夏の景色
夏の景色を見ると死にたくなる。
青空にそびえる入道雲、蝉時雨が聞こえてきそうな夕方の田園風景、畳と障子と風鈴。
これは僕だけでなく皆にうっすらとある共通認識らしい。
楽しい青春時代を過ごすことができなかったコンプレックス?
もうあの日に戻れないという感傷?
なぜかどちらもしっくりこない。
青春時代を謳歌していたかと問われるとそうではないが、公園で幸せそうに遊ぶ家族や大学生を見ても特にうらやましいとは感じない。
子供時代にもう一度戻りたいとも思わない。今の方がはるかに自由で、あのころと比べて世界は段違いに広がっている。辛いこともあるが、楽しいこともたくさん増えた。割合としてはそこまで変わらない。
そういえば僕はいつから夏の景色にこのような気持ちを抱くようになったのだろう。
小学生の頃の夏休みにはだいたい決まった行動パターンがあった。
母は午前中はパートの仕事があったため、午前中はいつも母の実家で過ごした。
朝8時に到着し、1時間程度夏休みの宿題をする。
始めの3日くらいで宿題は全部終わってしまうので、そこからは積み木やジェンガをしていた。
9時になると図書館が開くので、歩いて図書館に向かう。
図書館で本を読んだり、道中にある公園で遊んでたりするとすぐに12時になる。
12時からしばらくたつと、母がパートから戻ってくるので家に帰る。
午後は友達の家に遊びに行くか、家の周りの山や川で遊んでいた。
だいたい16時くらいで切り上げ、お風呂に入り、夜ご飯を食べ、テレビを見て寝る。
あの頃はずっと何かに夢中だった。
図書館でひたすらかいけつゾロリとにゃんたんを読んでいた。
図書館の前にある噴水でサンダルを流して、ひたすらその流れを観察していた。
公園でどうしたら最も素早く最高到達地点までブランコをこげるか試していた。
積み木をどうしたらより高く安定に積めるか考えていた。
家の周りの知らない場所をどんどん開拓していった。
変化球を投げたくて、何百回と野球ボールを壁に投げた。
でもお盆を越えたあたりから、うまく熱中できなっていった気がする。
夏休みという何かに熱中できる時間の終わりが近づいていることを意識し始めるからだろう。
やはり夏休みという習慣が原因なのだろうか?
実際、夏休みが終わろうが、何かに熱中することはできる。夏休みという概念がほぼ消滅した現在でも何かに熱中はできている。
夏自体にも原因はあるのかもしれない。
暑さで思考力は奪われ、集中力は低下する。
エアコンも扇風機もなぜか長時間当たっていると体力を奪われる。
暑さやだるさで熱中状態を維持できなくなった経験も夏は多い気がする。
何にも熱中していないとき、人生に意味を感じられず死にたくなる。
いやそもそも人生に意味なんてないのだろう。
何にも熱中していないとき、それが急に浮き彫りになる。
夏に死にたみを感じるようになったのは、大人になってからではない。
集中力を奪う夏の作用が夏休みという習慣により増幅され、熱中状態を解除するトリガーとして働く。
熱中していないと何の意味もない人生を生きていけない。
ただたまには、ぼーと死にたいと思う時があってもいいような気がする。
現在進行形で夏に熱中を奪われながら、そんなことを考えた。