(2024/01/22更新)
TBSラジオ 「ほら!ここがオズワルドさんち」の2024/01/17放送分を聴く。畠中のフリートーク内、相方伊藤のビジネス泣きを論うさいの掘り下げと角度がめちゃ浅で、ラジオ評価落ち。
YouTubeはひなたのお正月動画で、三度考えを改める。以前アイドルは表で楽しみたいと言ったが、その態度は基本日向坂に向けるべきではなかった。多くのメンバーのプライベート動画に大なり小なり親族や地元の友人が登場する。公式の動画、それもYouTubeに、という点に主張を感じない訳にはいかない。
櫻坂のチャンネルにも全く同じ趣きの動画が投稿されており、同様にプライベートが共有されていた。現実は、こういう共有可能なプライベートも含めてアイドルと認めるものなのかもしれない。
また記録しなければならないのは、動画中ににじみだす彼女らを取り囲む人間関係や保有資産、行動原理を目の当たりにしたときの内心。どうしても翻って私をやらざるを得ない。
MBOによって中長期的施策を講じられると言うが、人はひとりで競争意識を保てない前提に立つと、株式会社までSNS社会の早い消費サイクルに取り込まれるのではないだろうか。つまりMBOによって経営陣が市場から株式をあつまれしたら、次は経営陣は会社が傾く前のいいとこで売り抜けたいモチベーションが強まるだろう。売り抜けたら経営陣は変わって、じきに消滅、という流れを思い浮かべた。
経営陣がMBOを実施して、大義であるところの「中長期的施策を講じて株式市場に晒されるより企業価値を高めていきたい」経営を続ける動機はどこにある?株式市場から去ると言うことはすなわち競争から逃れる意味をもつのでは?「人は競争原理によって(資本主義にとって都合の良い)成長をする」という常識は根強い。
詳しく当たりたい。
以下、YouTube日向坂ちゃんねるの動画「【特別編】富田、自動車保険に入る」に投稿しようとしてやめたコメント。正確には、投稿して削除して修正してを3回繰り返したのち気持ちが悪くてやめたもの。
ひとつ、赤飯を祝いの象徴として持ち出すのは、2024年現在ややセンシティブな可能性
推しのイノセンスを知ってるから全然見逃せるけど、外で狩りにあうの可哀想だから
こういう発想こそマウント仕草の嫌がらせか
コメントで教えてあげるってのも陰湿で古典的なオタクのやだみがある
一方でコメントが常に礼賛ほんわかしか許さない空気も怖い
長々やるのがSNS不適合な気持ち悪いじじい
2024/01/20記す。中学時代に買ってもらった『もしドラ』を今初めて読了する。ドラッカーのマネジメントが組織運営に有用なことがわかった。
物語の縦軸で描写される野球のリアリティについて、パワポケ1の極亜久高校よりぶっとんだ飛躍にまったく没入はできなかった。またあとがきで、筆者は本書を小説と呼んでいたが、私の知る小説の読後感を構成する、登場人物が醸す'えもいわれぬ'空気感やそこからドライブする物語の道行、豊かな語彙といった楽しみはなかった。私にとってこれは小説ではない。
ドン・キホーテのBGMに使われていると俗物なイメージにならざるをえない
気づくと文章で記述するのはマイナスの感情が多い。無理もない、そういう生活だから。
はてな匿名ダイアリーにて、加齢で10代から趣味のゲームに疲れ始めてアイデンティティクライシス!と訴える30代の人。
コメントでは、
限られたリソースを「ゲーム好きの俺」を守るために浪費し続けてるのに気づけよバーカ
年齢に相応しい趣味持て
ゲームが楽しいんじゃなくてゲームを通して広がる人間関係に価値を置いてるのに気づかずいい歳して界隈に身を置くのに肩身狭い苦痛を感じだしただけだろ
いつまでも切れないのは愚か
好きなの選抜して周回すりゃいいんだよ
新しい刺激を得る機会を損してる
など。砕けた表現多数、ネット居酒屋の雰囲気。
この手の表面上では明らかに馴れ馴れしく、欲深で暴力的なネットコメントコミュニケーションには慣れず、嫌い。なんて断定的なんだろうな。趣味に年齢とか持ち込むの基本古くない?モデルルームみたいな部屋の清潔が最上の価値観の、福本伸行にプロップスを捧げにいく人らだ。自分に素直な魅力はあるけど、何せ個別具体を言い聞かせすぎたパーソナリティの卑小さがあくどい。真に受けすぎか。
新しい刺激を得る機会を損してるに関して、よく言われる割にピンとこない。新しいもの好きってそんな圧倒的メジャーか?広告や啓発文句のビジネスロジックに、それこそ本心を侵食されていないか?私はたとえばゼルダの伝説でも、冒険に出る手前のグラウンドで草刈りしてルピー稼ぎする時間や装備を調える時間が安心で心地よかった。
新しい経験をしまくる利益と、知ってる経験をしがみ続ける利益。後者より前者の方が明らかに優れた行動で選べば誰でも得をする、とは言えない気がしている。レッドオーシャンブルーオーシャンみたいな理屈と本人の性格から得られる幸福度の観点から。
なんで読む気湧かないんだろう
怠惰かな
なんで運動できないんだろう
自我と身体が隙間なく引っ付いて、一体化していて、欲望主導になるのかな
快楽
薦められた娯楽を積み上げちゃう決まり悪さはニューヨークのニューラジオでも出てた
最近になって自覚したことの一つ。
対人において、怖いことに、相手に気を遣わせることにあまり抵抗がない。ここでいう気を遣わせるとは、私に対して積極的に近寄らせないが、かと言って全く無視はできない距離感を押し付ける意味だ。なぜ抵抗がないかというと、気を遣わせる対価より自分を優先したいからだ。
敬遠されたり笑われなかったり怒られやすかったりするなど、相手に気を遣わせることで支払う対価というのも、人と群れたくない性格から比較的価値が低く見積もられてしまっている。
しかしその代わり私も気を遣う。気を遣った方が正しいとさえ考えている。いわゆる儀式らしい、よそよそしい振る舞いに好意的だ。
他方で、サッカーアジアカップグループリーグ初戦ベトナム戦の舞台裏動画で、ベンチの三苫が後半開始前、選手の目を見て一言かけて送り出していた。良いなと思った。こういう献身が正解な場所、場面もある。しかしこういう行動も、気を遣わせる性格と矛盾をきたさず両立可能だけどな。
明けて2024/01/17 2:02記す。2024/01/16、誕生日。鰻弁当とショートケーキをいただく。彼らのために作ったワカメとしじみのインスタントスープは、気を回して彼女の食器も使った3杯分を作っていたので自然と余ったそれを食った。鰻で満腹になり、半分しか食べられなかったことを悲しんだ彼女を思い出した。胃が小さくなっている。リビングで空間を共有する労に対して、「付き合わせちゃってごめん」と、一聴すると慇懃無礼な言葉を差し出され、気を遣われる。気を遣わせているのは大きな事実だが、一方で「気を遣わされているんだぞ」と暗黙裡の反抗によって現実は緊張し、釣り合って崩壊を免れている。死んだ方がいいのかな。自分でもなんでこんなに仮死状態が続いているんだろうって不思議だ。いや、不思議ではない。中3の体育祭、マスクを外すのが嫌だから仮病を使って休んだ日となんら心は変わっていない。ランダムのようで規則的だった木目模様の天井をした和室に、来客用の布団を敷いて寝た。不安とやましさ、それよりも手前の安堵は甘くて美味かった。今も大甘党だった。ずっと怖がったままだ。やはり無責任だ。私の誤りはまず、日常的な挙動から思考からすべてが、必ず私以外の誰かか何かに根ざしていること、それとそれを止めないことだ。
幼稚園保育園生〜小学生、身体障害者、塾講師で指導する相手生徒などにカテゴライズされる人に対して、対人関係における安心感を抱くのを確認する。これは他でもない、自分より立場が下とみなした人に安心している心理が働いているとしか言いようがない。
立場が同等、もしくは上と判定した人、例えば金持ち、企業社長といった世渡り上手、弁舌に長けた人や内省を繰り返すような思慮深い人、一方的に知っていて尊敬する人には安心感は抱かない。劣等感やスペシャリティと安心が対になっている。
他人より自分を曲げられずに私のような無口で空虚な人間を煙たがりまくるやかましい人、品性に欠けると判断した人などは、生理的に好かず近寄りたくなくなるので上下認定とは別の反応から遠ざかる。
500万回再生される、両足を切断している若くて美しい女性の車椅子生活を伝えるYouTubeを6分弱みたところで確定した。以前からなんとなく勘づいてはいたものの恐ろしくて見て見ぬふりをしていた性を、この動画を機にいよいよ認めざるを得なくなった。
木村昴
ぱーてぃーちゃん
インディアンス
蛙亭
さまぁ〜ず特に三村
テンションが
下がる
2024/01/14記す。今週のkwannはまだ聴いていない。いよいよ1〜2ヶ月後かに大イベントがある。
彼らは変わっていないと言い、実際イズムやアティチュードはブレていないんだろう。しかし環境は変わり、リスナーも変わった。体感ではこの番組によって、特にバラエティ界でラジオパーソナリティをステータス扱いする認識が通用するようになり、呼応してリスナーも明るくなった。運営はグッズ販売やリアルイベントなど、番組広告以外で収益を上げるモデルがハマると楽しそうだ。
どこかで、確か、ゲスト回で、星野源が2010年台前半あたりを回顧して、各局が旧態依然とした競争aka対立関係にあるのを憂いて、ラジオこのままじゃやばいと思ったと言った。
とくにこの1年は総合的に番組がより労働者向けに放送されたように感じる。
あるSNSの投稿で「エレファントカシマシは今やサラリーマン応援バンドに成り変わった」と喝破するのを見て、鮮やかだった。それを思い出した。
聴くのをやめるタイミングなのは違いないけど、一方で何年も聴き続けているのをここでやめるのはなんか勿体ない、みたいな功利な気持ちもうっすらある。継続する趣味で社交性もある数少ない手札の意味で。今のわたしにとっては、惰性を肯定するばかりで全く悪玉な考えなんだけど。
「齊藤京子とかとしのPlastic Loveが坂道カバーでベスト級」というSNS投稿を見て、まずYouTubeで2年前に公開されていた竹内まりや公式のPlastic LoveのMVを再生した。
お里が知れるようで恥ずかしいが、私はドラマ仕立てのミュージックビデオをあんま見られない。実写ドラマのような映像が始まるMVにまったく興味が湧かないで、ほとんど画面は見ずに曲を聴くためだけに再生する。
元々映画やドラマを定期的に見ないたちだからだとも思うが、ドラマMVが始まると、なんだか音楽が映像の付属物として後景化するようで、それが個人的な嗜好にそぐわない。視覚情報のほうが聴覚より強いから本末転倒を起こす。だから静止画で音楽だけ流れる、チャンネル名「◯◯(ミュージシャン名) - Topic」の投稿が好み。
またドラマMVには、例えば車のドアを閉める音や足音といったノイズが(意図的に)乗っかったり、曲が止まってMVだけ進むなどMV用に曲が改編されたりして、それが一番萎える理由かもしれない。
コメントを見ると当然MVを楽しめる人ばかりで、だから否定されるに違いないが、実写ドラマMVに割くカネがあるならそれを全部曲のクオリティのために使ってほしいなぁなど妄想する。
さらにフェチを言えば、音楽のビジュアライズはドラマに昇華するのではなく、静止画一枚絵に込めてほしい。そんな主義を言ってるミュージシャンがいたらどんなジャンルでも絶対一回は聴く。
MV撮影が映像作家にとってのキャリアの叩き台みたいな、そういうエコシステムの存在も聞いたことがあるけど、実写ドラマMVより音楽の方が好きなので知ったことではない。
音楽のドラマ化は、プロ同人問わず、二次創作的なよりピュアな動機で出来上がる作品とかならまだ興味深い。私からすれば、そういう音楽主導の映像こそがミュージックビデオと呼ぶにふさわしいとは思う。今回のPlastic Loveはそれに当たるが、正直あんま分かんなかった。目が養われない。
2024/01/13記す。フューチャレ目当てで見たYouTubeにて、お寿司が自ら日芸写真学科3年生とプチ暴露。
どことなく、羨む心がむくむくわくのを察する。今まで知ってたアイドル像に加えて、芸術を学ぶ学生という肩書きを並行する心身健康的に見えるキャリアに妬いたものとみられる。
ないものねだり。入学時分の内心を思い出せと。置かれたところで酒と。それに私のないものねだり、片手で煽げばたち消えるくらいの大したものでもないしやな。
せいやのオネ牛、オールナイトでは変な牛!って粗品が突っ込んでて、だろうなと。
2024/01/15追記。しもふりチューブ最新回でせいやが言及。「地上波でオネエって言えないらしい」に、粗品合いの手「オネエの牛!っておもろいけどなあ」。過渡期。
2024/01/12記す。きのう、ハライチ岩井の19歳女性との結婚を話題に、「公の場とプライベートの場で適切な意見は異なる」と述べるブログ記事を読んだ。
記事中で筆者は、SNSで道徳的正義を説く知的層のスタンスにやや辟易しているとも。
線引きは曖昧だが、しかしSNSは公でも私でもある場所だし、「それ言って何になるの、道徳で議論を無化する意見だから何も言ってないのと同じ」みたいに道徳厨のつまらなさを愚痴っていた印象。
なるほど、話す場所で適切な意見が違うと断定されると反省する。怒られたくない性格から、正しさを無意識に求めていたかも。
ただ個人的には、ことこの話題に関しては、ネット上で素直にキモいと言う人に対して、道徳を標榜して批判、啓蒙するような意識は全くなかった。
筆者の言った、飲み屋で話す「19歳キモくね?」と言う正しさを、本当によく理解できないのだ。13歳時に仕事で出会った19歳の相手と結婚する男のキモさに無自覚だ。
芸能人の欲どしい性格や肉肉しさは、オードリー若林の26歳女性との結婚報や、いつかのオールナイトニッポンにて彼の話芸で切り取った「芸能界は折あらばスタジオで脚見せるやつらの集まり」みたいな言などから、既に織り込み済みだった。この結婚報で妄想される岩井の自己中心的志向は芸人としての魅力と表裏をなすだろうし、支配的欲望やロリコン性向にはそらそうやろうなくらいにしか感じられなかった。
もうちょっと言うと、性欲というカテゴリの中で、社会的にキモい性欲と別にキモくはない性欲が存在するのにも、少し戸惑いがある。私にとって性欲はなんでもキモくて、でもどうやら仕方がない欲求と学んだからキモくはないもの、という認識できてしまったからだ。
正常位や後背位は見慣れたポップス、スカトロはあまり馴染みのない民族音楽として、ポップスはキモくないが民族音楽はキモいとはならない。見慣れてるけどキモいはキモいし、見慣れないからキモいわけではない。見慣れないからウ-ワ……とはなっても、それは見慣れてるのと同様に性の炸裂ぶりがキモい。
一応、例えばレイプや売買春はキモいではなく暴力であり悪で罪。キモいとは話が違う。
アトロク2でsaku yanagawaの2023年アメリカ検索ワードランキング紹介。
アメリカで流行っているらしいBE REALという不意打ちを受けて撮影しないといけないSNSに本末転倒感、と宇多丸。
確かにとは思うが、しかし若者にとってのSNSは、もしかしたらインフラとまでは言わないまでも、社交はもちろんアイデンティティの確立に重要な舞台なのではないかとも考える。
バキ童こと春とヒコーキぐんぴぃが「なぜ恋愛をしないのか」との問いに、「失われた時を求めて全14巻、面白いのは分かっているけど、今読めますか」と答え、X上でその知性が評価されているらしい。私は『失われた時を求めて』を漫画か何かと推測するほど、なにも知らなかった。
自分の書いた文章をアップロードした後、スマホを触る頻度で定期的に反応があるかどうかを見にいく癖がある。愚かしいから止めたい。いよいよそういう人生になってしまう。
2024/01/11 11:50、西武ライオンズは山川の人的補償に和田毅の指名を打診していたという西日本テレビの記事。以下一部抜粋。
結局、18:40現在LINEニュース速報で甲斐野央投手を指名したとの報。プロテクト名簿から外れてたから打診したけど断れたってこと?フィジカル情報とか年俸とか詳細聞いて辞めたみたいなこと?打診ってのは決定前、選択段階の指差し行為って意味なのかな?
2024/01/12 1:27追記。日刊スポーツ記事「ソフトバンク山川の人的補償、異例決着の舞台裏 西武は和田毅打診も反響など鑑み急きょ方針転換」 [2024年1月11日22時11分]を読む。
以下に一部を抜粋するが、思ってたんと違うアクロバットな理由で、なぜかルールを反故にできてしまう点で日本の野球界らしいっちゃらしい。
勢力均衡ベースで各球団が完全な競争関係にないからこそ起こるプロレス技とも。あるいはホークスファンを始めとする市民パワーは革命を起こせて、ルールさえ凌駕するほど評価されているという見方も可?昭和時代のおおらかさを感じた。
未来の統治者はどうか優しくあってくれ。尊敬される学校教師のように、理解しがたい価値観を持つ人間にも優しくあってくれ。
(一部敬称略)