では、昔の人は「小説を味わう」ということは「文章を味わう」ことであったと述べています。そして「文章を味わう」ということは「文学作品のなかをゆっくり歩くこと」だとも述べています。一方で時代と共に、ちょうど自動車が普及していったのと同じで、目的地の方が大切になり、歩いてこそ分かる景色やちょっとした発見や出会いに目をとめなくなったと指摘しています。
「文章」を「山」、「小説」を「林業」と置き換えてみると「林業を味わうということは山を味わうということ」であり「山を味わうということはそれぞれの山のなかをゆっくり歩くこと」とも言い換えられると思いました。現場に入らないと山は分からない、山が分からないということは林業も分からない・・・「SDGs」という言葉が普及している現代ですが、歩くことを怠ると「SDGs」が何たるかを結局は分からない・・・そんなことを思わせる指摘を受けたような気持になりました。
□山における「リズール」になるために
冒頭で、人生に大きな影響を与えるに違いない師に出会ったと書きました。師は、私を文章においても、世の中で起きていることにおいても、そして山においても「リズール」になっていくためにさまざまなことを気付かせてくれる師であります。選木をする際に、最上の木を歩いて見つけることが最初の作業であり、最上を見つけた上でどの命をいただくのか木と対話しながら見極めていきます。これはまさに、最上を見ること、山を精読することに重なることだと思います。
文章の「リズール」と世の中の「リズール」と山の「リズール」は、それぞれ定義もレベルかも異なるかもしれませんし、今の私にはそれを説明できるまでの力量がないものの「精読者」であるということのために「歩くこと」が最も重要なのではないかということが結びついています。つまり、謙虚に自分の足で歩いたものが「リズール」になるのだと。
芸事においても、山においても、文章においても、自らの足で歩き、先ばかりを見るのではなく目前にあるものにしっかりと向き合った者だけがリズールたる者なのだと思います。それは簡単になれるものではないと思うものの、本物を見る、本物を考える、本物を作り出すことに意識を向けていることの積み重ねなのでしょう。私は文章においてもそうですが、山においても「リズール」となれるよう歩くことを大事にしていきたいと思います。