「許容できないこと」を許容したら、
「理不尽なことが受け入れられるようになったら大人になったってことだよ」
かつて某通信社の地方支局にいたとき、上司に言われた。(某通信社には好きな上司が多すぎて困る)
24歳くらいのこと。
そのころは「そうだろうなー、いやこれは難しいことだな」という感想しかなかった。なんというか若気の至りという言葉では括れないほどに増長していたので。自己が肥大化してしすぎていたので。
触れるものみな傷つける勢いで走っていたし、「理不尽」や「不平等」や「偏見」や「犯罪」という言葉を本気で駆逐したいと思っていた。
何よりそんな狂気じみた自分を「ワイ、バーサーカーみたいな状態だけど年取ったらもう少し冷静になれるのかしら」と傍観者っぽく見ていた自分が今でも怖い。
そして社会人生活もだいぶ長くなり、
もう若くはなく中年です。おばさん。
結論
「あのころ許容できなかったことは、今も許容できないまま」です。
全く妥協できる気配がない。
バーサーカー街道をばく進中
「話している内容に筋を通せ、軸をぶらすな」
「あれっ、約束は守るものですよね??」
「感情ではなく根拠をベースに提示してもらえないと納得できないす…」
「分からないからって笑ってごまかさないでほしい。対話から逃げないで」
「メディア媒体および情報の取捨選択の権を他人に握らせるな!」
さすがにもう、理想論だという認識は強いほど持っているけれど
言葉にするかどうかは別として、こういう意見を持ってしまう私です。
やっぱり理不尽なことは承諾できませんし、
不平等や偏見というものが(その定義には正解がなく、ただの価値観の押し付け合いになる可能性が高いことは痛いほど理解している)少しでも減っていくような環境を促すコンテンツを作っていきたいと考えてしまって、
妥協できず
ゆがんだ理想を抱えて大人になれないまま、
精神的な成長もできないまま。
唯一、「それでもいいか」を許容した
なので、「許容できない自分」だけ許容することにした。
自分のみを優遇し、棚に上げる。究極のえこひいき。
「ま、納得できないんだからしょうがないよね。自分不器用ですから」。
というか、そこまで自分の根っこ(信念)折り曲げる生活って苦しいだけじゃない?息できる?
という疑問が涌いたので、
「大人になれませんでした」
というどうでもいい報告で終了します。
(追伸:そのおかげでとっても元気になりました)