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君はサイコロなんて振らない

この文章はいつぞやに何らかのブログに書いたものを少し変えたものです。


ボードゲームで遊ぶことは祈りにも似ていた。

神はサイコロを振らないと言われてはいるけれども、未来を予見することが不可能である以上、ほんとうに神がサイコロを振っていようが、えへへ、実は振っていませんでした(ペロリ)などと舌を出して笑っている神というのがいるのだとしても、それは判別しようがない。それこそ神ならぬ僕らにとってはどちらも同じことだ。

「サイコロを使わないボードゲームもたくさんあるよ」

などと訳知り顔で彼女は言うかもしれないけれど、ここで問題にしているのはそういうことではなくて。
ゲーム内に予測不可能性を導入するランダマイザとしてのメカニクスがどうとか、ゲームエンジンについての考察はともかく、未来は予見できないことだけは確かであると、僕は辛うじて主張する。
すべての物事はすでに決定しているという「決定論」には立ち向かっていきたい。

「サイは投げられた」と部屋の隅のほうからまた別の誰かが言う。
もう投げられてしまったサイはアフリカの草原に帰っていく。

本当にサイは草原に住んでいるのだろうか?動物園のサイはよく水浴びをしているではないか。沼地に住んでいるんじゃないか?絶滅の危機に瀕しているのではないか?そう思って僕は慌てて調べたけれどもサイは草原にも住んでいる。やはり沼地も好むようだが、そしてやはりというべきか、残念ながらというべきか絶滅の危機に瀕していた。

僕が見た動物園のサイはどこか物憂げだった。とはいえ動物園にいる生き物たちはたいてい物憂げだ。唯一フンボルトペンギンだけは楽しそうだったが、無理してそう振舞っている可能性も否定できない。

「サイはそのサイのことじゃないよ。というかその間違いかたはサイがサイコロだということを知ってるからするわけで、それはボケとして成立して無い気がするよ」

などとまた彼女は言い出すかもしれない。

”ジャンケン”において、次に相手が何を出すかを確実に当てる方法は無い。そうであるならば基本的には、グーチョキパーのいずれを出しても勝つ確率は同じである。だとすればどの手を出しても関係ないだろうし、ジャンケンに強い弱いも無いはずだ。そういった点から、ジャンケンは公平な競技だと言える。

しかし彼女は異常にジャンケンが弱かった。


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