「体の声」と「感覚」について
こんにちは。あすぺるがーるです。
今日は、とある理由で体育の授業が担当との個人面談になったので、そこで話して発見したことを書いていこうと思います。
なぜ授業が個人面談に?
大学の授業が個人面談になるなんて、ほとんど考えられないと思います。
しかし、これには立派なわけがあるのです…
「体育の授業」の説明
そもそも、私が受けている体育の授業は、全学共通の「体育」とは違う質の授業です。
うちでは「体育」は必修です。
しかし、体調面の都合によりその「体育」の授業を受けるのが困難な生徒がいます。
分かりやすい例でいうと、呼吸機能に障害のある生徒が何の配慮もなく「体育」のクラスを受けたら、下手すると死んじゃいまよね。
そこでうちの大学では、このような生徒のための少人数クラスが開講されているのです。
あっ、精神疾患も「体」の問題ですよ?
精神の元たる脳とて、体の一部ですし。
心身に問題を抱えた人が集まるからか、授業内容も「自分の心身の問題に向き合うこと」が共通テーマとなります。
講義よりもディスカッションが主となった授業で、生徒もTAも先生も素を出して議論します。
出てる時点で「ワケあり」だもの、今更何を隠す必要があるでしょう。
本当にタメになる授業なのですが、今年の受講者はたった2人。
それと私のミスが相まって、思いもよらない事態が起きたのです…
遅刻してきたら授業が中止に
鬱っぽくなってしまってから、支度の時間と外出への心理的ハードルが一気に高くなってしまった私。
授業だと分かってても心身のエンジンがかからなくて、20分ほど遅刻してしまいました。
そして授業開始20分後に、私が授業場所に着いたところ…
授業をやってるはずの場所に、誰もいなかったのです…
「何があったのか」と慌てて構内をウロウロする私。
メールをチェックしても、何もなし。
私は一体、何をやらかしたのやら…
必死に先生を探していると、建物を出ていく先生に遭遇しました。
「先生、体育の授業は…?」
先生の口から語られたのは、驚愕の事実でした。
先生が授業場所に着いたとき、そこには1人も生徒がいませんでした。
たった1人のクラスメートが体調を崩し、事前に欠席連絡をしてました。
そして、私が遅刻連絡をしていなかった。
100%自業自得ですね、はい。
先生は、座学のときに使っている教室に行くように言いました。
「せっかくだから、あなた個人のことについてお話ししよう。授業やってると、個人的に話す時間もないし」
「個人面談」の様子
その後…
こうして始まった、先生とのサシ話。
今回の件に関しての叱責はありませんでした。
「大学共通の単位を出す上のお約束」としての出席状況の確認はありましたが…
理解と寛容があって本当に良かった。
今回のことについては
ただただ、これに尽きました。
よくよく考えてみれば、生徒が0人授業を続行する先生なんて、そうそういないですね。
もし「遅刻します」と連絡を入れれば、待ってくださっていたかもしれない。
これは完全に私のミスです。
あれだけ理解されてて、何で私は「連絡したら責められる」なんて思ってしまったんでしょうね。
少しでもミスをすると、必ず「何か」に責められてる気がする。
これって、私だけですか…?
ヨガへの誤解
せっかくのサシ話の機会とあって、私は自分自身の特性や疑問をぶつけてみました。
先生の専攻はヨガです。
「ヨガは、自分の身体との対話」と、先生はかねがね言い続けていました。
立っても座っても常に力が入り続ける体の持ち主とあって、私は特に強くヨガを勧められていました。
しかし、私は一人でヨガをするにあたって大きな心配がありました。
私の身体は、自分が思い描いた通りには動きません。
皆さんが手の平から真上に投げたボールは、どこへ行きますか?
「自分の手の平に戻ってくる」
これが、最も一般的な答えだと思います。
しかし私がボールを投げると、決して手の平には戻ってきません。
視界からボールが消え去ることも、本当によくあります。
ただ真上にボールを投げるだけでもこの騒ぎなのに、ひとりで正しくヨガのポーズが取れるでしょうか。
ストレッチをするにも、腕の位置ひとつ変わっただけで伸ばす場所が変わってしまいます。
どんなスポーツをするにも、外から見える自分の形、「フォーム」を整えることは欠かせないでしょう。
走るときのフォーム指導、野球の素振り…
しかし、ヨガでは違いました。
「ヨガは、自分の『身体の感覚』とそれに基づく実践。外から見た形は関係ない」
要約すると、そういうことだそうです。
ヨガは本来、仏教の一派で行われる瞑想のための動きなのだそうです。
そのためヨガの原典は、仏教の原典で使われているのと同じサンスクリット語で書かれた哲学書です。
要するに深入りすると超難解な世界なので、ヨガについての話はここまでで…(教えて詳しい人)
今日の本題
私の体に欠けたもの
ヨガに関しての話を繰り広げる際に「体感覚」というものの存在について話題に上がりました。
体感覚はその名の通り「体の感覚」ですが、「体」の一部である目や耳で感じる視覚・聴覚とは全く別のものだそうです。
体感覚は、言葉で表現し「頭」に届く知覚とは全く異なる次元のものだそうです。
私には考えられない領域…
あれ、もしかして…
私の体感覚、ポンコツ!?
私の「身体が上手く動かないこと」は、体育の授業に限らず日常生活にも大きな影響を及ぼしています。
普段通りに歌っても「力んでる」と言われること。
長時間座って何かをやると、どんな姿勢でも必ず体のどこかが痛むこと。
鬱っぽい日でなくても感じ続ける「動くこと」への抵抗感。
みんな「体感覚のなさ」ゆえでは!?
「体の声」が分からないから、体のどこにどれぐらい力が入っているか分からない。
その結果、いつも力んでいる。
力んで体を動かし続けてるゆえに、身体を痛める。
よく分からないけど動くと莫大に疲れるから、動かなくなる。
私の中で、何かが繋がりました。
「体の声」の大切さ
そんなことを知ったのとほぼ時を同じくして、こんなnoteが目に入りました。
これ、本当に大事だなって。
何が良いかって「体の声」の方が「体感覚」とか言うよりも、ずっと分かりやすい。
(ので「体の声」という表現を勝手に使わせていただきました)
「体の声」は「頭」が直接認識できることではないから、どうしてもなおざりにされやすい。
何があっても、最終的に自分の行動を決めるのは結局「頭」の役目だから。
ちなみに「心はどこにありますか?」と訊かれると胸、つまり心臓を指す人が多いようですが、西洋医学的には「頭」を指すのが本当の正解だそうです。
「心」とか「精神」とか呼ばれるものは脳の所為なので。
なので↑記事でいう「心の声」は「頭の声」の一部というのが妥当なようです。
ひとつの会社にある別の部署の仕事、みたいな。
「体の声」は「頭」の認識の外ゆえ、「頭」が理解しても「体」をコントロールできるわけではありません。
だから、鍛えるにはとにかく動くしかないのです。
「あなたは『動き』の経験が足りないのかな、って思う」
先生はそう仰りました。
先生いわく「体の声」と対話し「動き」の実践を重ねるのがヨガの本質だそうです。
ヨガに出会っておいて、良かったな。
ヨガに関しては、前の学期に一般教養の授業で同じ先生のヨガの授業を受けていたので、基本のポーズはプリントを見れば思い出せる…と思います。
だから家でもヨガを続けたい…
けど受験勉強の方が優先だな(ちゃんとやれ)
長々とありがとうございました。