荻生徂徠と貨幣経済 先崎彰容『本居宣長』4
これまで(第1回・第2回・第3回)、本居宣長のライフヒストリーについての先崎彰容『本居宣長』の議論がめちゃくちゃであることをあきらかにしてきた。
先崎の本で宣長を知る人が増えると、宣長の生涯を探究した優れた先人たちの業績を台無しになる。新聞の書評もいくつか見てみたが無難なものばかり。一般むけの本なので、専門家による本格的な書評は出るのかどうか、さだかではない。
ということでどこの職場にも1人はいる思想史趣味中年男性ことわたくしが、ネットの片隅で注意喚起しているわけである。
さて今回はいよいよ先崎先生のご専門、思想史的な内容にふみこんでいく。まずは本書の中で宣長の前座として登場する、荻生徂徠について。
荻生徂徠。日本近世最大の儒学者。朱子学の徹底的な批判者にして、古文辞学の確立者。それとともに、『政談』を将軍徳川吉宗に献上して幕藩体制の建て直しを説き、儒教的な経世論の道を開いた。
その徂徠について、先崎は次のように書いている。
おや?という感じである。
というのも、「先王の道」の普遍性こそが徂徠の思想の核心だからである。古代中国の理想的な君主(=聖人)たちが創始した統治のための制度は、時代や国の違いを問わず、普遍的に妥当する。それが徂徠の考えだった。これは、近世思想史の常識だと思う。
現代人なら「そんなわけないだろう!」と思うかもしれない。しかしそれは徂徠に言わせれば、聖人に対する信が足りないのである。
教えが現在の情況に妥当しないなら、聖人ではない。徂徠ははっきりそう書いている。もし聖人の教えを聞いて「そんなわけないだろう!」と思ったとしても、まずは聖人を信じて学問しなければならない。
学者は、最初は納得できなくても聖人を信じなければならない。あたかも職人の修行のようにひたすら聖人にしたがい、その教えに習熟し、聖人と同一化しきったとき、はじめて聖人の教え(=先王の道)の普遍性・不変性があきらかになるわけだ。
だとすれば、徂徠が当時の日本で「独自の貨幣経済が浸透し、「先王の道」ではまったく説明のつかない日本に独自の人間関係の混乱がはじまっていた」と考えるのは、あきらかにおかしい。徂徠にとって、貨幣経済による人間関係の混乱を予見できないような聖人など、聖人ではないはずである。
じっさい、サントリー学芸賞を受賞した坂東洋介『徂徠学派から国学へ』は、「聖人は商人と市場原理との台頭を、一種の歴史の必然としてあらかじめ見越していた」と徂徠が考えていたと指摘し(同書46頁)、その証拠として、次の文章を引いている。
坂東によれば、ここで徂徠は自身が生きている近世中期の日本と、聖人たちが活動した古代中国を二重写しにしている。世の中が乱れて交通が不自由な時代には人々は土着し、農業が重んじられる。これに対し平和な時代が続くと人々が移動をはじめて交通が盛んになり、商業が重んじられるようになる。商業が重んじられようになると、悪知恵のある人が活躍するようになって、風俗が乱れる。それを見越して立てられたのが「先王の道」なのである。いうまでもなく徂徠の生きた近世中期の日本は平和が長く続き、商業が急速に発展した時代だった。徂徠はそのことに危機を覚え、『政談』で人々を土着ささせる必要を説いたのである。
やはり聖人は、貨幣経済による人心の変化を予見していた。その上で、貨幣経済を抑制し、できるかぎり統治体制が長持ちするよう、「先王の道」を説いたのである。
ということで、先崎の主張はまちがい。
ちなみに坂東洋介の本は先崎の本でも参考文献に挙がっている(あたりまえだけど)。ちゃんと読まなかったのかね。
非常に気になるのは、先崎が私たちとはまったく違う時代に生きていた荻生徂徠の思想の核心をちゃんと理解せず、「古代中国の聖人がつくった道が江戸時代の日本に妥当するわけないだろjk」みたいな、現代人の常識的感覚そのままで書いているように見えること。これは本書での本居宣長の読解についてもあてはまるように見える。先崎氏による思想的なテキストの読み方に、根本的な欠陥があるのではないか。
いずれにせよ、先崎先生は、専門分野であるはずの思想史についての知識すらあやふやであることが分かった。
まあ、あえて擁護すれば先生自身の専門は高山樗牛とかの近代思想らしいので、近世は勝手が違ったのかもしれない。
でもじゃあなんで宣長本書いたんだよ…
つづく?