先崎彰容『本居宣長』について 2
前回、宣長のライフヒストリーをめぐる先崎の説明のまちがいを指摘した。その後ちょっと気になって本居宣長「家のむかし物語」を原文で確認したところ(前回は孫引きですませていた)、いろいろと新たな事実がわかった。
結論からいえば、先崎の主張は、思った以上に酷いものだった。
ちょっと気になったというのは、本書の次の箇所。宣長の父・小津定利が急逝したあとの状況を記した部分である。
当時わずか十一歳だった宣長に代わって、家督を継いだのが、義兄の小津宗五郎(※定治)である。小津本家六代目として、宗五郎は、いわば中継ぎ投手の役割を引き受けた。生涯を小津家に捧げるために生きた宗五郎は、義父にあたる定利との関係も良好だったといってよい。もともと宗五郎は定利の最初の妻である清の連れ子であり、父・孫右衛門の死後に本家である小津家に戻った。実母も没したのち、定利と後妻との間に宣長が生まれると、彼の立場は微妙なものとならざるを得なかった。それでも義理堅い義父・定利は、あくまで宗五郎を跡取りとみなしており、宗五郎は江戸に赴いて別に家をもった。そして義父が死ぬと松坂に一旦は帰郷し、遺言にしたがい小津家を相続し生活を支え小津家への忠誠を誓ったのである。
しかしそれからほどなく宗五郎はふたたび江戸に戻り、名を改めた後も神田紺屋町に店を構え、独立の意思を示すことになるが、(後略)
宣長が小津家の家督継承者と見られていなかったこと、それゆえ兄の定治(宗五郎)を「中継ぎ投手」とする先崎の説が完全なまちがいであることは、前回説明した。ついでに言えば、この部分で定治の生母(清)が小津本家定該(定利の義兄・若死)の姉であること、父の孫右衛門が小津隠居家の人であることに触れないのは極めて不親切だろう。定清は小津本家の血を引く人間であり、その意味でも家督継承者の資格を備えている。先崎の書き方ではこうした重要な事実がまったく読み取れない。
気になったのは、「義理堅い義父・定利は、あくまで宗五郎を跡取りとみなしており、宗五郎は江戸に赴いて別に家をもった」という部分である。
跡取りとみなされていたのに別に家をもったとはどういう意味か?そのあとの「独立の意思を示す」というのは?先崎いわく、定治は「生涯を小津家に捧げるために生きた」のではなかったのか?
宣長自身によれば、真相は次の通りである。
かくて道樹君(※定利)、実子宣長を生み給へるによりて、道喜君(※定治)、本家の嗣たることを辞して、江戸に下りて、自力を以て、別に一家を創めんことを、しばしば請給へども、唱阿君(※宣長の祖父・小津定治[宣長の兄と同名])の孫にて、定めおかれし事を、かたく守りて、道樹君さらにゆるし給はざるを、猶しひて請ひて、つひに元文二三年のころ、江戸に下り、商をはじめて、本家の力をからず、みづからはげみとつめて、いく程もなく富をいたし給へりき。然れども道樹君、なほ本家をば、必此ぬしにゆづらんとおぼす心にておはしければ、同五年にかくれ給ふ時の遺言にも、かならず宗五郎(※定治)立かへりて、本家をつぐべきよし、のたまひおきしかば、やむ事をえず、寛保元年の秋、江戸より来りて、本家をうけとり、三四右衛門と称し給ひき。然れども松坂にはとどまらず、江戸にかへり給ひ、其後もかしこにては、なほ小津宗五郎と称して、神田の紺屋町の宅に住給へり。
内容を整理すると、
・定利とお勝のあいだに宣長が生まれたあと、定治は小津本家の跡継ぎの資格を辞退し、江戸に出て独力で新たな家を創めたい、と繰り返し述べた。
・しかし定利は、定治を家の跡継ぎとする先代の定めを堅く守り、定治の独立を許さなかった。
・しかし定利はあきらめず、ついに江戸に出て商売を始め、独力で富を築いた。
・それでも定利は本家を必ず定治に嗣がせるつもりでおり、死に際においても、そのように遺言をした。
・これには定治も逆らえなかった。定利の死後、定治は江戸から松坂に戻り、小津本家を嗣いだ。
・しかし定治はすぐ江戸に戻ってしまい、小津本家の継承者としての名前ではなく、小津宗五郎のままで通した。
おわかりいただけただろうか。というか、先崎の主張は、どこから突っ込めばいいのだろうか。
宣長が小津本家を嗣ぐ予定は無かったという事実がより強化されることは言うまでもない。定利は宣長という実子が生まれたあとも、養子である定治に家を嗣がせることに強くこだわっていた。それが先代の意思、つまり小津家という家の意思だったからである。
一方、定治が「生涯を小津家に捧げるために生きた」とか、「義父にあたる定利との関係も良好だった」とかいう先崎の主張も、完全なまちがいだとわかる。定治は本家を出て独立したがっていた。宣長が生まれたからというのは恐らく言い訳で、もともと独立心の強い人だったのだろう。
ちなみに以上の経緯は、宣長研究の古典である村岡典嗣『本居宣長』のなかに、簡潔に記されていた。
(父・定利が急死したあと)義兄の定治は、かねて宣長が生れた時、嗣子たることを辞したが、義理堅い定利は、之を許さなかったので、依然嗣子であった。
こうした事実を隠蔽し、捻じ曲げているから、最初に引用した先崎の文章は、はなはだ要領を得ないものになっていたのである。
前回と今回で確認した内容は、先崎の著書の第1章の前半、ページ数でいえば最初の40頁ほどに記された内容である。本書において先崎が提示する宣長像は、その出発点からして、重要な歪みをはらんでいることになるだろう。
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