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【パリが私に教えてくれたこと】私らしい言葉の音

パリで最初に住んだ場所は、バスティーユという街だった。バスティーユといえばもともとは牢獄があった場所、と世界史では習った気もする。
けれど、実際に住んでしまえばピンとは来ないものだ。

なんでバスティーユに家を借りたかというと、そこに家があったから。(山があったからに近い)
何区に住みたい!とかそういったこだわりもなく、家探しをしていた時に目に止まった物件がたまたまバスティーユにあったのだ。

そこの物件は19世紀頃建てられたもので、古くて映画に出てきそうな佇まいだった。
もちろんエレベーターもなく、日本からの荷物を4階まで上げなくてはならなかった。階段もらせん階段で(くねくねしている)なんというか、古くてつるつるしてしまって段差の部分が丸くなっているので滑って仕方ない。

日本はなんて便利なんだ。エレベーターがないというだけでこんなに大変だなんて、私は知らなかった。(もうぐったり)

そのあとも19世紀の建物だけあって色んなことが起きた。それは後でまた書きたいと思う。


そんな慣れない場所に暮らし始めても、人はちゃんとお腹がすく。とりあえずちょっと外を散歩してみようと近所を周ることにした。

とあるパリのお惣菜屋さんが目に入り、恐る恐る入ってみる。

ボンジュー!
声をかけられる(日本でいう、いらっしゃいませ)
そのあともフランス語で沢山話しかけられるけれど、フランス語が話せない私は何を言っているのか全く分からなかった。戸惑い、何も言葉が出てこない(フランス語話せないから当然なのだけども)

英語でも、ボディランゲージでも何かしら出るものだと思っていた。実際は何も出てこなかった。
想像とは違うものだなぁと実感した瞬間だった。

それでもお腹はすいているので、何かを買って帰りたい。目の前のガラスケースに並ぶお惣菜はキラキラ輝いて見えた。チーズがどろっとのった良い焼き加減のラザニアは格別だった。それに決めた。

日本でも昔はあった光景だったのではないか?
八百屋さんや商店街で、言葉を交わしながら買い物をすることはきっと昭和の街角では当たり前のことだっただろう。

....前に並ぶフランス人たちが注文するのを背中越しに見ながら、そんなことを思った。

さて、どうやって頼もうか?どんどん前の人が去っていき私の番が近づいてくる。そこで思いついたのは、ただ前の人たちの真似をしようと思った。

フランス語の意味は分からないけど、耳で聞くカタカナフランス語は分かる。耳で聞いたままを真似して話してみようと思った。

それは成功し、無事ラザニアを買うことが出来た。
あの時のことは一生忘れないと思う。

言葉とは、"耳"なんだとその時思った。
耳で聞いて、話してみる。そうやってきっと赤ん坊の時に親の話している言葉を真似して日本語というものを話せるようになったのかも知れない。

まず、そんなことを日本にいた時心から感じることはなかった。そんな場面がないからだ。
そもそもそんなシチュエーションに置かれることが日本にいたらない。だから分からない。

フランス語という全く聞き慣れない言葉のなかに埋もれて暮らすことは、違う星に住むようなものだ。
極端かも知れないけれど、それくらい何もかもが通じないし違うのだ。

そんなことを一瞬で感じた私は、胸の高鳴りが抑えられなかった。(抑えなくていいのだけど)
オギャーと生まれたての赤ん坊になった気分で、世界が変わって見えた。


ラザニアを買ったお惣菜屋さんでお店を出る時に、
「〜〜〜〜!」と言われた。なんて言ったのか分からない。とりあえず言われた言葉をカタカナに変換してみたところ、「ボナペティ」だった。

恥ずかしながらその言葉すら知らなかったので帰って調べてみたら(その時はまだSIMがなく外で携帯が使えなかった)

ボナペティ=bon appetit

直訳では「良い食事」という意味だが
「召し上がれ!」という意味で使われるらしい

なんてお洒落なことばなんだろう。
食材を購入したら召し上がれ!なんて言われる。

文化の違いといえばそれまでだけれど、心地よい気持ちとはこうゆう時に使う言葉なんだろう。それくらい私にとっては大きな衝撃があった。


海外に住むなら、現地の言葉は話せたほうがいい。
しかし、私のように言葉を知らない・話せないで行った人にしか分からない感動や刺激もあるということだ。それは短期だからこそ面白いと思えたのかも知れないが、それはそれでいいと思っている。

生まれたての赤ちゃんのように、知らないことを知っていくことは楽しくワクワクする。

パリ生活では、目の前の人が何を言ったのか、耳を澄まして目を凝らして日々を過ごしていた。そんな風に過ごしていると人はそこの暮らしのリズムを体の中から感じることが出来るということ。

それは旅では経験することがきっと出来なかった一つだっただろう。

日本に帰国し暮らす今、海外の人とお話しする時によくそのことを思い出す。

そしてこう思うのだ。私の日本語は相手にはどんな音で聴こえているのだろうか??

日本語を母国語として生きてきた私には、日本語を音として、感覚として聴くことは難しい。

それから私はたまに日本語も音として聴くようにしている。

そんな、言葉の意味を知ろうとしないで、ただただ音として耳に入れるその時間で私は時々赤ちゃんになったような気分を楽しんでいる。

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