動画の危険性
最近は動画でのコンテンツ配信が主流となりつつある。すでに「ググる」という言葉も死語になりつつあると聞く。調べ物をするときに初めから動画検索をする人たちが増えているというのだ。活字は人類が誕生してから最大の発明と言われてきた。活字が発明される前は口伝での伝承であったが、活字を挟んでまた口伝に戻りつつある世の中の流れというのがなんとも興味深いところではある。
動画はインパクトが強いため、次世代の発信ツールとして注目され、YouTuberなどという職業も生まれた。動画作成を生徒たちにやらせると本当に素晴らしい作品が生まれる。私からしたら到底面倒な作業だが、嬉々としてスマホをこねくり回している生徒たちの姿を見るといつも関心させられる。
動画に関してだが、私だけかもしれないが一抹の不安を覚えている。なぜなら、動画コンテンツは考える時間を視聴者に与えず押し付けてくるので、視聴者はコンテンツ内容に対して「絶対賛成」か「絶対反対」かに偏りがちである。つまり、いつの間にか配信側の意図するメッセージを鵜呑みにしてしまう。その結果、自分で考えずに自分の意見のように考えを発してしまうコピーロボットが生まれるのだ。それはファンというよりは信者である。
人は無数の異なる意見を戦わせ、吟味し、新たな知恵を育んできた。考える力というのは自分とは異なる意見を知り、考えることで磨かれていく。アメリカ時代から多くの人と意見を戦わせてきたが、自分自身をアップデートしてくれるのはいつでも自分の意見を論破してくれる意見だ。その時は嫌な気持ちになるが、振り返ってみると自分の意見を掘り下げさせてくれるのはそういう辛い思い、恥ずかしい思いをした経験の積み重ねである。
読書であれば自分のペースで話を読み進められるため、自分の意見を吟味する時間を得ることができる。議論だと論破された時に自分の心に大きなダメージを受けるという懸念のある人は本を読む方が良いかもしれない。
動画が必ずしも悪いとは言わない。私自身もYouTubeは好きだし、それにより自分の考えを正されたこともある。しかし、動画というのはそれだけのパワーを秘めているということだけは十分注意する必要があるだろう。何せ動画の世界は誰のチェックも受けていないコンテンツが垂れ流しになっている。そういう意識を持って視聴しないと、自分の頭が間違いだらけになりかねない。
私がどんなことを言っても、これからは動画の世界となることは否定できない。ひょっとしたらもっとパワフルなツールが出てくるかもしれない。しかし、いつの時代でも変革を起こす人間というのはトレンドを作り出せる人間だ。そして、作り出せる人間というのは自分がどっぷりその世界にはまるのではなく、客観性を持って物事を見られる人間だ。客観性を身につけることにより、この世界は多くの可能性を秘めていることに気づく。人生の多くの時間をその客観性を身につけることに費やそうではないか。
世界を旅するTraveler。でも、一番好きなのは日本、でも住みたいのはアメリカ・ユタ州。世界は広い、というよりも丸いを伝えたいと思っている。スナップシューターで物書き、そうありたい。趣味は早起き、仕事、読書。現在、学校教員・(NGO)DREAM STEPs顧問の2足の草鞋。