いつかこの旅を思い出すときのために
プロローグ 一人旅、時々二人旅
2022年、コロナがようやく落ち着きはじめようとしたその年から、私は1月に一人旅をするようになった。時期は決まって、1月のお正月明け、地域の新年行事である「若木迎え(1/6)」と「農はだて(1/11)」の間だ。行き先は今のところ毎年北海道。人の少ない閑散期に、真冬の北海道で過ごし、感性を研ぎ澄ませる。その地の厳しさや文化や生き様を肌で感じ、私の中に眠る表現を探す旅である。
1年目は網走・知床、2年目は釧路・阿寒湖、3年目は稚内・利尻島へと向かった。そして4年目の今年の目的地は、八戸からフェリーで苫小牧まで行き、根室まで行って折り返してくるという計画で、フェリー泊を入れたら5泊の旅だ。
根室方面にしたのは「コバちゃん」がおすすめしてくれたから。コバちゃんは、この1年間、能登半島地震の災害支援で共に珠洲で活動してきた50代後半の仲間。先輩らしく頼りに思うこともあるが「120歳通過点だから」が口癖のような彼は、パッションが若いのか、時折私よりも若く感じることがある、不思議な人だ。
学生時代北海道にいたコバちゃんは、自転車で日本一周の旅をしたり、北海道もあらゆる場所へ行っていた。中でも一押しの場所が根室方面にあるということで話しているうちに盛り上がり、結局コバちゃんも並行して旅をすることに。車移動のコバちゃんに適宜甘えた一人旅時々二人旅にさせてもらい、長距離旅の計画ができた。
毎年、どの北海道旅もとても有意義で充実して、確実に私の人生の糧になっていた。北海道に限らず、これまで国内外行った旅も忘れ難いものがたくさんある。しかし、今回の旅ほど「辛くなったら思い出そう」「いつか人生を終える日が来たら思い出す旅だろう」と思った旅はないかもしれない。今、こうして書いているだけでも、泣きそうである。それほどだから、いつかまた思い出すその日のために、改めてここに書き記すことにした。
第1章 初めてのフェリー泊
不安を抱きながらも
私たちは、新年早々1月3日に東京から珠洲市へ移動し、支援団体の一員として新春イベントをしてきた。そして、コバちゃん号で珠洲から南三陸を経由し、1月6日の若木迎えを済ませ、八戸港を目指した(すでにこの時点で大移動の旅が始まっていた)。
フェリーターミナルに着くと、コバちゃんは私を降ろして見送ってくれた。ここから苫小牧港に着くまでのフェリーの時間は「おひとりさま」を楽しむ時間。各々見つけても声をかけずに過ごそうと決めていた。短時間のフェリーに乗ったことはあったが、フェリーで一晩を過ごすという経験は初めてだった。
個室の2等部屋をとった私は、きょろきょろしながらもまずは自分の部屋へと入った。荷物の定位置を決め、一晩眠るベッドに横たわってみた。しばらくすると出発時刻になり、船体に振動が伝わり始めた。動き出した途端、狭い個室で感じる船の振動と、その中で眠ることに、突如として不安が襲った。ここ数年のフェリー事故などの記憶が脳裏を過った。部屋を出て、廊下に掲示されている避難経路などを凝視し、動き出して間も無くのうちに入浴を済ませた。
『修証義』片手に
その後、落ち着こうと部屋で横になって1缶だけ購入したほろよいを飲み、スマホで『修証義』(田中次郎著、知人館、2022.5)を開いた。ここまでの道中で、コバちゃんが最近仏教を学んでいるという話をしてきたため、簡単に読めるものを教えてもらったのだ。3割ほど読み進めたところで、眠りに落ちた。
その間何度か目を覚ましては寝直したが、朝4時過ぎにはもう一眠りする気も起きず起床。一度海を見ようと外に出てみたが、真っ暗で景色はよく見えず、遠くの方に船か何かの灯りがぽつぽつと認められただけだった。ただ、船のそばには白い飛沫をあげる波が見えた。
私は、フリースペースのソファに座り、続きの『修証義』を読み進めた。なんとなく周りの気配と遮断したくなって、イヤホンをつけ、BGMはクラシックのお気に入りプレイリストという取り合わせ。意外と文章と音楽のバランスがとれて心地良かった。仏教のことはよく知らなかったが、一つ一つの言葉を丁寧に読み込んでみると、これまで出会ったさまざまな師たちの教えが思い起こされた。
コバちゃんがよく私に「あいごあいご」と言ってくる。「愛語」であり、田中氏の著書では「愛語とは、生きとし生けるものを見るときにまず慈愛の心を起こし、思いやりの言葉をかけてやることである。」とあった。そしてその節の終わりはこうあった。
「愛語は天を動かす力があるということを学ぶべきである。」
これが、地球平和を願うコバちゃんなのだと思った(最初、世界平和と言ったら「違うんだよ、世界平和は人間の問題だけど、僕が目指しているのは人間だけじゃない、地球平和なんだ」と力説していた)。
6時、ちょうど全てを読み終えた頃に苫小牧港に到着し、再びコバちゃんと再会した。
第2章 霧多布
いざ、花咲線へ
コバちゃんが最初に「ぜひ行って欲しい」と言ってくれたのが「二十歳のコバちゃん」がいるという、霧多布である。北海道一日目の目的地を霧多布に設定し、宿を同じにしたのでそこで落ち合う約束をして、釧路駅で降ろしてもらってからの花咲線一人旅が始まった。
釧路駅は、2年前にも釧路・阿寒湖一人旅の際に訪れていたので、こんなにすぐにまたこの駅に来るとは思わなかった。お昼過ぎの列車に乗るため、駅で昼食を済ますことにし、威勢よく迎えてくれた「なごみのおだし」の肉うどんを食してから、待合室で少し仕事をしながら待った。
出発予定時間の30分近く前に、ホームに花咲線が入ってきた。構内アナウンスが流れてきたので、早めに乗車した。結局20分遅れての出発となったが、花咲線は非常に楽しく乗ることができた。いざ出発してみると、とにかく道中自然はもちろん見られる生き物がたくさんいた。下を見れば動物が、上を見れば鳥類が、こんなに飽きのない列車旅は初めてかもしれない。
鹿も間近に見え(そのため何度も汽笛が鳴り、スピード調整があり、運転手は大変だと思うが)、鳥も複数種眺めることができ、厚岸エリアの海には白鳥の大群を見ることもできた。
茶内駅から続く偶然
終始景色を堪能し、満足して茶内駅を降りた。本当は湿原センターあたりまで歩こうと思っていたが、列車が遅れたこともあり、歩いているうちに陽が落ちる可能性があると思った。列車が遅れている分、接続バスもないかもしれないと思ったが、幸いバス(バスといってもマイクロバス)が停まっていたので、運転手さんに相談した。
「湿原センターまで歩こうかなと思っていたんですけど、陽が落ちますかね」
「お姉さん、今日どこまで行くの?」
「霧多布の方に泊まります」
「湿原センターまでは、足元雪もあるし、去年も今頃クマ出たからやめといた方がいいよ、湿原センターの先なら大丈夫だろうけど」
こういう時は、地元の見解に従った方が良い。運転手さんの言葉に従って、バスに乗って途中まで進むことにした。結果乗客が私だけだったため、マンツーマンのガイドをしていただくという贅沢な移動をしながら琵琶瀬湾側への突き当たりまで乗車した。これがまた面白い巡り合わせで、運転手さんの名前は、偶然コバちゃんと同じ「小林」さんだった。
お辞儀をしてバスを降り、そこから陽が落ち切るまでに宿へ合流しようと、約1時間半ほどかけて歩こうとしたまさにその時。後方から「お姉ちゃん、大丈夫?」との声がした。びっくりして振り返ると、今度は知ってる「小林さん」ことコバちゃんが車の窓から顔を出した。偶然そのタイミングで、同じエリアで遭遇したのである。「大丈夫、歩く気満々!」と答え、私はまた歩き出そうとしたが、続けてコバちゃんが「アゼチの岬行くけど行く?」と言った。そうか、夕陽の時間に間に合うのか、と思い便乗することにした。
この日の夕方、アゼチの岬は凍て刺すような強風。同じ時間にカメラを握り訪れていたおじさんとも「風強いねえ!」「寒いですねえ!」と叫ぶように会話した。しかし、偶然のおかげで見ることができた夕焼けの景色は美しかった。1日目からこんな絶景に出会えるとは、コバちゃんのおかげである。
その後、結局歩くことは諦め、コバちゃん車で「宿坊樺のん」にチェックインし、入浴のため「霧多布温泉ゆうゆ」へ連れて行ってもらった。歩くやる気の行き場はなくなってしまったが、旅はこうして巡り合わせが重なって結果オーライなのも醍醐味だ。
お風呂で身体をあたためたあとは、私が頼んだ蝦夷鹿のジビエコースと、コバちゃんが頼んだ厚岸の牡蠣コースをシェアしながら地酒の日本酒とワインを楽しんだ。宿主のこだわりがふんだんに詰まった豪華な夕食を完食。
部屋に戻り、少し二人で語らいの続きをした。コバちゃんの一人旅は厚岸で牡蠣弁当を食べたようで、私に厚岸のジンとウイスキー入りのチョコレートを買ってきてくれていた。翌朝朝日を見に行く約束をして各々の部屋へ戻り、少し仕事をしてから眠りについた。
霧多布岬の夜明け
7時の日の出に向けて6時過ぎに出発予定にしていたが、5時半にすっきりと目が覚めてしまった私は、それまで持ってきていた本を読み進めた。6時になり、部屋を出て「おはよう」と声を掛け合い、朝食前にコバちゃん一押しの霧多布岬(湯沸岬)へと出発した。
霧多布岬でも、車を降りてからは、各々の時間を過ごした。昇ってきた朝日も素晴らしかったけれど、その前の朝焼けの美しさがまた感動的で、私の心に深く残った。朝日が昇るまでに、カモメたちの鳴き声のトーンも上がっていったように聴こえ、向かってくる波も大きくなっていったように見えた。私たちを歓迎しているのか、それとも朝日の登場に合わせて自然も高揚していくものなのか。そんなことを思ってしまうほどの時間だった。
ふとコバちゃんの方に視線を向けると、彼も彼なりに自分の時間を過ごしているようだった。私の知らないコバちゃんがそこにいる。当然、コバちゃんの知らない私も、ここにいた。コバちゃんが「光と影と大自然と人間」をテーマに撮るな写真の中には、時折私も知らない私がいる。
『バンビ』から幼少期の私へ
戻って朝から贅沢な朝食をいただいていると、窓の外では鹿たちの群れも朝食タイムに入っていた。近いところで、母子とみられる鹿が同じ格好をして草を食べていた。宿の方に「こうしてすぐそばに鹿が来るのはいつもなんですか?」と尋ねると、きっとよく聞かれる質問なのだろう、ふふふと笑いながらこう返してくれた。
「ここは人より鹿の方が多いから。お客さんが突然車から降りてきたりするとびっくりして逃げることもありますけど、この鹿たちも、ここの人は悪さをして来ないと分かっているから逃げないし、春に生まれる仔鹿は警戒心が全くないから、もっとそばまで寄ってきますよ」
私は、眺めながらディズニーの『バンビ』を思い出した。昔から割と鹿が好きだったのはバンビの影響だろうということ、母親っこのバンビが母を失い一人ぼっちになるシーンで幼い自分は泣いていたこと。あの頃からなんとなく人間と自然の関係性について何か引っかかるものがあったのだろうと思った。不思議とコバちゃんにはその話をさらりとできた。
時折窓越しにいる私たちを気にしてじーっと見てくることがあったが「変なやつ」くらいに思っているのか、また元のように草を食べていた。眺めている間に小鳥もやってきて、それはそれは穏やかな心洗われる朝だった。こうして霧多布を後にし、茶内駅まで送ってもらい、再び花咲線一人旅で根室を目指した。
第2章 根室
楽しみ広がる花咲線
茶内駅から根室駅までの花咲線は、釧路駅から茶内駅までのそれとはまた異なる楽しみを与えてくれた。茶内までは、山間を抜ける時に鹿やその他小さな獣らしき姿を見ることが多かったが、茶内以降は獣の姿はあまり見受けられず、まちなかで飼われている牛や馬を見るほか、ふと木の上に目を向ければ見つけることができる絶滅危惧種のオオワシ、多く飛び交うオジロワシなどを見ることができた。
オオワシについては、たくさん目に入ったがゆえに「本当にオオワシか?」と半信半疑だったが、電車を降りた後にどんな画像を見ても、やはりオオワシだった。十分の間に、少なくとも3羽は確実に見た。もしかしたら、すごくラッキーだったのかもしれない。
根室駅に着いたら、まるで子供の帰りを待っている親のようにカメラ構えて待ってくれていたコバちゃんがいた。整理券を駅員に見せ、支払いをする私がカメラに捉えられている。そして私は、今思い返せばまるで子供の用に無邪気になって「花咲線楽しかった!」と興奮気味に報告していた。
「まずは根室駅の果てへと案内しよう」というコバちゃんに言われるがまま歩いていくと、根室本線の終点、さいはてがあった。「これで言うと、今年入ってすでに僕の車はすでに佐世保近くまで行っていることになるな」とぼやきが聞こえた、今年に入ってまだ8日目の朝だ。
世界の揺らぎと花咲蟹
根室駅の前には、花咲蟹の直売店が並んでいる。以前はもっと多かったらしいが、分かりやすく開いているのは2軒ほどだった。1軒目の店の前まで行くと「漁が終わり売り切れ」の文字が。隣の店も見てみると、大きな水槽に、見たことがないほど大きなタラバガニがいた(少し気味悪いほどに)。それを覗き込んでいると奥から店主のおじいさんが出てきて「今はタラバガニしかないんだよ、前は漁じゃない時でもロシアから輸入があったんだけどね」と残念そうに言った。
私に花咲蟹を食べさせたかったコバちゃんも残念そうだったが、如何せん昨晩から食べ過ぎが続いていたこともあり内心ほっとした。地球平和を願うコバちゃんと2人で呟いた。「地球平和を願う前に、世界平和だね」
続いて駅前のローカルスーパーへ。ローカルスーパーは面白い。その地で使われている調味料、定番のおやつ、よく獲れるものなどが分かる。カレイが3枚ほど入って「108円」とシールが貼られていた。タラの半身も500円台だった。南三陸へのお土産用に一升瓶の地酒を購入した。しかし、やはり蟹はなかった。
ランチには、看板のフォントから惹かれて止まなかった喫茶店「ニューモンブラン」へ。純喫茶好きの私は、ここには行きたいと前から決めていた。年季の入った店内に、初見ながらもどこか懐かしい気持ちも沸いた。
まだ朝食の満腹感が抜けてはいなかったが、根室名物「エスカロップ」をいただき、さらに満腹に。きっとまた、いつかここに来るだろうと予感がした。
世界が平和になった頃に、また花咲蟹を食べに来よう。やり残したことがあるということは、また来る理由ができたということだ。
納沙布岬へ
再びコバちゃん車に乗り、納沙布岬へと向かった。そして、納沙布岬に着いてからはまた別れ、かれこれ1時間半ほど別行動をした。
納沙布岬では「四島のかけはしと祈りの火」やそれぞれの返還を願う石碑などを一つ一つ丁寧に見て回った。(実際見ていると「願う」ではなくて、もっとこう、強く訴えかけるものがある。)北方領土資料館は休館日で見られなかったが、北方館・望郷の家は入れたので、北方領土問題をじっくり学んだ。まさに「地球平和の前に世界平和」の時間だ。
何度か来ているコバちゃんさえもびっくりするほど、この日は澄み渡る快晴だった。「望郷の家」の望遠鏡から見える国後島には、はっきりと山肌の模様が見えるほどに、ルルイ岳や爺爺岳などが確認できた。それはそれは雄大で、いつか間近に見てみたいなと思うほどだった。
近くの歯舞群島も見ることができ、その間を飛び回るカモメやウミウなどの鳥も捉えることができた。人間がゆえに生み出せる技術があっても、人間がゆえの社会問題のせいでその地に足を踏み入れられない現実があり、はじめてこんなに鳥たちを羨ましく思った。
望郷の塔(オーロラタワー)は、今はもう開いていない。近くまで行くと、かなりの劣化が確認でき、廃墟状態だった。三陸沿岸部の震災遺構と重なって見えた。さまざまな熱い想いが建てたタワーの成れの果てがどうなっていくのか、少し気になりながらも納沙布岬を発った。
迫りくる波飛沫、やわらかな日の入り
続いて花咲灯台と車石の場所へ。15時台、夕焼け前の大きな太陽が私たちを出迎えてくれた。しかしとにかく岩場に打ちつける白波の高いこと、高いこと。「すごいね」と言い合いながら先に下に降りて海を眺めていたコバちゃんも、まさかの頭上から波が降りかかりそうになり、間一髪のところで逃げ切った。
私も引き返そうとすると「え、ダメでしょ、そこまで行かないと車石見えないよ」と言うコバちゃん。段々と強まる波飛沫に不安になりつつも、波の呼吸を感じながら小走りに向かい、肉眼にもカメラにも車石を捉えては、再び逃げ足で引き返した。
車中で何度か「逃げ」というワードがあった。コバちゃんが私のある問いに困り「それは逃げさせてよ」という時に「逃げないでよ」と返していた。あるいは私たちの活動の話で、ちゃんと向き合わないことを「それは逃げだよね」ということも話していた。逃げてはいけないこと、逃げては見えないこともある。しかし、逃げることは決して弱いことではなく、生きるための逃げもある。「逃げないでよ」と言ってしまったことも、その人にとっては、自分を守るために必要な逃げなのかもしれない。そんなことを思う花咲灯台であった。
もう1箇所行こうと「白鳥の風蓮湖」へ。すでに薄暗くなり鳥たちはいないが、薄いピンクと青がかった紫のグラデーション。北海道ならではの色だと思う。優しい乳白色のフィルターをかけたような夕焼けに、心癒された。
自分と向き合う、根室の夜
この日コバちゃんは車中泊を希望し、私は一人ホテル泊にした。一旦別れて早めに宿にチェックインし、2時間ほど仕事に集中した。やはりこのメリハリが良いのか、びっくりするほど筆が進んだ。19時、約束していた街中の居酒屋「浜作」へと向かった。
元々候補にあげていた店があったが、小さなお店なので心配して予約できるか電話をしたところ、この日はダメだった。そこでコバちゃんがチョイスしてくれたのがこのお店だった。結果、お刺身も、珍味も、どれも美味しかった。特に「八角の軍艦焼き」がまた絶品で舌鼓を打った。
地酒「北の勝」の燗をいただきながら、旅の間にもっとコバちゃん自身の話を聞きたくなって、いろいろと質問した。あるいは、質問ばかりではいけないと、勝手に自分の話もした。自分が一生懸命自分のことを伝えているうちに、なんだか何事も自分を曝して相手に尽くさないと、相手からも返してもらえないと思い込んできた自分がいるように思った。
いや、そんな言い方は被害妄想で、もしかしたら自分のことを曝す代わりに相手を曝させようとしているのかもしれない。そう思い始めた途端、自分自身が物凄くずるいやつなのかもしれないとさえ思えてきて、急に相手に申し訳ない気持ちと、そんな自分を見たくない気持ちで、しゅんとした。
でも、なぜそこまでして話を聞きたいのか、相手のことを教えて欲しいのかも考えてみた。その先には、南三陸のボランティアセンター長だった猪又さんという人の存在がいた。今、珠洲市をはじめ能登半島に通いながら、何度「猪又さんが生きていたら」と思ったことだろう。
もっと、話したかったんだ。もっと、聞きたいことがたくさんあったんだ。もっと、あの人を知りたかったんだ。今はもういないから、それが叶わない。もっと早く向き合えば良かった。もっと早く聞けば良かった。悔いても悔いても悔やみきれない後悔の念が込み上げてきて、少し、泣きそうになった。
コバちゃんは、昨年珠洲で過ごしてきた日々の中で、心折れそうな時や葛藤した時、わけも分からず涙した時も支えてくれた大切な仲間の一人。だから、ちゃんと、話したかったんだ。もっと知っておきたかったんだ。だから、逃げられると寂しかったんだ。そう思いながら、ほろ酔いになり、夜の根室を歩き、宿へ戻っていった。
宿に戻って部屋のテレビをつけると、偶然そのチャンネルでアニメ『火の鳥』の黎明編が放映されていた。思えば小学生の頃、図書館にあった漫画『火の鳥』を全巻読んでいた。人間の死生の意味、そしてどう生きるのか(すなわちどう死ぬのか)を考える作品。この北海道旅は、まさに自身のそれをテーマにした旅である。
第3章 涙岬
心に残った涙岬の道
旅の終わりに「この旅で一番心に残ったのは?」と聞かれた時、この旅で見てきたさまざまな景色と感動した瞬間を思い浮かべながらも、私が口にしたのは「涙岬」だった。
根室の後は、折り返して後半戦が始まった。まずは根室駅から厚床駅まで短い一人旅タイムを過ごし、今回三度乗った花咲線と別れた。そこからコバちゃん車で、二十歳のコバちゃんがいるエリアを走る。浜中町に広がる湿地は地球を感じさせる景色だった。
そこから、どこへ行くとも言わずただ連れて行ってもらったのが、厚岸に向かう途中に寄った、浜中町の涙岬だった。
看板の説明も読まずにとにかく歩き始めてみると、雪の積もった道に鹿の足跡だけがはっきりあった。「鹿もちゃんと道を歩くんだなあ」と呟きながら歩いていくと、そこには広大な海の絶景と、杭打たれた柵が心許なく思えるほどとてつもない強風が。なんだか少し感傷的な気持ちになる岬だった。(後から説明を読んだら、やっぱり少し悲しい言い伝えがあるところだった。)
恐怖すら覚える岬の先端から引き返し、途中の分岐点から同じエリアの立岩を見に長い道のりを歩く。コバちゃんも気を利かせて一人旅モードにしてくれていたので、離れた距離でただひたすらに一人で歩いた。
終点まで行くと、物凄い高さがあるにも関わらず谷底から上がってくる波の花に驚いた。しばらく岩を眺めて、コバちゃんが「ゆっくりでいいよ」と言って先に戻り始めた。一人になったところに、一羽のワシのような鳥がやってきて、波の花の間を通り抜けていった。鳥が見えなくなるまで眺めて、私も戻ることにした。
合唱曲「翼を抱いて」
歩いてきた長い長い道のりをまた戻りながら、突然、小学生の頃に合唱で歌っていた「翼を抱いて」を思い出した。
私は小学校の時から基本的に伴奏担当だったが、不思議なことに、突然思い出した歌の歌詞をちゃんと覚えていた。伴奏しながら、ピアノの蓋越しに壇上のみんなを見て、一緒に歌っていた当時を思い出す。周りに誰もいない果てしなく広がる土地で、一人、大声で歌いながら車の方面に歩いた。
この歌を皮切りに、幼少期から中高までに歌ってきた合唱曲をいくつか思い出した。それぞれを口ずさみ、さまざまな情景が思い出され、その余韻の影響で、車のところまで来てもしばらく乗り込めなかった(そんな私のこともコバちゃんは写真に収めていた)。長い道の中で、いくつもの自分と再会した。ぼーっと岬の方を眺めながら、こんにちはしたあの頃の私に、またねと別れを告げた。
二風谷までのドライブ
涙岬を出ても、しばらく余韻は消えなかった。それでも景色の良い海沿いドライブを堪能し、一瞬厚岸駅にも立ち寄りつつ(この日は牡蠣弁当は完売していた)帯広へ向かっていく中で、いつもの自分に戻っていった気がする。
帯広に向かったのは、通過点でもあるが、豚丼を食べるため。入った「ぶた野家」は、厨房の奥からも「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」が全力で聞こえてくる明るい店だった。いただいた特上ミックスの豚丼も美味しく、ジビエ、牡蠣、魚、豚と贅沢な食の旅ができているのもコバちゃんのおかげだと感謝した。
この日は、平取町にあるアイヌの里、二風谷のゲストハウスに宿泊予定だったため、途中ローカルスーパーで夕飯を調達。その際に、北海道限定の「とうきびモナカ」も購入した。根室のローカルスーパーでも気になって手に取っていたのだが、再び会ってしまったら、もう買うしかなかった。コバちゃんと私は、ボランティア活動を通じてもアイスの思い出を持っている。だから、なんだか横でアイスを食べる時間も嬉しかった。
こうして、日が暮れるまでの長い長いドライブを経て、私たちは二風谷に到着した。
第4章 二風谷
ゲストハウスでの出会い
今回は大半がコバちゃんおすすめエリアの旅だったが、二風谷は私からの強い希望でお願いした。網走の北方民族博物館に感動したのち、阿寒湖のアイヌコタンや白老のウポポイなど見て周り、アイヌ文化や北方民族の生活にとても興味を持った。しかしどうしても阿寒や白老は観光地化していて、あまりアイヌ文化を空気で感じることができない。そこで、二風谷に行ってみたいと思ったのだ。
私とコバちゃんのほか、仕事で来ていた男性と、カナダから来ていた染め物やクラフトワークをする女性と、ゲストハウスでしばらくアルバイトしたのちに海外へ行きたいと思っている女性の3人(ほぼ私と同世代だと思う)で夕食を共にした。私は英語が得意ではないので、最初はシャイになっていたが、話せるコバちゃんやみんなの優しさもあり、翻訳アプリを使いながらコミニュケーションをとった。
アルバイトの彼女は、ミウちゃん。耳が聴こえず、話せない。普段は手話を使っているが、私たちにはテキストを打って積極的に話しかけてくれた。買ってきたチーズと塩辛をお裾分けした際に、手話と共に笑顔いっぱいの「おいしい」をくれて、なんだかその豊かな表情に惹かれた。
カナダの彼女は「dawn(ドーンと発音する)」というニックネームを持っていた。そして日本語名として「アカツキ」というニックネームもつけてもらったと言っていた。「dawn」を調べるとこうあった。
「暁」という漢字を見て、はっとした。小学生になった頃に両親の離婚で別れた自分の実の父親の名前を思い出したのだ。普段この字を使うこともなく、思い出すことなどなかった。彼女は「暁」と書いて「アカツキ」だったが、実父は「暁」と書いて「さとる」だった。
そして、私の名前は「黎」の字を使い夜明けの意味を持っている。・・・今まで、考えたことがなかった。夜明けの意味は、私だけではなく、実父も持っていたなんて。アカツキちゃん(そう呼ぶと「ちゃん」ってどういう意味?と聞いてきた彼女がまたチャーミングだった)に教えてもらった、私と実父の共通点だった。そのことは伝えなかったが「私も名前に“夜明け”の意味を持っているから、私たち縁があるね」と伝えて微笑み合った。
アカツキちゃんから「どうしてここに来たの?」と聞かれたので「アイヌや北方民族の文化や生活に興味があるの」と返すと「私は北方の植物に、彼女(ミウちゃん)は北方の山に興味があるんです。私たちはみんな、北の地が好きなんですね」と返してくれた。共通点があると親近感がぐっと増すものだなと思った。また3人で微笑み合った。
その後も、アカツキちゃんがアプリに英語で話して和訳のテキストを私たちに見せ、それを見て私たちは日本語を打ち込み英訳を見せることを繰り返した。そんなイマドキなコミニュケーションでも、心が通い合うことがあるのだと学びになった。実際、耳が聴こえなくても、言葉が分からなくても、数日前から知り合っていた2人の女性は仲良くなっていた。
この中で最も場を回してくれていたのは、唯一外国人のアカツキちゃんだった。私は、シャイになっている場合ではないなと思い知らされた。同時に、彼女たちの姿に勇気をもらい、時間が経つにつれてほんの少し積極的にコミュニケーションを取れた自分もいた。そんなささやかな成長が嬉しい夜にもなった。
二風谷アイヌコタン
翌朝、軽く朝食を済ませ、各々「良い旅を」と交わし合い、ゲストハウスをあとにした。連絡先を交換するわけでもなく、もう二度と会うことがないかもしれない。それでも、短い時間で感じたこの夜のことは忘れないだろう。二風谷のアイヌコタンでは、コバちゃんとも別れ、午前中は単独行動をしながら堪能した。
木彫りのレジェンドのお店「北の工房つとむ」に入ってみると、中から上品な奥さまが出てきて「こんな田舎にようこそ」と迎えてくれた。なんでも、阿寒や白老に木彫りの技術を伝えているのは、この地の人々が多いのだという。
「あの辺りは立派な観光地ですけど、ここは観光はない代わりに、ずっと生活にアイヌ文化が根付いているところなんです」
そう話してくれて、興味津々の私にさまざまな作品(奥の部屋にあるとても高価なものまで)を見せてくれた。別れ際に「夏は丸太舟に皆さんを乗せたりアイヌの生活を見せる楽しいお祭りがあるからぜひいらっしゃい」と言ってくれたので、また夏にも来たいと思った。
ベテランから若手までのアイヌ工芸を展示している「二風谷工芸館」でも、作品をじっと眺めていると施設の方が話しかけてくれた。作り手の説明や頑張っている若い作家さんたちのことも話してくれたので、私は30分以上迷った末、心惹かれた胡桃の木彫り作品と、若手の方の木彫りの鍋敷きと、刺繍作品を購入した。
アイヌコタンでは、再現されたアイヌの家や食糧庫、子熊の檻などが見られた。私はそれらを作る手法や使われている材料(枝、茅、蔦など)に興味を持った。閑散期のため博物館などは一部閉まっていたが、夏のお祭りにも興味があるし、また来る理由が残せたのは良いことだ。
お昼は一旦コバちゃんと合流し、平取牛のハンバーグとステーキを食せるところまで出てエネルギーチャージをした。これで、鹿ジビエ・豚・牛と肉料理も堪能した。だからお土産にも肉で「びらとりハム」を購入しようと思い、再び二風谷へ戻った。
「びらとりハム」はアイヌ文化の工芸品から出た木屑を活かして火をおこし、北海道産の豚肉をじっくり燻してハムやソーセージにしている。二風谷の風土と職人の技術で創り出せる味だ。創業1990年、私と生まれが同じ年である。
お店に入ると、親切な店主がおすすめのセットを教えてくれた。主人がベーコンが好きだと伝えたら、そのおすすめセットにベーコンを追加したセットを作ってくれた。発送をお願いし、びらとりハムを出た。二風谷の人たちは、控えめで、慎ましやかで品があって、それでいて広い優しさと強い芯を感じる。出会った人たちのおかげで二風谷が好きになった。
導かれるように辿り着いた滝
事前に二風谷を調べた時に、小さな滝がマップで表示されたことは頭の片隅にあって、一度くらいは「滝」と口にした記憶もある。しかしコバちゃんいわく、この日私は何度も「滝」と言っていたらしい。それが全く記憶になかったので、とても不思議な気持ちになった。むしろ「滝行くぞ」と言われた時「コバちゃん滝見たかったんだ」と、他人事に思ったくらいだった。
滝へ行くために車を停められそうな広場のところで駐車すると、雪(ほぼ氷のところもあった)の上でパークゴルフをしているタフな地域の人たちがいた。特に話すこともなかったが、私たちが何をしに来たのか気になったことだろう。その広場、過去に迫害を受けたアイヌたちが眠る場所でもあった。私は手を合わせた。
「多分このあたり」と思う方向へ歩いてみるが、思うように滝へのアプローチが見つからなかった。行ってみて引き返したり「とりあえずあっちから行こうか」と道路側へ出てみたり。道路沿いを少し歩き始めたところで、私はふと惹かれる道らしきものを見つけた(雪と倒木で分かりにくいが、普段山に入っていると道に見えてくる)。「え、こっち?」と言うコバちゃんをよそに、覗いてみると谷の方へ繋がっていそうで、意思より先に足が降りていった。
その先には雪と氷に覆われた小川があり、右奥に滝らしきものを捉えた。そのそばまで、またも鹿の足跡だけあった。雪と氷で見えていないが、大半が川のはずなため、鹿の足跡を頼りに踏む場所を選んで進んでいくと、凍った水たちが織り成す自然の造形美が目の前に広がった。丸みを帯びながらも大きく固まった凍った滝、その横で鋭く見下ろしてくる氷柱、そして川を覆う緻密かつ繊細な氷の膜。
滝の前まで行くと、なんだか生命のエネルギーが湧いてくるような気がした。凍った滝の裏側で流れている水があることに気付き、その水が小川を流れているのを目で追った。私は、まるで導かれたかのようにこの場所に辿り着いた。
「今年を漢字にするなら“水”です」
ふと、珠洲の方が年末に話してくれたことを思い出した。飲むだけではなく、トイレもそう、食事もそう、洗い物も歯磨きも、今まで見えてなかった水がどれほどあったかを気付かされたと。あるいは、津波も、河川の氾濫も、土砂崩れを引き起こす雨も、涙も、全部水だと。水の有り難さと恐ろしさ、そして、優しさ美しさ繊細さ、さまざまな「水」を想った。
滝の反対側にまだ進めそうな場所があったが、なんとなくこの先まで行くと良くないような気がして、車までの道のりを戻った。しかし、戻りながら私の気持ちはとても高揚し「生きてるー!」と声に出してしまったほどだった。導かれるようにして出会えたこの滝は「マカウシの滝」というらしい。
旅の終わりへと
夜20時頃に苫小牧港を出るフェリーで北海道を発つ。それまでにまだ時間があった。今年は馬に乗りたいんだと話していたからか、馬を見に行こうとコバちゃんが新冠町の方まで車を走らせてくれた。
新冠エリアを走りながら、遠くに馬や牛を見つけた。そのうち日が落ち始め、もうすぐ夕焼けになると思うと「今回は毎日が雲一つないくらいの晴天で、毎日綺麗な夕日が見れたね」とこの旅と旅の間で見てきた太陽を振り返った。照らされる夕日の中で、白鳥の大群がいたり、外で走り終えて馬小屋に戻っていく馬がいたり。動物たちとお別れをして過ぎていくのが、旅の終わりを感じさせた。
北海道で見る最後の日が沈んでいく中で、私たちは苫小牧へと向かった。17時過ぎに着いて、早めの夕食に気軽に入れそうな居酒屋へ入った。「何食べたい?」と話していると、コバちゃんが「青春のホッケ食べていいですか?」と言った。
コバちゃん以降は変わったようだが、学生時代の飲み会では、先輩たちが食べたホッケの残り(骨の周りとか皮の淵のところに残った肉)を後輩たちで奪い合うようにして食べて飲んでいたらしい。そんなコバちゃんの思い出のホッケ(今は美味しい肉から豪快にいきつつ、やはり骨周りや淵もしっかり)と、ホッキの揚げ物とを食べながら、有難いことに私だけ軽く飲ませてもらった。
車をフェリーに乗せないといけなかったので飲めなかったコバちゃんと旅の終わりを迎えようと、帰りのフェリーでは消灯時間までお疲れ会をした。お馴染みのセイコーマートで買ったサッポロクラシックと、ゲストハウスで飲み切らなかったワイン、おつまみには、スーパーで買っていた花畑牧場の生モッツァレラチーズに、びらとりハムで買ったハムのジャーキー、デザートは初日にコバちゃんが厚岸で買ってくれたウイスキー入りチョコレート。ひとつひとつに旅の思い出を重ねながらいただいた。
旅が過ぎてゆくのはあっという間だったが、八戸港を出た時の私と、八戸港へ帰るときの私は、長い時間が経ったのかと思うほど何かが違っていた。単に「満足」とか「楽しかった」とか、そういう言葉ではない。北海道にいる間に私の中に充ちていったものを感じていた。同時に、それが失われていくかもしれないと心細く思った。
翌朝4時半頃に八戸港に着いてしまうので、早めに寝ようとコバちゃんと別れた。深夜のデッキに出てみると、冷たい風と黒い波。学生時代研究に打ち込んだ夏目漱石の『夢十夜』にある「第七夜」を思い出し、部屋へ戻って眠りに落ちた。
エピローグ いつかこの旅を思い出すときのために
毎日が、素晴らしい絶景と、研ぎ澄まされていく五感と、新たな表現との出会いだった。今回の旅は、旅に感化されて思い起こされる自分自身のことに時折センシティブにはなっても、しっかりその自分に会ってこれた自分がいた。そして、最後はハイタッチして「またね」と、ポジティブに持ち直せている私がいた。それは、時に一人旅に集中させてくれて、時に心の整理に付き合ってくれたコバちゃんの存在も大きいだろう。
人生のこと、自分自身のこと、南三陸のこと、能登のこと、さまざまに考え、語らい、整理した日々。とにかく、素晴らしい2025年の一人旅(時々二人旅)となった。
1月11日、八戸港に着いたのは4時半頃だったが、すっきりとした目覚めだった。晴れ続きだった北海道では降られなかった、雪の舞う東北。まだあたりの暗いうちにコンビニで朝食を買い、地域行事の「農はだて」に間に合うよう、三陸道でまちへと走り出した(コバちゃんにも地域行事に参加してもらうことにしていたので共に帰った)。
行くときに仏教の話をしていたので、冗談半分に「朝日と共にお経聴いてみるか」なんて話していたのだが、コバちゃんがかけたのは、ルー・リードの「Perfect Day」だった。
三陸道を走る車の中で、暁の空の下、何度も聴いているであろうコバちゃんと、初めてこの曲を聴く私が、この曲に耳を澄ませる。コバちゃんはコバちゃんで、思い出の地を回ったこの旅をきっと振り返って聴いている。私も、まどろみのある歌い出しに心地く耳を傾け、サビからは清々しい朝にも似合うメロディーと歌詞にこの旅を重ねて、聴き入る。
ああ、なんて憎い演出だろう。なんて染み入る音楽だろう。「Perfect Day」を聴くだけでも毎回この旅を思い出すことは間違いない。最後の最後に、こうしてこの旅を思い出すトリガーをコバちゃんが与えてくれた。曲と共に、まさに「Perfect Day」だった旅の間のさまざまな「私」が甦ってくる。
歌詞に出てくる「You just keep me hanging on」は、さまざまな和訳があり「君が僕を繋ぎとめてくれる」「君が僕を生かしてくれている」「君は僕をかろうじて生かしてくれている」などとある。この旅は、あるいはこの旅で会えた「私」は、きっとこれからの私にとって、そういう存在(=「君」)になるだろうと、そう思った三陸道の朝。
この旅のことを忘れることはなくても、この旅の記憶は、年月が経つにつれ、日常の中で薄れてゆくことだろう。それでも、これから生きていく中で、きっとこの旅に帰ってきたいと思うときがあると思う。コバちゃんが「二十歳のコバちゃん」に会いに行くように、私もきっと、この歳の旅で来た私に、会いに来たくなる。だから、思い出すときのために、2025年冬の北海道旅をしたためる。
p.s. I'm glad I spent it with you!
(Lou Reed「Perfect Day」)