英雄と天才(※西欧は「豆腐メンタル」1)
燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや 陳渉
中島敦に『悟浄歎異』という秀作がある。
中国四大奇書の一つ『西遊記』の、中島版ノベライズとでも言えば良いだろうか。生前、作者がこの作品を含む『わが西遊記』をもって、「僕の『ファウスト』にする」と言っていたという、その意気込みが魂の如く文章の一つ一つに宿って、未だ冷めやらぬ微熱を含むようである。
おそらく、この短編小説を読み返す度に、ほとんど全ての者は、いつでも己を沙門悟浄として捉え直すことだろう。間違っても、自らを孫悟空とも、三蔵法師とも重ね合わせるべき存在たり得るとは、思わないだろう。
少なくとも、それが沙門悟浄を主人公とした作家の立ち位置であった事は、疑いようがない。それは、「二人(悟空と三蔵法師)が其の生き方に於て、所与を必然と考へ、必然を完全と看做してゐることだ。更には、その必然を自由と看做してゐる事だ。(原文より)」という一文を取って見ても、明らかである。
この、つまりは「必然と自由の等置」こそが天才の徴であるという悟浄(中島敦)の分析を、そのまま受け取るとしたならば、私見によると、これは西洋文明史などに、到底見受けられるものではない。なぜとならば、「自由」の捉え方が、根本的に異なるからである。
西洋文明における自由とは、その本質に expansion や unchain の意味合いを帯びている。であるがゆえに、彼等の文明史は往々にして好戦的であり、かつ破壊的な物語を紡ぐのである。西洋世界が伝統的に「天才」よりも「英雄」を選好するのも、その為である。がしかし、ここでもっとも重要な点とは、当代までの世界文明史が証明した一つの真実が、こういう西洋的「自由」の思想によって、「必然と自由の等置」の方の思想が、決して打ち破られることがなかったという点なのだ。
これは、明治以降の日本文学史を俯瞰しても、大体同様の結論に至る。例えば、「西洋」たるものを最も強く、甚大な衝撃をもって受け止めたはずの鷗外、漱石といった小説家の精神史を辿ってみても、その晩年の作品において、どれほどの「西洋」を見出せるであろうか。
所詮その後末永く国文に根付く事のなかった戦前の自然主義も、白樺派人道主義も、モダニズムも、マルキシシズムも、戦後を席巻した実存主義も、戦後民主主義も、ことごとく「鳴る鐘や響くにょう鉢の如く」に消えていった。当たり前と言えば当たり前であり、これをもって極東の小島に見られる奇異な現象として捉えるとするならば、まったくもって的外れというものである。
ところで、この『悟浄歎異』だが、悟空と三蔵法師についての熱っぽい叙述の次に、猪悟能八戒を語る文章へと移る。これは前出の二者に比して言葉数少なくとどめてあるが、これを利用して、もう少し議論を深めていきたい。
「兎に角、此の豚は恐ろしく此の生を、此の世を愛してをる。嗅覚・味覚・触覚の凡てを挙げて、此の世に執してをる」
「実際は其の享楽家的な外貌の下に戦々兢々として薄氷を履むような思ひの潜んでゐる」
というこれら二つの描写から連想される、或る天才作家と、その一作品についても、併せて議論に組み入れてみたいと思う。
天才の名を谷崎潤一郎、小説を『春琴抄』という。
作家は1886年(明治19年)に生まれ、小説は1933年(昭和8年)に生まれた。
いささか唐突だが、まずここで、この1933年という年について、その年の主だった出来事を羅列してみたい。
1月――ドイツ、ナチス政権誕生
3月――日本、国際連盟脱退
3月――昭和三陸地震発生(M8.1、死者・行方不明者約3000人)
3月――米大統領、ニューディール政策始動
筆者がなぜこのような時代背景を語ったかについては、いずれ分かるように書くとしよう。
次は、『春琴抄』という物語を、簡単に年表化してみたものである。
1829年――主人公・春琴、大阪道修町に代々薬種商を営む鵙
屋の第二女として誕生す。春琴と終生を共にした
佐助は「春琴より四つ歳上で(原文より)」あった
という叙述より、1825年の誕生と思われる。
1838年――春琴、「九歳の時不幸にして眼疾を得、幾くもなく
して遂に両眼の明を失ひければ、(中略)これより
舞技を断念して専ら琴三弦の稽古に励み、糸竹の
道を志すに至りぬ」。
1840年――佐助、盲目の春琴の「手引き」の役目を含む日々
の丁稚の業務に服する傍ら、「日々一定の時間を限
り(琴三弦の)指南を仰ぐこと」となり、「十一歳
の少女と十五歳の少年とは主従の上に今又師弟の
契りを結」ぶこととなる。
1845年――春琴(16歳)初産。周囲は、父親は佐助に間違
いないと踏んだが、当人達はそれをかたくなに否
定し決して認めることがなかった故に、子供は周囲
の手によって里子に出された。
1849年――春琴(20歳)、「春松検校が死去したの機会に独
立して師匠の看板を掲げることとなり親の家を出
て淀屋橋筋に一戸を構えた。同時に佐助も附いて
行つたのである。」
1866年――春琴(38歳)、ある夜忍入った兇漢に襲われ、鉄
瓶の熱湯を真正面に顔面に注ぎかけられる。「焼け
爛れた皮膚が乾き切るまでに二箇月以上を要した
中々の重症」を負う。
同年、佐助(41歳)、春琴の包帯がそろそろ取れ
ようという矢先、春琴に半ば請われるがまま、自
ら己が両眼に縫針を「ずぶと二分程」突き入れる。
「忽ち眼球が一面に白濁し(中略)水晶体の組織
を破ったので外傷性の白内障を起した」為、「十日
程の間に完全に見えなくなつた」。
1886年――春琴(57歳)死去。佐助61歳。
1907年――佐助(83歳)死去。
以上が、『春琴抄』の年表であるが、同時に物語のお粗末なあらすじにもなったかも知れない。
さて、こんな年表を斜め読みしても分かるはずだが、作中で最も重大な出来事とは、1866年に起こった「春琴の火傷事件」であり、それに伴い「佐助も自ら針を突き入れ両眼の明を失った」くだりである。
再び私見になるが、この場面は誰が何と言っても、日本近代文学における圧巻中の圧巻と言えよう。ここに全文を書き記したいと思うくらいであるが、都合上、次の一文のみに留めておく。それは、「佐助は今こそ外界の眼を失った代わりに内界の眼が開けた」というものである。
なぜ、この一文を引き合いに出したかというに、ここで筆者の仮定する「外界の眼」とは、時代や社会情勢を見る眼の事であり、「内界の眼」とは、「必然と自由の等置」といった方角を見つめる眼の事であるからだ。そして、『春琴抄』は紛れもなく「内界の眼」によって、ほぼ全文をしたためられた作品であるからである。
もし、『春琴抄』が同時代の西洋の作家の手によって書かれていたら、いったいどのような作品になっていただろうか。この、およそ80年の時間枠を有する物語を、あれほどまでに短く、美しく凝縮して描く事など、きっと西洋のどの作家も想像だにできなかったに違いない。
なぜなら、くだんの1933年のような20世紀の歴史上、最も重要な一年にあって、西洋世界のどの小説家が、己から「外界の眼」をほとんど完全に排し去って、「人間の一生」を描けただろうか。まして、物語の時代背景である江戸から明治をまたいだ80年――すなわち、日本文明史上最大の転換期――を、西洋の「せ」の字も出さないまま描き切る事など、誰にもできなかったに違いないのだ。
愛すべき大谷崎にとっては、明治維新も、日清・日露・日中・アジア太平洋戦争も、そして1945年の敗戦すらも、まったく、いかほどの重要な意味を持っていたのであろう。
『春琴抄』のような、文学の一極致にまみえる時、時代や社会情勢やをさも人生の一大事であるかのように論う「外界の眼」など、なんという貧しく、矮小な、浅ましい心の有様であろうか。
よって、ここでもう一つはっきりと書いておきたい点とは、尊敬すべき大谷崎は「実際は其の享楽家的な外貌の下に戦々兢々として薄氷を履むような思ひの潜んでゐる」人間などでは、決してなかったという事である。
もし、大谷崎の作品を読みながらその様に感ずる事があるとすれば――主人の為に両眼を潰した佐助の覚悟に――巨大な女郎蜘蛛の刺青を女の背中に刺り込んだ清吉の執着に――颯子の立像の下に埋められることを本望とした瘋癲老人の告白に――
もしも「戦々兢々として薄氷を履むような思ひの潜んでゐる」ものを感ずるとすれば、それは他ならぬ読者側の心の投影である。
沙門悟浄が、悟空や三蔵法師にまみえて、「俺みたいな者は、何時何処の世に生まれても、結局は、調節者、忠告者、観測者にどどまるのだろうか。」と自ら省みたような、劣等意識の投影である。時代や社会情勢やを、さも人生の一大事のように論うしか術のない、所詮小人のとりとめのない、些末な思い煩いの投影なのである。
なぜ、小人は、それほどまでに時代や社会情勢を語りたがるのか。
簡単な理由である。
そこに絶えず不安や不満や圧制や迫害やを感じるからである。そういう不安や不満や圧制や迫害やから、自分たちを「自由」にしてくれる者の登場を、希うからである。しかしそんな者の待てども一向に登場してくれない現実に対して、より一層「戦々兢々として薄氷を履むような思ひ」を募らせるからである。かかる類の希求をば、易々と否定し去ろうとまでは思わない。けれども、それならばむしろ、「必然と自由の等置」を可能にする「天才」の登場を、「外界」ではなく「内界」に追い求めたいのである。
「自由」という概念に固執し続ける、不自由で貧困な精神背景こそ、西洋文明の根源である。だから、戦争や革命が起こる度に、社会と、精神とに、幼稚なニヒリズムと、卑屈なルサンチマンとが蔓延し続けるのである。だから、いつの時代でも「王」や「英雄」の登場を恋々と求め続けるのである。だから、不毛な戦争や革命やテロリズムやを、性懲りもなくいつまでも繰り返し続けるのである。
佐助において(そして春琴においても)、「自由」などという概念ははじめから埋没している。あるいはすっかり欠落している。80余年の人生を通して、それこそそれがいかにクダラナイ概念だったかと思い知らされるほど、佐助はいかなる「自由」にも、頭を悩ませる事がない。それほどまでに佐助の精神は常に充実しているからだ。
しかしこの充実は、生活上の満足によるものでもなければ、日々の苦役によって心が麻痺させられているからでもない。小説の全編を通して、さながら幼子のような充足が、示唆されている。別な言葉で言うと、「我」のなくなった「無」とか「空」とでも言えようか。「則天去私」、とでも言えようか。
であるからして、ついに両眼を潰して永久に盲目になる所為に及んでなお、佐助にとってそれは必然の結果に過ぎず、その結果たるややはり西洋的精神からは自由であった。両眼を潰した直後、佐助と春琴の間に起こった事件とは、「今迄肉体の交渉はありながら師弟の差別に隔てられていた心と心が始めてひしと抱き合い一つに流れて行く」という感動的な愛だったのだから。
これは、例えるなら、我が子に手をかけようとして報われたアブラハムの信仰に近い。西洋的ではない物の方が、返って西洋が求めていたはずの世界に触れてしまった訳だ。けだし「皮肉屋の神は逆説を好む」という事なのだろう。
もっと率直な言い方をすれば、こうなる。
「十字架の救い主」から与えられるインスピレーションとは、西洋の伝統的な「王」や「英雄」の姿よりも、『悟浄歎異』や『春琴抄』の描いた「天才」のそれの方が、よっぽど近しいのだ。ジャン・バルジャンよりも、佐助の方が、キリストに近しいのだ。
やはり、「皮肉屋の神は逆説を好む」という事なのだろう。