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「世の中は不平等」であることは、「誰にでも平等」であるという話。(あたりまえに、どうもありがとう)

世の中は公平である。〇か×か?

就職活動を終えて、会社で働き始めたとき、営業部に配属された。営業部には同期2人がいて、当時花形の商品を扱っていた。周りからもかなり注目されていた部署で、当時は彼らのしごとの話を聞くことは非常につらかった。なぜなら、自分が担当していた商品は流行ではない、長年にわたってなんとなく販売が継続されてきた商品だったからだ。

そんな時、自分はよく「世の中は公平なのか?」ということを考えていた。大学生までに頭では築いていた事実は、社会に出ることによって、残酷なまでに自分に対し見せつけてくる。

そう、「世の中は公平ではない」という事実を。

「隣の庭はよく見える」とはよく言ったもので、20歳そこそこの自分は、とても落ち込んだ。自分は彼らと比べて、将来はどうなってしまうのか。なんてことも、結構真剣に悩んだりしたものだった。

ところがある日、同期の一人と話して驚いた。

「おれ、会社辞めようと思う。考え方が合わなくて。」

夕食を食べにいったレストランで、いきなりこんなことを言われたのであった。ずっと花形の部門で働き、はたから見ると充実した日々を送っていたように見えた彼は、なんと「この会社は不平等だ。おれにはやってれらない。」と思い、失望していたのであった。

隣の芝を眺めるなら、目の前の掃除をしよう

そんな出来事から、「世の中は不平等であることが、平等である」というきことを学んだ。先輩にその話をしたら、「人が人を評価することなんてできないのだから、世の中生まれてきた瞬間から、結構不平等でしょ?」なんて言われて、思わずうなずいてしまった。

確かにそうなのだ。別に会社だからというわけではなくて、世の中に生まれてきた時点で「不平等という事実だけは平等」というルールの上に生まれていたのだった。

「隣の芝を眺めうらやんできたじぶん」について、そんな話をしたあとに、急に恥ずかしくなった。なぜなら、本を読んだり、世の中について勉強していくうちに、一つずつ「汚れた芝のはなし」を知っていくからだ。世の中には10億人くらいの人が1日200円以下で生活しているという。そんな生活を想像したら、じぶんの生まれた芝がとてつもなく、ありがたく、いとおしく、大切にしたいと思った。

日本に生まれたという事実(もちろんつらい方もいるとは思うのだけれど、総合的に考えたら・・・)は、本当に幸せなことだと思うようになった。

そして、「隣の芝をみず、目の前の掃除をしよう」「じぶんだけじゃなくて、誰かのためにできることをしよう」とこころに決めたのであった。

普段忘れがちな、「あたりまえ」と「ありがとう」

コロナウィルスが流行り、遠方の友人から「元気にしてる?こっちは大丈夫だよ」なんて連絡をもらうと、涙が出そうになる時がある。友人や家族が自分を気にしてくれていることが、本当にうれしいのだ。そんなことを思っているときは、「世の中は不平等」なんてことは、どうでもよくなっていたりもする。

「世の中は不平等」ということだけが、「平等」なのだ事実。だから、いかに周りの人や、自分が持っているもの、生まれた時代、生まれた場所。そういったものから、いかに「あたりまえの大切さ」と「ありがとう」を探していけるか。これが人生において、幸せになるカギのような気がしている。

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