使えるようになる批評Tips vol.5 精神分析①




はじめに


「私と仕事、どっちが大事なの?」

このように問われて窮した経験のあるヘテロ男性は古今東西に渡って少なくないようです。それは無理もないことであって、人間をやめない限りこの問いに答えを与えることはできないからです。

「仕事休んで一日中わたしと一緒にいて」

もし彼が「現実」というものを熟知していたのなら、彼女を振りきって仕事に行かねばならないことは言うまでもありません。しかしそれは稼ぎを得ることでこの先も彼女との幸せな生活を成り立たせていくためにこそ、そうしなければならないのです。当たり前のことばかり言っているようですが、説明を続けます。人間は私的な領域に何か大切なものを匿っておこうとするとき、逆説的にもそこから遠ざからなくてはなりません。しかし、そうして遠ざかるとき、それは反対に近づいてもいるのです。

人生は、0か100かという二者択一を、第三の道を見い出すことにより克服するということの連続であり、それこそが広義に「差延」と呼ばれるものが人間にもたらした能力であると言えます。問題の解決とは常に、その巧妙な遅延でもあるのです。

人間が生きるということは、自らが「かつて生き/活きていた」という事実に駆動され、自らが今現在そうしているように生きることになった瞬間、つまりは自らが死んだ瞬間、そしてそのことによって生まれ変わった瞬間に立ち会う証人となることを目指す運動に身を置くということです。言い換えれば、生きるということは、自らの、失われた、しかし本当は一度たりとも得たことはなく、それゆえに失ったことすらないところの自身の本質/本当の満足を、他者を通じ経るなかから回復しようとすることです。そのことを表す精神分析にとって最重要のスローガンこそ、「Wo Es war, soll Ich werden エスのあったところにその自我を在らしめよ」です。

このスローガンに集約できる事柄が、人生の各段階でどのように現れ、人間に葛藤を生じさせるか。人間がそれらの葛藤に先述のようにして対処していく仕方は、言語哲学的にはどのように説明できるか、といったことをこれから確認していくことになります。

1. 精神分析の基本的な世界観 —外傷・リビドー・死―


1-1. 人は外傷の結果として生まれる


精神分析は、生命を外傷の結果生まれたものとしてとらえます。より詳しくは、外傷という、内と外を貫いて結び通す穴と、そのまわりを囲むかさぶたのようなものとして捉えるということになります。ゆえに人間はその存在の本質を明らかにしようとすれば、単なる穴や裂け目に到達してしまうことになります。自分の中心には穴が開いているのです。どういうことでしょうか。

人は、はじめ自他未分な状態で生まれてきます。その後、自分が時間的にも空間的にも、ひとつの、ひとまとまりの存在である状態を確立していくまでの間に何度か、痛みをともないつつ、それまでの自分との連続性を断たれる経験をします。これまで自分も他者もいっしょくたに世界全体という大きな塊に属していたところ、そこから切り離されて「個」として独り立ちするのです。

たとえば成人であっても、体調の悪いときほど体の重みを感じたり、怪我をしているときほど自分の体の形や使い方を意識したりすることがあると思います。そういうとき、痛みの体験や自己が欠ける体験をすることで世界から自己がはじき出されるように区別され、産出されているのです。はじめにも述べたように、人間は外傷という穴を穿たれることではじめて「個」としてこの世界に生まれ落ちてきます。しかし、人は幼いときは他者に世話され、成長した後も他者と支え合うことによってしか生きられません。そのため、かつての自他一致の状態を(たとえ覚えていなくても)懐かしく思い、その状態に戻りたいと考えます。外傷体験というかたちでそれまでの自他一致の状態を失って、つまりある意味ではそのときまではいきいきとしていた自分が死ぬことで、人間がこの世に生まれ落ちるのです。より正確に言えば、生まれる前に自分がどんな存在だったかなど分かりもしないのに、人は自分の過去に自他一致の理想状態を夢想するのです。

別の言い方をすると、生命が誕生する瞬間とは、世界に「緊張」が生じ、局所的に構造を維持しようとする「かたまり」が生まれる瞬間であるといえます。人間は基本的に快を得ることを第一に生きており、快とは不快によって生じた緊張を解放することと定義されるのですが、ここで緊張を解消しようとすることとはその「かたまり」を取り去ろうとする運動、すなわち死のうとする運動に他ならないことになります。生とは自らを消去することで本来の状態に至ろうとする運動なのです。生とは、「生の向こう側=死に到達すれば、本当の自分になれるんだ/本当の満足を得られるんだ」という感覚に支えられているのです。このとき生の向こう側としての死の位置にあるものとは、自分自身の本質や本当の満足であり、外傷を受ける以前の自他一致の状態です。人は今現在のあり方に生まれてきたとき、外傷を受けることによって「死」という「穴」を穿たれているのです。その穴によって人は、自己の本質/本当の満足を「おあずけ」されることになりますが、それによって人の生は引っ張られ(牽引)、支えられているのです。そしてそのような本質を求めて死に駆り立てられることよって人生のドラマが動いていきます(駆動)。

人間は外傷体験という自己に空無を穿たれる経験無くして個として地上に存在していることもできませんが、外傷が露呈していても、それはそれで困難を抱えることになりかねません。穴が露呈していればたちまち自己の空虚があらわになってしまうからです。そのため傷口の周りに人は自分が外傷を通じて自分の外側≒他者と関わったり、関わらなかったりする仕方のパターン≒症状≒生き方を形成し、そのパターンを絶えず傷口との関係のなかで補強あるいは破壊・再構築しながら生きることになります。人ははじめ、世界に開けられた風穴でしたが、その穴の周りに自分の生き方=症状を形成して、この世界に降り立つための「より代」とするのです。人間は成長の過程で、定型的な発達のひとつの重要な到達点としてのエディプスコンプレックスの終結に至るまでに、自己の穴に対処するパターンを身に着けて、発展させていきます。その対処においては、もちろんパターンの形成によって穴が露呈しないようにしたりもしますし、ときには自分の本質を求めてパターンを壊して穴に肉薄したりする必要があります。このように、パターンの形成によってあらたに自己にかたちを与えて安定させたり、逆に「よりしろ」であるパターンに捕らわれた自己をパターンの外部に本来性を求めることで開放したりするのです。自己の存在の本質とはこのようにパターンの外に出ては再びパターンを固め、また外に出て…という往復運動のあわいに「遅れ」として確かめられる、いわば残像のようなものなのです。

よって、緊張をつくり、あるいは維持する努力と緊張を消し去ろうとする努力は交代的に行われなくてはならないのです。先ほど、快とは緊張からの解放と述べましたが、もっと複雑に考えてみるとそうではない場合もあることが分かります。性的快楽が筋緊張を伴っているように、この世に何かを産み出そうとすることの喜びは「緊張」によってもたらされることもあります。このように精神分析的には、緊張⇔弛緩、快⇔不快、それぞれの対応関係を一義的には説明できないものです。同様に外傷の瞬間も、それはただひたすら強烈で圧倒的な体験であり、それが快であるか不快であるかは、単純には決定できません。人間が他者と交流することの喜びは、感覚器官や性感帯という、外部に晒されており無防備になっている穴や粘膜を通じて、相互の侵入を許すことによってもたらされますが、それは痛みであるとしても不快ではないことがありえると思います。外傷は、受けた人がその後、何を快と感じ、何を不快と感じるかを大きく方向づけるものです。ですので、ある種類の外傷を受けた人からは気持ちいいとされることが、そうではない人からはそう思われないこともあるでしょう。

なお、より進んだ話をすれば人間が安定した生を保つためには、このようなパターンによって死の領域が一箇所に集められることが必要です。それによってある意味では、通常それを直視しないでいることができます。むしろ死が渦巻いている領域を囲う堤防を適切に築きあげることで、それは「穴」として機能しえますが、堤防が決壊していると、「穴」にはなりません。生の領域に死が流れ込んでしまえば、穴とそれ以外というコントラストはとらえられなくなり、まだら模様が現れるにすぎないからです。

1-2. 人は外傷の傷跡=性感帯を通じて他者と繋がろうとする


外傷とは第一に、自己が世界から切り離されたときの切り口に相当するものです。そのため外傷の傷口として最も理解しやすい例は「へそ」です。へそはへその緒を断たれた傷跡であり、過去における母=世界とのつながりを記憶するものです。人はへその他にもたくさんの傷(跡)を持っています。感覚器官や粘膜がそれです。そうした場所では、他者との間で物質や感覚をやりとりするために、穴が開いていたり、皮膚が柔らかくなっていたりします。人がその後の人生においても、他者とのつながりを繰り返したしかめようとするのはすべて、からだの至るところにある傷を通じてなのです。

その後も人は、自分の体のかたちを知り、自分が世界と区別されたひとつの、ひと続きのものであることを徐々に認識していきます。この段階でようやく自我と呼べるもの、あるいはその前駆的なものを得たことになります。この段階では、まだ体の各部分がそれぞれ意味づけられてコントロールされておらず、ひとつの体全体が傷(跡)としてはたらいています。つまり全身が性感帯になっている状態です。性感帯というといやらしく思われるかもしれませんが、ここで性感帯とは「他者、あるいは他者を通じて現実の対象と関わることでしか生存できない人間が、自分と他者が一致している過去の状態を脱して自分がこの世界にただ一人で存在するようになった後で、なおも他者との繋がりを可能にする(または可能にするという幻想を与える)、特別に残された体の部位」のことを言います。

1-3. リビドー発達:人は様々な性癖を移り変わって成長する



この先もこの世界で生きていこうとしたときにはこのような全身の快楽を断念し、性感帯を一箇所に集める必要があります。人は、幻想的な満足に耽って、生存のために必要な行動を起こさなくなってしまえば死んでしまい、それでは困ります。そこで限られた箇所でだけ気持ちよくなれるように体を訓練していくのです。さらにその限られた箇所というのは、その都度生存にとって大きな意味を持つ器官が選ばれます。逆に、性感帯が生存に必要な器官が合致していればこの世界での適応に成功したことになります。

このように人間は動物に比べ身体能力が著しく低く、本能が失われているので、発達をしながら他者や言語との関係のなかで本能の力や動物が本来持っていた力を再現していくのです。ここで本能の重要な要素とは「自分が自然に欲しいと思う対象が生存に貢献する対象と一致していること」です。人間はそれが失われているため、幻想的な満足にばかり「欲しさ」が向かず、生存に貢献する対象に「欲しさ」が向くように、あくまで幻想をつかって人工的に欲しさが整流されるような仕組みになっているのです。

その都度生存に大きくかかわる器官と述べたものは、定型発達とされる人にとって、口→肛門→尿道→男根と推移していきます。自己保存の最終過程は子孫を残すことですから、各器官を経て最後に生殖器である男根が性感帯になったら、適応的な発達が一応の完成ということになります。なお、男性だけでなく女性も男根を中心として定型的な発達を遂げるのですが、それは上級編です。

各器官が生きる上で重要となる発達経路上の各時期を、口唇期→肛門期→尿道期→男根期と呼びます。男根期ののち、性的なエネルギーが沈静化して見える潜伏期を経て、思春期にあたる時期に性器期を向かえることで、全ての段階が終了します。

各段階にはその段階で性感帯になっている器官=傷(跡)に対応した、快を得るためのパターンがあり、人は各段階を経ながらそのパターンを獲得していきます。これらのうち特定の段階で強烈な体験をすると、その段階に特徴的な気持ちよくなるためのパターンにこだわってしまう「固着」と呼ばれる状態となります。程度の差はあれ、特定の段階に固着がある場合は、固着をなくして、最新の段階に合わせたパターンを使う方が幸せに生きられそうだという場合が多々あるため、固着を取り除くことが治療のひとつのゴールとなることもあるでしょう。精神分析的精神病理学では、各固着点や固着の状態を疾患分類と対応させて考えます。口唇期固着は統合失調症や重度のうつ病に、肛門期固着は強迫症に、男根期固着はヒステリーに関係しているというようにです。

各段階で獲得されたパターンは、その段階を過ぎたら完全に失われるわけではありません。だから人はセックスのときに男性が女性のおっぱいを吸ったりするのです。完全に”適応的な”セックスをしようと思うなら、性器的な愛し方しかしてはいけないので、動物と同じようにして、おっぱいを触ったりキスをしたりせずに本番行為のみ行わなくてはいけないことになります。動物は人間と違って性的成熟がはやく、生まれてすぐから生殖器が性感帯になっているため、人間のように様々に性癖を渡り歩いてから性器の快楽に到達するのではないのです。

また、多くの文化圏で、恋愛関係が進展するにしたがって親密度に応じて互いの粘膜や穴を通じた交流もより深い形態に進展していくと考えられています。たとえば、手をつなぐ→キス→セックスをするという順序が想定されていることがあると思います。しかし、こういった「順序」は自明なものではありません。たまたま定型発達の人が多いので、性器の交流が最終段階に設定されているだけです。快を得るためのパターンとして口唇的なものが性器的なものより優位な人であれば、そうした順序は意味をなさなくなることがありえます。「わたし、キスはセックスをしてからって決めてるの!」と言われてキスを断られても、精神分析を勉強しておけば動揺せずに済むだろうと思います。

おわりに:人は言語によって自分の本質を遅らせることで生きている(予告)



ところで通常ゲームにおいては、ゲーム以前から存在する主体がゲームのルールを理解してプレーヤーとして振る舞うものだと考えられています。しかしながら、私たちが遊びで行うゲームならともかく、人間の社会をゲームと見て、社会の規範をゲームのルールと見ると、その限りではないことが知られています。人は社会の基本的なルールに受動的に参入せざるを得ないからです。その場合ルールは、プレーヤーがどのような存在であるかという定義を含んでおり、主体はルールによって切り刻まれることでむしろはじめて主体となるのです。こうして人が社会のルールに出会い、ルールに切り刻まれることでプレーヤーとして生まれ変わる瞬間もまた外傷の瞬間と言えます。

人間社会のルールは(成分的でないものも含めて)言語でできており、言語によって人は自分とは何者かを表現したり、かたちをともなってそれをこの世界に刻むことができるようにもなりますが、あくまで言語は借り物でしかありませんし、先ほどのように、「プレーヤーが何者であるか」という定義を含んだルールは自分とは何者かということそれ自体を規定してきます。

人は各発達段階の応じて、快を得るパターンを獲得していくということを解説しましたが、言語を受け入れることでそのパターンの一応の完成形が獲得されるのが、エディプスコンプレックスの時期すなわちおよそ男根期にあたる時期です。これが定型発達を遂げる人間が経験する最後にして最大の外傷の契機です。何を隠そう精神分析は、人間が言葉を話すことをもって、失われたものとの関係のもとに生きる苦しみに投げ込まれるたということを前提に、言語を用いたアプローチを行う実践です。精神分析は、言語との出会いによる外傷によって快を得るパターンを大きく方向づけられた存在としての人間を基本的には対象とするのです。

次回以降は、人が「言語的に構造化された」社会のルールとどのように出会い、快を得るためのパターンがどのようにして一応の完成を見るのかについて詳細に扱っていきます。

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