スクールカースト論 vol.1 希望を占拠せよ!?:スクールカーストについての一証言(冷笑イケメンvs. ポジティブブサイク)
はじめに
スクールカーストの経験はかなり多様であり、人それぞれネットや学術メディア等々で定式化されているスクールカーストのひな形のようなものとは異なるものを体験してきている。もしかすると同じ学校・クラスに通っていても認識が違うこともありえる。
自分たちの学校にスクールカーストが事実としてあったと言えるのか、それとも無かったと言えるのか、あったとしてそれを在学中に自覚していたかどうか、同窓会などで尋ねてみれば、きっと多くの証言が得られることだろうと思う。
筆者の経験の証言
以下では、筆者がn=1として自身の母校のスクールカーストについて、その形態や文化の特徴を証言する。記述のネタに事欠かないことから、今回は筆者の出身中学校に絞って書く。
1. 筆者の母校(中学校)の基本情報
田舎ではあるが中核都市級の県庁所在地にあり、偏差値は県内で最もましとされている。教育学部附属校であり、授業研究等の取り組みが盛ん。数名を除いて地方の公立高校に進学するため、全国的な土俵での受験競争意識はほぼ無い。全国的に少し珍しい幼少中一貫である。さらに、卒業後は県立高校にほぼそっくりそのまま進学するため、実質的には幼稚園から高校まで同じメンバーも沢山いる。荒れているという実感は全くない。いじめ、不登校等は数件、ドロップアウトはほぼ無し。以上は筆者の在校期間である2010年代後半のことである。
2. 筆者の母校(中学校)にカーストはあったのか
筆者の認識では、スクールカーストはそれを意識している人の頭のなかにしか存在しなかった。現に筆者は、一部の同期生に言わせれば明らかにカーストの頂点だったそうだが、その当人である自分自身はこうして時間が経過するまで、カーストの存在を自覚し言語化することができなかった。また別の同期生に言わせれば筆者はカースト秩序からは敬遠される存在だった。
同期生の証言と筆者の認識をすり合わせる中で至った結論としては、それをカーストと呼ぶべきかどうかははっきり断言できないにせよ、グループ外にも認知され影響力を持つような影響力の強い友達だちグループが存在したことはたしかだった。また、そのようなグループはひとつではなかった。筆者はそうした影響力のあるグループのうちとあるグループでは頂点に位置し、別のグループからはむしろ毀りや貶めを受けていたこともあった。
全学年を覆うカースト秩序があるとは言い難い。ただ、いつものメンバーが集まる小集団のうち、周りから見たときの充実性の度合いや発言力の度合いにおいて目立っている集団があり、その集団に属する人たちが「カースト上位」にあたると見なすことのできそうな場合があったということである。
このような友達グループと言える小集団について、少なくとも筆者らの同期のなかでは、男女をまたいで成立しているものはなかった。男女それぞれでいつものメンバーが集まった小集団があり、それらが互いに交流を持つことはあったが互いの秩序にはそれぞれの性別にしか分からないような承認の基準もあった。よってカースト秩序のようなものが現れているとおぼしき場合も、男女それぞれにしか感知しえない部分があった。
3. 男子のカースト:K派とO派
学年内で休憩時間によく集まっている小集団はどこの学校にでもあるものだと思う。もちろん筆者の母校にもそうした集団は沢山存在した。その中でも、よく知らない人にまで認知されるような影響力を持った集団や、大きめの集団、また集団同士を連結して大きな秩序をつくっている集団などがあると思う。筆者の母校においてそうした集団は、男子では、「K派」と「O派」の2つが主だった。そのような影響力のある集団がカースト秩序を形成していたといえる瞬間もあったかもしれない。
K派
幼少中一貫の母校において小学校時代から存在した派閥。姉を持つ数名が若者文化やカースト文化のアーリーリセプターとなって影響力を持った。そのうちの1人であるKが唯一絶対的な王者と言える存在だった。彼は成績上位で誰から見てもかなりのイケメンであり、小中ともにサッカー部のキャプテンをつとめた。外部入学生からは「オーラがある」と言われてもいたが、幼稚園時代から彼を知っている筆者含め内部組はそれほどに彼の魔力めいたものを感じたことはなかった。
K派は「真面目にするのが恥ずかしい」という感覚を共有していて、それははにかみとスカシの入り混じった対人態度に現れていた。真面目さから退却を図っていた点では、どちらかと言えばヤンキー的なものに寄った、つまりは「影の学校」の側に自文化を位置づけてはいるが、授業や特別活動、課外活動などには斜に構えながらも要所要所それなりには参加し、自分たちの世界でモテや強者身振りによる笑いを享受する勢力であった。しかし、かわいいところもあり、部活には真摯に取り組んで涙を見せることもあった。大きな非行や逸脱行動は無かった。
彼らは、表立って誰かをからかったりすることはなかったが、彼ら同士で集まっているときはよく女子生徒の容姿を貶める発言や、特定の特徴ある人の身体性を指摘することで盛り上がることが多かった。そのため、その対象になっていると知った当人や、それを漏れ聞いた人、そうした会話の内情を知っている人のなかには、K及びK派を不快に思っている者もいた。
K派の影響力を基礎づけたのは、Kに次ぐナンバー2以下のコミュニケーションのスタイルにある。アメリカの学校文化のひな型で言うところのサイドキックスにあたるのだろうか。他人の身体性を貶めることで身体性に関する規範を打ち立てたり、逆に「かわいい」異性の像に言及することで「こういう異性を好むのが正しい」とか「こういう異性を好むのは趣味が悪い」という規範を共有することができていた。それには松本人志的な嗅覚と俊敏さが必要である。それは先述のはにかみとスカシと相性の良い種類のものであった。
K派の秩序は実のところ、子どもたちの間で我が子がうまくやっているかを心配して立ち回る保護者によっても強化されていた。とくにKの母親は、Kが「モテ」という観点からも、「将来の身分の安定」という観点からも失敗をしないようにKを教育していたことが感じられた。また保護者同士の人間関係では、主導格として部活の保護者会を回し、互いの子ども同士の「お呼ばれ」を催したりしていた。その振る舞いにあからさまな排他性や差別意識を見て取ることは難しいし、我が子の公的な成功を願う母としての振る舞いとして納得できるものではあった。しかし、彼女の周到さによって、多かれ少なかれ必然的に我が子がKの「下」に貶められることになってしまうことになるその他の多くの凡庸な子の親たちの一部から、彼女が不愉快に思われていたことは子どもの自分たちにも明らかだった。これらについてはサッカー部の外部には見えずらい部分もあったのではないかと思う。
O派
Oは中学からの外部入学生であった。様々な地域を転々としてきたこともあってか、K派的なものが唯一のヘゲモニーだった母校にとって新しい価値観を運んできた存在になった。その新しい価値観とは主に以下の2点である。
①恋愛についての開放性(秘密主義ではないこと)
②学校の授業や活動に参加することをむしろリア充像として積極的に認める態度
Oは、シンプルに表現すれば、人を気持ちよくさせるのが得意で、決して王道のイケメンではないのだが、筆者らの母校の男子なかでは間違いなく一番女子にモテていた。在学中から「人たらし」という異名をとっていたほどである。より正確に言えば、他人が言われて喜ぶことを察知してその人を持ち上げることが得意であった。また、遊びにおいても活動においても、人のやりたいことに自分自身もノリノリで合わせることで、その人の得意な領域に自分も付き合って楽しみながらもその人を持ち上げるのが得意だった。そのため自分自身が王として君臨するというよりかは、一緒にいる人を王や姫でいさせることで人の輪を広げることができていた。
①恋愛についての開放性(秘密主義ではないこと)
K派の主要メンバーたちは、はにかみとスカシに与するゆえに意外と奥手なところがあった。それは幼稚園から連続した狭いコミュニティのなかで男女交際に対する気恥ずかしさの感覚を捨てきれずにいたということもあるが、容姿をはじめとした規範意識に篭絡されて、多かれ少なかれ痛々しさを伴う感覚である、人を好きになることや付き合うことに対して斜に構えざるを得なかったからでもある。他方Oは、会話を通じてどんな人でも青春の主人公に持ち上げる力を持っており、恋愛についてのあれこれはオープンに話せる話題であるという位置を与えられたうえに、痛々しさを指摘するそしりを退け、恋愛を多くの人の手に民主化したのである。
②学校の授業や活動に参加することをむしろリア充像として積極的に認める態度について
次節で説明するように、筆者はその当時に限って、学校化社会への適応性が非常に高いであろう「課外活動厨-意識高い系」と言える人種だった。そのメンタリティー、すなわちモテ規範に照らして少々痛々しかったとしても、意義のある活動や勉強にコミットしてさえいれば勝者は自分の側だと自信を持つことのできるメンタリティーが、Oの太鼓持ちによって強化され、Oの持つ誰もを青春の主人公にしてしまう力と合流した。
筆者の立ち位置
実はOと在学中もっとも懇意にしていたと言えるのが筆者だった。むしろOの方が筆者に近づいてきたふしがある。Oは、先述の通り太鼓持ち的な方向で同性をアゲることが得意なのであり、筆者がOにおだてられ、O派政治のスポークスマン的な立ち位置を果たすことでO派が成り立っていた。そういった事情で、O派のヘゲモニー伸長がもっとも顕著だったのが、筆者とOが同じクラスだった中学2年のときだった。
筆者はその当時、後から振り返れば青年期特有の覚識とでも言える精神性から、授業やその他の活動に積極的に取り組むことで「青春」を謳歌してやろうという世界観を強く持っていたが、それがOの太鼓持ちによって脚色された上に実質上も強化され、筆者以下多くの人が同じ世界観のもとに、そこで言う「青春」なるものを楽しむ土壌として機能しえた。
筆者が、O派的なものを増幅させ、創造しさえもすることができたのは、自らの身体性に対して鈍感であったのと、積極性や自立性が最大の美徳と信じる、おそらく思春期に特有の目覚めのようなものがあったからである。なお、当時は自分が思春期であるということも、「あくまで青年であり大人ではない」というニュアンスを与えるため否定していた。あとから思えば「The 思春期」と言えるような態度だが。
ともあれ、こうした精神性に連なる規範がいくつかあり、これらに従って中学時代を過ごしていた。
・楽しむことは良いこと
・特に人が嫌がること、やっていたら評価される大変なことを楽しんでやっているのがカッコいい
・努力は良いこと
・人と違うことをするのが良いこと≒面白いことをするのが良いこと
・独立して生きていくのが大人であり、良いこと
・勉強以外の活動を進んでやるのが良いこと
・明るく朗らかでいることがいいこと
このように列挙して言葉にしてみると、すべて見上げたことのように思えるし実際そうである部分も多分にあるだろう。しかし、どんな規範も突き詰めれば暗い部分に行き当たるのであり、ここに挙げた規範はすべて、自己責任論的な自罰-他罰の意識やホリエモンの自立至上主義のような過剰さを持ったものであったといえる。
筆者はサッカー部員でもあり、KやK派とも同じ習い事に通っていて、気兼ねなく話せる間柄ではあった(同じ習い事に通っていたのは、保護者ぐるみの政治の一環でもあった) しかしK派においては、いつも一緒に行動する固定メンバーを持っていたわけではないため、ある意味いつでも貶められ、切り捨てられる可能性のあるポジションでもあった。もちろん部の内外での影響力の強さから、K派も完全に筆者を足蹴にすることはできない状態ではあった。このようにK派における筆者の身分は不安定なものではあったものの、K派に対してはたらきかけることのできる立場ではあった。むしろ完全にK派内の論理に篭絡されていないため、K派に対してショックを与える力としては大きなものを持っていた。
しかし筆者が、自身が派閥の中心で政治力を持つにいたったのも、間違いなくサッカー部内で揉まれた経験に寄っている。頭角を現したのが運動部内だったため、その後も全くマイノリティに優しい世界を展開していたわけではない。O派内でも、性加害的な言動や、強者弱者を問わず男子を場合によっては一部の女子と共有できるものとして下ネタも使っていた。能力主義や学歴主義に対する批判意識もなく、勉強や努力という観点から人を値踏みしたり切り捨てたりする発言も多くした。笑いで人気を取ることに快をおぼえたのも運動部内での立ち位置でのことだった。それはむしろKが与えてくれたものと言えるものでもあった。もちろん笑われる側である以上、同格の地位を認められているわけではなかったわけだが。いわゆるスラッカーのポジションである。
K派 vs. O派
二大勢力が互いにヘゲモニーを争っていたという見方からすれば、この勝負は後者のO派に分があった。卒業後、K自身とK派の数名もこの結果を認める言を吐露したことがあったので、この見方は双方の派閥内部の当事者の視点からは一定正確なものだ。
別の見方では、二大勢力はそれぞれ独立に力を持っていただけであり、争っていたという言い方には違和感があるとも言える。事実、別段、別派閥だからといって常に表立っていがみあっているというようなことはない上、それぞれの仲が悪いというほどでもない。というのも、幼少中一貫校なためもあり、互いに互いの変化を見てきており、特定の時期にはわだかまりのあった関係性が別の時期に変化していることは自分たちにとって当たり前のことだったからである。
結果的に目に見えるところで影響力を持ったのが筆者側だったため、K派のうち何人かには「あいつにヘゲモニーを奪われた」、「あいつ上手くやったな」と思われただろうし、逆に言えば、このモテ陣営と希望陣営の両者は交わることなくそれぞれ別個の権威として併存したともいえる。
また、180度別の見方をすれば結局のところK派が静かに勝っていたとも言える。授業や課外活動など学校の論理の内部での活動で目立っていて、先生にも好かれ、公の世界のコミュニケーションを支配していたのは筆者をはじめO派であったが、結局のところ、モテの力で人の心のなかのプライベートで後ろ暗くもありえる部分を掴んでいたのはK派だったからである。この論点については最後の章で扱うことにする。
ともあれ現在のところ様々な証言から多くのことを総合的に考慮に入れる限り、やはりO派が優勢であったと言えると結論している。その要因となったのは以下のような事柄である。
①希望を占拠したのがO派だったから
モテるためにはある程度スカシが必要だ。スカシというからには、「冷笑」というほどではなくとも、「クール」でいることは必要である。別の論稿「道化の論理:モテるためには去勢されなければならない」で詳述しているように、「クール」であることが必要なのはなぜかというと、大勢のオモテの関係から、二人だけのウラの関係への『抜け出し』のためには、ウラの関係にスムーズに移行するためのムードとして、シリアスさや静かさが必要なためだ。少なくとも当時の母校の文化ではそうだった。このために、K及びK派の主な部分は、O派が学校の論理の内側の活動を積極的に捉えて頭角を表していくのと対照に、「明るさ」や「希望」、「真面目さ」といった価値と遠ざかることになった。Kらはこのためもあり、自分たちがたとえ痛々しくても本当にやりたいことをやる自由に自ら制限を加えることにもなった。
②K派は上の兄弟姉妹からの事前情報のせいで行動が制限されていたから
上の姉妹からモテ規範や強者コミュニケーションの規範、運動部至上主義などの世界観を受け取っていたせいで行動が制限された。カースト上位者は、カーストという概念とそのひな型を上の兄弟姉妹たちを通じてあらかじめ知っている場合が多かったという証言を既にした。彼らはカースト概念だけでなく、その他多くのモテに関する規範やコミュニケーションの規範を受けとっている。そうした規範にとらわれることで、痛々しさに対して敏感になり自分たちの行動に制約を加えることになったうえ、運動部やスカシ-モテ以外のリア充の在り方を開拓することができなかった。
③内面化された冷笑主義がK派自身たちにとっても制約となったから
これは「スカシ」にも関係しているが、自分たちがあげつらって笑う痛々しい身体性への忌避感・嫌悪感のせいで自由な人間関係や活動の足かせになった。
④カースト秩序の性質の時代的変化に遅れたから
現代のカースト秩序は教師や学校の抑圧に対するカウンターとしての若者文化に基づいたものから、実社会や学校内の評価に依存した優等生的な価値観を反映するものに変わってきている。カースト上位者は先生に反抗する者がなるのではなく、最も親しく先生と話せる者になるのである。K派は、学校の授業や活動に対して斜の姿勢をとった時点で、この構造の攻略が難しくなったのである。
⑤派閥の裾野の広さが段違いだったから
K派は実のところかなり狭いコミュニティでしか影響力を持たなかった。K派は幼稚園の頃から存在し、ほぼ完成され、閉じたコミュニティに安住することで、外の人を寄せつけなかったし、あまり外に出ていこうともしなかった。他方、O派に親和的な人は沢山いたのだ。田舎で落ち着いた校風だったためか、実のところキラキラ-モテ-運動部至上主義のような学校文化モデルを受容していない人の方が圧倒的に多かったのである。ある意味カースト政治が上の兄弟姉妹のいるアーリーリセプターたちのひとり相撲になっていたところがあったのだ。
4. 女子のカースト:A派とR派
女子のなかで影響力を持った集団としてはA派とR派があった。とはいえ、女子は男子ほど明確に強い集団がいたわけではない。あくまで強いて挙げればこの2つというだけだ。A派とR派はそれぞれ男子のK派とO派に似ている。筆者が男子側だったため、よく見えていない部分が多いかもしれないが、知る限りのことを記述しようと思う。
少なくとも当時の同期女子においては、美を占有している側こそ、トレンドに対して超然とすることができ、自分たちが充実していることをトレンドの記号を身にまとうことでアピールする必要がないというような雰囲気があった。
美を占有しているがゆえに奥手でいることができ、派手なことをしないグループがA派。カーストと言えるかどうかは分からないが、流行などに基づいた集団の規範の確認と違反の取り締まりに僅かばかり敏感であり、より若者らしくSNSを使ったりするグループがR派であった。
5. 異性間交流の権利とその占有⇔恋愛の民主化
筆者の母校では、基本的に男女はそれぞれ別のカースト秩序を持っており、互いに一方の性の人間が他方の性の秩序に基づいた進退に影響を与えることは難しかった。O派は教室内で男女問わず会話に巻き込んでいたが、K派はモテを占有していたにも関わらず、教室ではいつも男だけでかたまっていた。
K派とA 派の間では、メッセンジャーを通じて「1軍同士コンパ」に近いものが定期的に催されていたようで、異性間交流をキモさとは無縁の状態で行う権利が認められていた。申し訳程度の遊びを開催していたが、奥手ではあるため互いにハニカミあっていて、権利だけを持っていて内実何もしない状態が生まれていたのである。
若者の中には「容姿などの条件が揃わないかぎり、恋愛をするのが恥ずかしい」という感覚がありえると思う。短く言えば「ブスのくせに」という感覚だ。男子のK派と女子のA派は、こうした感覚の支配するなかでモテを占有し、キモいというそしりをほぼ完全に免れて恋愛をすることを許される階級であるにもかかわらず、そのくせ奥手ではあるため、このような状態になったのだろう。同カースト間で形式的な手続きによってカップリングをするという点では、ある意味本来の意味のカースト秩序にもっとも忠実なあり方だと言えるかもしれない。
6. コミュ力について
K派は強者身振りとも受けとられるような、独特の笑いの観念など、ある種のコミュニケーションのコードに従って、人と人とをつなぐ、特に男同士をつなぐコミュ力というものを持っていた。しかし、モテやスカシにくみしたばかりに、そういったコミュニケーションが通じない場面でめっぽう弱かった。本人たちは意外にも奥手なところがあったうえ、彼らの加害的な会話についても、あくまで陰口の域を出ないもの、表には出さないものという意識が彼ら自身にもあった。
他方、O派のコミュニケーションは、先述の通り決して加害性を持っていなかったわけではなかったが、比較的裾野広く多くの人に適用可能なスタイルを持っていた。
7. 冷笑イケメンvs明るいブス:ルッキズムと自己完結主義どちらが強い?
アイキャッチのためにタイトルに書いた「冷笑イケメンvs明るいブス」という構図について、より一般的に考えてみたい。
ルッキズムの苛烈化と、努力や希望の否定できなさの力と、どちらが強いか、ということである。筆者の出身中学において少なくとも当時は後者が勝ってしまったと言える状況が現れたことになる。ルッキズムについては「ルッキズム:論点まとめ」、「努力や希望の否定できなさ」については「冷笑と「冷笑への冷笑」との関係:誰も批判できない『笑顔』と『努力』の力」で扱っている。
先に述べたように、筆者の出身中学において、学校の論理の内部での活動で目立って、先生にも好かれ、公の世界のコミュニケーションを支配していたのは筆者をはじめO派であったのに対し、結局のところモテの力で人の心のプライベートで後ろ暗くもありえる部分を掴んでいたのはK派であったと言える側面があった。
思うにルックスや「モテ」が表にできない私的な場面で勝つのに必要な力であるのに対し、冷笑の対極としての努力、素直さ、明るさ、希望などは、公的な場面で勝つのに必要な力であると言えるのではないだろうか。この感覚は、筆者の個人的な体験に依るところが大きいため、一般化できるものかについては検討を要する。なお、このように「恋愛を集団の人間関係の外部に位置づける」発想の一般化については「恋愛についての一証言:"降りる"ことと評価されること/『告白=爆弾』:付き合っていることを隠したいという若者について」で扱っている。
「明るいイケメン」が1番強いのは言うまでもないが、「冷笑イケメン」か「明るいブス」かの2択の場合、おそらく多くの人が考えている以上に、これからの世の中を支配していくのは「明るいブス」の方ではないかと思われるのである。その理由は「冷笑への冷笑」との関係:誰も批判できない『笑顔』と『努力』の力」に引き継ぎたい。