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【パリが私に教えてくれたこと】言葉のバイアスのない場所へ

夫婦でパリへ行くことを決め、まずは家探し。
最初は小さなストゥディオ(昔、メイドさんのお部屋だったところ)に住むことにした。

パリに住んでいる友人に聞いたら、Mix Bというサイトがあるよとのこと。覗いてみたら、けっこう細かく載っているし、いろんな人がいて面白い。

SNSも、今から5年前なのでインスタもまだ今ほど盛んではなかった頃。今だったらもっといい方法も沢山ありそうなものだが、その頃はMix B一択だったのだ。

何区とか書いてあっても、よく分からない。
パリが大好きとかパリに憧れてるとかではなかった。フランス語も話せないし、観光にも対して興味がなかった。

では何故、そんな私がフランス・パリに行こうと思ったのか。

一言でいえば、それは、『なんとなく』だ。

それでは参考にならないので、noteに書くなと言われそうだが、素直に言えばそうなのだから仕方ない。

ただ、細かく紐解くと理由はちゃんとある。

例えば、その理由のひとつをあげるとしたら、母国語が英語ではなかったことだった。

フランスはもちろんフランス語を話す。英語も昔よりは話してくれる人もいるが、それでも基本はフランス語なのだ。

当たり前だが、私はフランス語が話せなかった。おまけに英語は中学生レベルだ。

日本に帰国した後、初めてお会いする方などに話の中でフランスに行っていたと話すと必ずといっていいほど言われた言葉がある。

「ってことは、フランス語話せるんですか?」

私はそれが意外で仕方がなかった。その国にいたら、その国の言葉がスラスラと話せなきゃいけないのかしら?(もちろん、話せた方がいいです)

もし私が相手なら、海外に暮らしていたと聞いて、最初に言語が話せるのかどうかは気にならないので聞かないと思う。というか、その発想が頭にない。

私が、尋ねるであろう質問はきっと、
「暮らしてみて何が一番印象的でしたか?」だ。

それが、国内でも海外でも、どこに住んだことがある人にでも、きっと同じ質問をするだろう。

何が一番印象的か?

ポジティブなことなのか、ネガティブなことなのか。嬉しかったこと、楽しかったこと、悲しかったこと、嫌だったこと。はたまた、恋に落ちた!とか、やりたい仕事に没頭した!とかなのか。

それは相手の感性にお任せしたい。何を最初に言うのか。そして、その後2つ目は?3つ目は?と聞いてみる。大体3つ目あたりで本音が出るだろう。

なんにせよ、印象的と言う言葉が好きだ。

良い本を読んでも、あとでしっかりと思い出せない。素晴らしい映画を観てあんなに感動したはずなのに、クライマックスがなんだったのか、忘れる。

なんだか嘘みたいだな、といつも不思議に思う。

余談だが、本も映画もアートも、その時の自分を投影し自分の中で判断することになるので10年前に感動したものが、今の自分が同じように思うかは定かではない。

実際、十代の頃にカッケー!と思った映画は、今見ると大体飽きてしまう。こんな感じだったかな?と同じ映画じゃないのではないか、とすら思い監督を確認したりする始末。

そのくらい、人は変わりゆくものだ。

決して悪いことなのではなく、そこから幾重にも経験してきたことが、影響している。

人は経験でバイアスをかけてしまう。それは人間本来の自分を守る行為なのだと思うが、本当につまらないものだなと思う。

出来ればバイアスを外して、何事も自由に公正な目で見ていたい。

どんな職業か、どんな見た目か、どんな学歴か、ましてや血液型なんか、どうでもいいのではないか。知ったところで次会った時にはその人が何型だったのかなんてものはきっと、忘れていることだろう。

そうゆう意味のない会話が、昔から苦手だった。

それはフラットに相手を見ていたいからであり、逆に何も知りたくないのだ。

話しているうちに、だんだんその人の輪郭が浮き出てくるほうが好きだし、そうでないと話す意味がないとすら思う。

コミニュケーションは、相手を知りたいというパッションからしか生まれない。知りたいから話すのだ。そして、話していくと相手を知れるのだ。

だから初めから、私はこんな人間です!と、履歴書を渡すような真似はしないでほしい。そのスペースは私のフィルターを通して、書いていきたいのだ。

そんな私は、フランス語という言語はとても合っていたように思う。理由は、言葉のバイアスが全くなかったことだ。

英語はなんとなく小さな頃から触れているし、普段もカタカナ英語はもうすでに使ってしまっている。

アメリカナイズされている日本にいて、フランスを感じることは、まずないと言っていい。あるとしたら美容室の名前くらいだ。(あとはパン)

だから、フランス語が聞き慣れていなくて新鮮だったのかも知れない。人は聞いたことのない言語に囲まれると、音楽を聞いているみたいな気持ちになるのだなと思った。音のリズム、口の動き、その人の話し方のクセなど。言葉の意味にひっぱられるのではなく、全体像から入るので楽しい。そう、楽しかったのだ。

海外に行く理由として、大体は英語の勉強をしに行こうと思うのではないか。(とても正しいのだが)日本で学ぶ外国語は、英語であって、英語を話す人が地球上で多いのだから話せた方がいいに決まっている。海外に行くなら、英語を身につけたい!と思うのが、自然な流れなのだと思う。

私も英語は話せるようになりたいという気持ちはあった。けれどそれ以上に、聞いたこともほとんどなく意味も分からない、文化も知らない、、そんなところに一度でいいから住んでみたかった。

恥ずかしながら大きな夢を掲げて行ったわけでもない。(夢を追ってパリに住んでいる人に多く出会った)私にはそんな野望もなく、ただ知らない国に住む経験がしてみたかった。

結果、何にも代え難い経験が山のように訪れ、私にフレキシブルさを与えてくれた。そしてもうひとつのやってみたかったこと。ヨーロッパ中を旅することだ。これも叶えられた。実際そこで得れたもの、見たものは、今の自分の糧になっている。

何にも縛られず、バイアスなんて何の役にも立たない場所へ行き、わたしはわたしを取り戻した。今までのわたしが肯定されていく感覚。

あの時、海外に行く理由をもし、行く前に並べていたら、きっとフランスへは行かなかったかも知れない。なんとなく選んだことが、結果的に自分自身が求めていたものがそこにあった、ということになる。

言語はあてにならない時もある。自分の直感で動いてみると、意外と思わぬ方向に転がっていくことを私は身をもって知ったのだった。

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