「多様性」は身をえぐるほど鋭い言葉になることがある
性別、人種、職業、居住地、国籍、障害の有無、言語の違い、見た目の違い…。
いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと。これが最近よく聞く多様性(ダイバーシティ)の基本的な意味。
もちろん、それは文脈によって「女性進出」を指す際に使われる指標であったり、「障害の有無に関係なく権利を行使すること」「特性(考え方や長所・短所)の違い」を指すこともあったりする。
ようは、自分の存在するコミュニティや共同体において、自分が見聞きしたことがないもの、想像したことがないもの、自分には存在しなかったものを受け止めて相互補完しつつ「みんなでうまくやっていこう」という話だと思ってます。
思ってました。
知れば知るほど気付く「多様性」のダークサイド
例えば、私の腕は枯れ木(みたいな感じ)なので、重たいものは腕力のある人に持ってもらうことがあります。ノートパソコンもずっと持ち続けるのはつらいので、カフェでパワポつくるとかオシャレな仕事スタイルには未達です。
一方で、毎分毎秒が締め切りの通信社での勤務が長かったせいか、話を聞きながらささっと記事の企画・構成を脳内で組み立てることができます。また、要人との「オフレコ取材」も多かったので、1時間程度の会話なら暗記できます。これらは私の強みだと思っています(どこで役に立つのかよく分からない)。
そんな感じで私1人の中にも多くの凸凹があります。身近には「多様性」がごろごろ転がっている。
なのに、
この身近に転がっている「多様性」に対する社会の雑さはなんなのかなと。「多様性を尊重する社会に」とか「企業理念は多様性を生かすこと」とか格好いいフレーズを聞くことが増えた割には、雑。
国籍とか性別とか、「国もちゃんと力入れてやってまーす」みたいな旗が見えるものとの扱いの違いはなんなのだろうなと。(これも掛け声だけで解決に進んではいないとは思いますが、問題意識として無理やり俎上に載せてる感じはある)
丁寧に扱われる「多様性」、雑に扱われる「多様性」
「多様性」ってそもそもマジョリティーもマイノリティーも関係なくやんややろうよという未来志向系で使われることが多いのかなと思っていた言葉だったんですが、どうも最近
マジョリティーな「多様性」
と
マイノリティーな「多様性」
が分かれて使われている気がしてならない。
野球の一軍と二軍みたいな。
一軍は国や世界やら公的機関やら有名ロックバンドやらが旗を振って訴えかけているもの。
これを平然と無視すると自分もマイノリティーになってしまう可能性があるので、「世間の目」を気にするお国柄では丁寧に扱うことになります(何度もいうけど実態は別)。
そして二軍は、雑に扱われている気がするもの。道に落ちているさまざまな大きさや形の石のイメージです。一人ひとりの性格にも近い細かいもので、例えば…
■とても綺麗な字が書ける。一方、時間がかかる(効率的ではない)。
■チーム内のムードメーカーとして必要な存在。一方、資料作成でミスをする可能性が高い。
■誰も思いつかない企画をひらめき、実行することができる。一方でルールを守るのが苦手(遅刻や納期破りが多い)
この性格や特徴・特性、価値観といったマイノリティーな「多様性」は、マジョリティーな「多様性」と比較すると、多種多様に過ぎます。
人の特徴・特性は全世界に生きる人間の数だけある。だから、すべての「多様性」を社会は相手にすることができないジレンマを抱えています。
ルールや規律、果ては「努力」というモルタルで塗り固める
「この人の能力、どこでどうやって生かせばいいのか」
企業や組織は悩みます。だって、数字(売上)や効率化を重視する方向性からすれば、この問いすら不必要となるからです。
そこで組織や共同体は、人をふるいにかけてある程度共通項が揃っている「多様性」を採用します。
「これはルールだから守ってください」
「以前指導した通りの手順で作業してください」
「他の人はできるのだから、あなたも努力すればできるはず」
と、均一化が始まります。凸凹をモルタルで塗り固め始めるわけだ。
対応しきれないから。共同体のためにはこれが正しいはずだと。
でも、
モルタルで塗り固められてしまった人は
息できないから、窒息してしまうかもしれないんだよな。
「とても綺麗な字が書ける」。たとえ道端の石のように小さいものでも、それが、その人の誇りだったとしたら。
「多様性」という概念のじゃじゃ馬ならし
かつて発達障害に詳しい臨床心理士の先生に話を聞いたとき、以下の内容が心に残りました。
「先に企業の準備した仕事があってそこに人材を当てるのではなく、その人がいるからその得意分野の仕事をお願いする。
組織のほうから人に寄り添っていく。
そういう環境であれば、障害や特性があってもなくてもその人の人生はスムーズに行くんじゃないかなと思います。現実的にはなかなか難しいけど」
全くその通りだと思うのです。
今、「多様性」という言葉を定義できる(地位を持っている)のは大きな組織です。さまざまな組織論が飛び交う中で、どうして「多様性」をめぐる視点だけがこれほどまでに原始的なのかなと思っていたけれど、
営利的な観点でも、人手の観点でも、組織はマジョリティーな「多様性」しか相手にできないからなんだなって。
マイノリティーな「多様性」まで相手にしていたら、キャパシティオーバーになる。
それに「何したらいいの?従業員たった1人の言ってることにどこまで対応すればいいの?」って感じで企業側に合理的配慮のノウハウがない側面もあるだろうし。
だから、「ささいな違い」はルールや努力不足という概念で均一化しようとする。
でもこれが問題なんですよ。
マジョリティーとマイノリティーの「多様性」という言葉の受け取り方の齟齬によって、安心して組織に溶け込もうとしたマイノリティーの身を不意打ちでえぐり、傷を負わせる場面が少なくないように思います。
少し前に、私自身が「多様性」という言葉で胸をえぐられたことがあったもので。私もまた、これまでの人生の中でこの言葉であの人を傷つけただろうなという自覚があるものですから。
思想や行動は言語から生まれる。
最近、「多様性」は口当たりのいいワードとして多用されがちだけど、実際は私たちではなかなか手に負えないじゃじゃ馬のような概念を含んだ言葉なんだと、自戒を込めて再認識したいのです。
※これはあくまで私の一意見です。