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挨拶をしない人が増えている件について

このところ、寺の境内ですれ違った方に、こちらから「おはようございます」「こんにちは」といった声をかけても、素通りされることが増えた。

こちらは作務衣なので、見るからに寺の関係者である。
つまり関係者が声をかけても、仏頂面で華麗にスルーされる。
最初はエエッ?!と面食らったし、いまだに戸惑う。

、、無視ですか??と。

気になりだしたのは数年前からだ。

「位置ゲー」と総称される「Pokémon GO」や「ドラゴンクエストウォーク」などの位置情報ゲーム利用者が爆発的に増え、寺の境内にもゲーム利用者の滞在が目に付くようになった。こちらが挨拶するそぶりを見せると、バツの悪そうにしたり、そそくさと逃げるようにする方がいた。「参拝者ではないのに寺にいる」ことへの負い目のようなものもあるのだろう、そういった心情は解らなくもないので、声がけは控えるようにした。

そこへコロナ禍が追い討ちをかけた。屋外でもソーシャルディスタンスが励行され、通りすがりの人と日常の挨拶を交わすことも嫌忌されるようになってしまった。

それらの遠因があって、今である。

境内ですれ違う人ばかりではない。用事があって寺の中に入ってくる人でさえ、玄関をあけても「失礼します」や「ご免ください」といった言葉はかけず、呼び鈴だけ鳴らし、用件だけ(ご朱印ください、など)伝えるといった具合。

「挨拶をしない」人が増えている。それも加速度的にだ。

私自身の経験では、海外旅行先などで複雑な地域であればあるほど、治安がいいとはいえない土地であればある程、まず挨拶は、「私はあなたに敵意がありませんよ」のサインだった。互いの目を見て話をできることは、お互いの安全への架け橋となった。挨拶をできないことは自分の身を危険に晒すことだったし、挨拶は社会生活を円滑に進めるための初手だった。

寺で出会う人々は果たして挨拶をしない、のか、もしくは昨今のご時勢で対人能力が鈍ってしまって、挨拶ができない、のか。

日常の中に、何かゆゆしき事態が進行している気がしてならないのだが。



Text by 中島光信(僧侶)


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