見出し画像

小豆島抄

神の国は幼子のごとき者の国なり  イエス・キリスト


2014年6月、香川県小豆島を訪れた事は、私の生涯の重要な出来事となった。 

小豆島の風光明媚な風土について思ったことは、不朽の名作『八日目の蝉』の読書感想文に、少しだけ綴ったが、この瀬戸内海の小島を代表する文学といえば、何をおいても、坪井栄による『二十四の瞳』である。ここに投稿したあらゆる文章のモチベーションを得たのも、この小説を読んだからに他ならない。
 
2014年6月、私は30歳を越えていた。『二十四の瞳』を読んだのも、白状すると、この時が初めてだった。だからここでは、物語の内容について、何一つ書かないことにした。ただ、読書感想文だけである。そんな感想文とは、こんなものである。
 
もし、私が子供だったなら、登場人物の大石先生と、生徒たちが、誰よりも可哀想だった、と書いただろう。大きな字で、紙が破れるくらいの力を込めて、「戦争は絶対にいけない事なんだ」と、書いただろう。私は、本当に驚いた。『二十四の瞳』を読んで、まだそんな気持ちが、私の心の中に生じ得た事に、驚いたのである。もうすっかり大人になってしまったはずの私の心の底から、子供の頃のような、素直な、まっすぐな、借り物でも、飾り物でも、真似物でもない、正直なままの気持ちが溢れ出たことに、驚いたのである。
 
もうすっかり大人になってしまったはずの今の私を、まったくの子供に返してしまった、この物語の力とは、いったい何なのだろう。そして、この子供の頃の気持ちから、もうすっかり大人になってしまった今の私を見つめ直した時、私はただただ、もうすっかり大人になってしまった今の私を、恥じ入るしかなかったのである。
 
『二十四の瞳』を読んだその夜、私は涙が止まらなかった。本当に、目からぽろぽろと滴り落ちて来たのではなかったが、私は全身で泣いていた。
 
しかし、それと同時に、私は物語を読みながら、笑ったり、ほっとしたり、安心したり、うっとりしたりした。それこそ『二十四の瞳』という永遠の物語の中の、想像力に導かれた「生活」だった。現代の私が、昭和元年から30年頃までの、小豆島で送った生活だった。我がたなごころに刻まれた、真の生活だった。 

『二十四の瞳』と、小豆島に、永遠の栄えあれ。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集