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悩みが消えないなら読んでみて。『自分とか、ないから』。
頭に浮かんだのは、どうにもこうにもつらかった時、どうしたら良いのか本当にわからなくて、考えても考えても堂々巡りだった頃、般若心経の写経を毎晩、お風呂上がりの寝る前に、していた頃のことだ。
手本は、大学時代に下宿させてもらっていた叔母からもらった。叔母は私がとても尊敬する人で、50歳の頃、夫を肝臓がんで亡くしている。一緒に暮らしていたのは、叔父が死んでから3年ほど経った頃だ。叔母は、ときどき写経をしていて、なぜ写経をするのか、何のためにするのかと聞いた時、「今日は、お父さんが死んでしまう夢を見たの。だから『夢でありますように、夢でありますように』と祈りながら起きたの。朝起きて隣を見たら誰もいなくて、悲しくて悲しくて」。そんな日は、どうすることもできずに写経をするのだと言っていた。
大切な人を失ってしまった悲しみは、その原因を解決なんかできない。だから考えても考えても答えなんて出てこない。そんな時には写経をするのだろう。実際、私が写経をしていた時も、大切な人の死ほどではないものの、答えが導き出せないことで自分の行動が決まらず苦しんでいた時だった。
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最初は、文意を考えようとしたり、文の意味がわからなければ、字の持つ意味から何かを感じ取ろうとしたり、何かしら、意義を感じようとしながら書いていたのだが、2行、3行と書き進むうち、「もはや考えても無駄」な気持ちが湧き上がり、ただただ、文字を書き写す作業だけに没頭するようになる。頭の中では、誰かのご葬儀か、法事かで、どこかのお寺か、斎場か、家で、聞いたことがある、「はんにゃーはーらーみーたー」「ぎゃーてーぎゃーてーはらそーぎゃーてー」が鳴り始めるのだが、全文の音(というか、歌でいう歌詞みたいなもの)が浮かぶわけではないので尻つぼみに音も消えていき、段々と、何も聞こえなくなっていく。
私の悩みの方は、自分では解決できず、時間が経つにつれ、悩みの方が勝手に変化して、小さくなって私の前からは消えていってくれた。今振り返って考えると、悩みというものは、そういうものなのかもしれない。
ただ、写経を毎晩していたおかげか、どうにもできない悩みだった割には、眠れぬ夜を過ごすこともなかった。20分か30分ほどかかって写し終わると、なんとなく満足して眠りにつくことができた。ぼんやりと、瞑想とか、坐禅とか、写経とか、そういった仏教の修行に使われるような作業を行うと、そういう効果があるのかな、と深くは考えてなかったのだが、『自分とか、ないから』を読むと、まさに「悩みから解放されたい」がために、東洋哲学に藁のようにすがってなんとかなった人の話で、なるほど、だから写経は効いたんだな、と納得した。
私のお気に入りは、第五章の親鸞の他力だ。「だめなやつほど救われる」の哲学。良くあろうとすることが執着。自分のだめなところを認めて受け入れることで執着を手放すことができ、解放される、という考え方。「他力」は、「信じる者は救われる」つまり、信じていれば救ってもらえるという他力だ。全体的にゆるいのは、難しかったり厳しかったりすると、それができない人がこぼれ落ちてしまうから、という逆転の発想なのだそうだ。日本の宗教観がゆるくて何でもかんでも受け入れてしまうのは、この人の影響もあるのかも。「そんなことでは駄目だ!」というお叱りに「でも幸せになるんだったらいいよね?」と広めていったところなんかは、なんか、今の時代にもしっくりくる。
他にも好きな考え方、解釈、しんめいPさんの意訳がたくさんあって、笑っちゃう表現も多い。いま、悩みが解決できずに考え込んでしまってる人は、ちょっと読んでみるといいと思う。
あと、般若心経でなくてもいいので、何か写経をするのもオススメ。手本をくれた叔母にも感謝。しばらく会ってない。会いに行かなくちゃ。
2025年の100冊 002/100