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浅草・老舗の旦那衆のまえで宗兵衛を語る

  東京浅草ロータリークラブの老舗の旦那衆のまえで「世界に雄飛した京薩摩の魅力を探る」というテーマでお話させていただきましたのでその概要を紹介します。

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  私は京都粟田焼窯元であり ました錦光山宗兵衛の孫の錦光山和雄と申します。本日は「世界に雄飛した京薩摩の魅力を探る」というテーマでお話させていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

  まず最初に京焼についてですが、京焼といいますのは、色絵陶器の大成者であります野々村仁清の御室焼、尾形乾山(けんざん)の乾山焼、清水焼などいくつか窯があったのですが、寛永元年(1624年)に窯が築かれました粟田焼が登り窯による本焼焼成では最古のものと言われております。


  粟田というのは、京都東山の三条通りの白川橋から蹴上にかけての一帯で、現在ではその面影はまったくないのですが、平安神宮にいたる神宮道(じんぐうみち)の右側に約5000坪の錦光山の工場があったのであります。余談ではありますが、神宮道に面したところに平安殿という和菓子屋さんがありまして、そこのご主人が粟田焼を偲び、「粟田焼」という和菓子を製造しておりまして、その包装紙のなかに明治16年頃の錦光山商店の店舗の絵が描かれております。今では「粟田焼」というと焼物ではなく和菓子を思い浮かべるようになり今昔の感をつよくいたします。

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  少し話がそれましたが、粟田焼は門跡寺院・青蓮院の庇護の下で古清水という色絵陶器を焼いていたのですが、将軍家御用や禁裏御用、大名御用などの窯元がおりまして、18世紀には京都で最大の窯場となりました。いわば伝統と権威を誇る旧守派の牙城であったわけであります。
  19世紀になりますと、清水焼・五条坂が磁器の技術を導入いたしまして、新興勢力として台頭いたします。そうしたなかで、五条坂は、文政6年(1823年)に粟田の土を買い占め、職人を引き抜き、粟田焼似よりの高級色絵陶器を作るに及んで、粟田と五条坂の間に大抗争が起こり、焼物問屋を味方につけた五条坂が勝利して、粟田は手痛い打撃を被ったのです。
  錦光山も、粟田焼の有力な窯元のひとつで、創業は正保(しょうほ)2年(1645年)、二代鍵屋小林茂兵衛の時に将軍家御用御茶碗師になり、錦(にしき)のように光り輝く陶器を作っておりましたので、将軍家から錦光山の号を賜ったという話であります。
  ところが、錦光山家も、五条坂との抗争によりまして窮地に追い込まれ、肖像画にございますように、私の曾祖父の六代錦光山宗兵衛は、コンロを製造しておりました丸屋長兵衛と15歳で養子縁組をして、なんとか将軍家御用御茶碗師を維持しながら幕末を迎えます。

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  明治維新になりますと、東京遷都がありまして、天皇家をはじめ有力な公家、官僚、実業家が東京に移り、大口需要家を失った京都の街は火が消えたように衰微いたします。
  六代宗兵衛は将軍家御用御茶碗師の地位を失い、大口需要家がいなくなり、頭を抱えておりますと、明治初年のある日、一人のアメリカ人らしき外国人が店にやって来たそうであります。
  六代宗兵衛が壺を見せますと、その外国人はいきなり足で壺を蹴ったそうであります。通訳などおりませんので、六代宗兵衛が手振り身振りでその訳を尋ねますと、当時はフノリを使ってボテと描きますので、精緻な描写ができずに、どうもそれが外国人の気に入らなかったようなのであります。
そんなことがありまして、六代宗兵衛は釉薬の改良に取り組み、明治3年に「京薩摩」という精緻な採画法を開発いたしました。そこで、神戸の外国商館に行き、明治5年に京焼としては初めて外国貿易の端緒を切り開くことができたのであります。
  その頃、ヨーロッパでは、慶應3年(1867)の第二回パリ万博で日本の浮世絵や薩摩焼の錦手などの陶磁器が大きな衝撃を与え、日本文化を愛好するジャポニスムが一世を風靡しておりました。その波に乗って、京都の陶磁器輸出は急増していき、京都を復興に導いていったのであります。
  なお、パリ万博で薩摩焼の錦手が大評判となったことから、欧米では、金彩を使った日本の錦手の陶磁器をSATSUMAと総称するようになりました。その結果、日本では鹿児島の薩摩を本薩摩、京都の錦手は京薩摩と呼ばれるようになったのであります。
  19世紀後半は万国博覧会の世紀といわれ、明治6年のウィーン万博、明治9年のフィラデルフィア万博、明治11年の第三回パリ万博と開催されまして、京焼も順調に発展していきますが、製陶家が雨後の筍のように乱立して、やがて粗製乱造に陥り、明治17年の不況期には「粟田の陶業もほとんど廃絶に帰せん光景」となったのであります。


 私の祖父の七代宗兵衛は、明治26年(1893年)のシカゴ万博に「色絵金襴手双鳳文飾壺を出品したしました。その作品は、今日では京薩摩の最高傑作の一つとも言われておりまして、東京国立博物館に収蔵されておりますが、シカゴ万博では予想外の低評価であり、また京焼全般も振るいませんでした。
  このシカゴ万博で受賞したのが、江戸浅草生まれの彫刻家・高村光雲の老いた猿の木彫「老猿(ろうえん)」でございました。高村光雲は浅草で長く暮らしたようですが、「幕末維新懐古談」という本のなかで、彰義隊と官軍の戦争があるというので、心配して知人の職人を訪ねていきますと、シュッシュツと鉄砲玉が空中を飛び交っているなかで暢気に飯をたべていたなどと、当時の浅草界隈のことがとても生き生きと描かれていています。ご興味があればお読みください。

 シカゴ万博だけでなく、明治28年(1895年)に京都で開催された第四回内国勧業博覧会でも京焼の凋落が著しく、宗兵衛は危機感を抱きます。
宗兵衛は、京都陶磁器商工組合の組合長であったこともあり、京焼の近代化を目指して、京都陶磁器試験場の設立に奔走し、明治29年に設立にこぎつけました。ところが、当時は釉薬の調合などは祖先以来一子相伝の秘法だということで、陶家がまったく寄り付かず、閑古鳥が鳴く有様で、改革は思うように進展たしませんでした。
  こうした危機的状況のなかで、明治33年(1900年)に、宗兵衛は、京都商工会議所の海外視察団の一員として、(第五回)パリ万博の視察に行き、そこでアール・ヌーヴォーが全盛なのに大きな衝撃を受けます。
  と申しますのも、アール・ヌーヴォーというのは、釉薬技法と意匠が一体となっていて、ただ単に図案や絵付けを変えればいいというものではなく、新しい釉薬技法を開発できなければ、世界から取り残され、日本の窯業が壊滅的な打撃を受ける恐れがあったのです。当時、釉薬技法などの窯業技術は最先端技術であったのでございます。
  宗兵衛は、京都陶磁器試験場の藤江永孝とともに、ドイツなどのヨーロッパの窯業地を回り、一年後に帰国します。帰国した宗兵衛は、最新の窯業技術を身に着けて来た藤江永孝とともに、新しい釉薬技法の開発に取り組むとともに、洋画家の浅井忠などと意匠研究団体「遊陶園」を結成し意匠・デザイン改革に取り組みます。旧態依然のデザインからの脱却が図られます。
  こうした改革の結果、パリ万博の3年後の明治36年(1903年)に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会で、宗兵衛は棕櫚の葉を器面に巻き付けた、透かし彫りの花瓶を出品します。それは日本で最初のアール・ヌーヴォーの花瓶でございました。下の写真の右側の作品です。

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  そして明治43年(1910年)にロンドンで日英博覧会が開催された頃には、釉下彩、結晶釉、マット釉、ラスター彩などの新しい釉薬技法の開発がほぼ完成の域に達し、多種多様な製品が製作できるようになります。
この結果、日英博覧会での売上金額は、錦光山が328ポンドとトップで2位の有田の香蘭社の212ポンドを大きく引き離すまでになります。
  余談ではありますが、日英博覧会に出品され銀賞を受賞いたしました、宗兵衛の「菊模様花瓶」が現在、迎賓館の和風別館・游心亭の大広間の床の間に飾られております。機会があればご覧なっていただけたらと思います。
この他にも、日英博覧会に出品された作品で、私が天才的絵師と考えております素山が絵付けした「色絵金彩山水図蓋付箱」がロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に展示されております。冒頭の写真です。

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  このように錦光山は多種多様な製品を作ってきたのですが、京薩摩の魅力の一つといたしましては、職人の匠の技にあると思います。それはただ単に絵師の絵付けの技だけでなく、窯を炊く窯師の技をふくめまして、現在では再現不可能な超絶技巧と称されております。
  ただ、錦光山は最盛期には年間40万個も製造しておりまして、累計では数千万個ほど海外に輸出されております。このため、逸品が大量に普及品のなかに埋もれてしまっております。
 下の写真は、陶画工という職人たちが普及品を絵付している写真でございます。錦光山には、こうした陶画工とは別に、下の下の写真にございますように、絵師がおりまして数週間、数カ月かけて絵付しておりました。こうした逸品が今日、美術品として内外の美術館で収蔵・展示されております。

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  日本では京都の清水三年坂美術館で明治の工芸が多く展示されております。清水三年坂美術館の村田館長は、村田製作所の専務でニューヨークに駐在していた時に、浅草の老舗の高級パイプメーカーであります柘(つげ)製作所の柘(つげ)会長と同じように、根付の魅力に魅せられて、明治の工芸の収集をはじめられたそうであります。また名古屋の横山美術館さまも明治期の陶磁器を収蔵・展示されております。
  これまで縷々、京薩摩についてお話してまいりましたが、実は、私はロンドンに行くまで京薩摩にはほとんど関心がありませんでした。当時、私は和光証券、現在のみずほ証券に勤めておりまして、ロンドンに駐在員として、現地の機関投資家相手に日本株営業を担当しておりました。
  そんなある日、お客様の一人に、今度クリスティーズで日本の工芸品のオークションがあり、そのなかに錦光山も出品されるので見に行かないかと誘われたのです。私は錦光山と言っても、すべて過去のことだと考えておりましたので、正直、いまだに錦光山の作品がロンドンで流通していることに驚きました。そして、その時、いつか錦光山の足跡をたどりたいと考えまして、いろいろ調べまして、拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝」として出版いたしました。もしご興味があればお読みいただきたいと思います。

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  今回、先程お話しました高村光雲や超絶技巧の漆芸家・柴田是真の縁(ゆかり)の地であり、今日でも匠の技が生きております浅草で、京都の匠の技をお話できましたことに心より感謝いたします。
  どうもご清聴ありがとうございました。

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  さすがに浅草であります、高級パイプメーカーの柘製作所をはじめ、神輿の宮本卯之助商店、駒形どぜうなど匠の技の老舗の旦那衆がおられ、それらの方々とご縁ができましたことに感謝しながら浅草名物の亀十のどら焼きをお土産に買って帰路につきました。

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