「あらすじ」の方が面白い(※文学ってなんだ 12)
安倍公房の『砂の女』は、いわゆる「あらすじの方が面白い」小説である。
ある男が、昆虫採集の目的で、海岸の砂丘にやって来た。その砂丘と重なりあったような村落に、一宿一飯を求めたところ、深い砂穴の底に作られた、一人の寡婦の住処へと案内される。
あくる朝起きてみれば、砂穴から出るため縄梯子が、見当たらない。――まさか、という予感は的中し、男はそのまま、砂の底に閉じ込められてしまうのだった…。
おおよそ、こんな具合の文章でも、物語全体の要約には十分だろう。さらにもっと、行間を開けるだけ開けたような一文でも、事足りる。
例えば、
昆虫採集にやって来た男が、砂の穴の底にある、やもめの家に泊めてもらったが、そこから脱け出せなくなってしまう…。
というような。
その作品をまだ読んだことのない人間に、「面白そうだ、ちょっと読んでみようか」という気にさせるのが、あらすじの持つ役割の一つであることは、間違いない。
だとするならば、「本編」の役処とは、いったいなんであろうか?
この点については、意見の種々分かれるところかもしれない。
しかし、「あらすじ」よりも「本編」の方が面白くなかったとしたら、その作品は失敗である――いかにも面白そうなあらすじを信じて、本を手に取ってみた読者にとってはもちろん、血と涙と汗をほとばしらせながらそれを産み出した、作者自身にとっても。
『砂の女』を、まだ無知で、無垢で、無心だった若き日に読んだ時は、少しだけ、面白かった。
しかし、無知でも、無垢でも、無心でもなくなった今――いや、引きつづき「無知」ではあろうが――、あらためて読みなおしてみると、まったく、オモシロクナイ。
そして、若き日に読んだ時にも、たしかに抱いたオモシロクナイという感想の理由も、よく分かる。
ひと言で述べるならば、「小説家以外の存在が、小説家以上に出しゃばっている」から――
安倍公房という「小説家」ではなく、「科学者」や「数学者」や「医師(精神医)」のような顔をした、もう二人三人の「助力者たち」が、それぞれの分野における専門的知識をもって、「小説家を過剰にサポートし続けている」から――である。
だから、オモシロクナイのである。
『砂の女』という小説は、色々な分野の人間が寄り集まって作り上げた、いわば「共同制作」の作品である。
だから、オモシロクナイのである。
なぜなら、
小説とは、たった一人きりで、書き上げるものである。
小説とは、もとい、文学とは、いや違う、「純文学」とは――
最初から最後まで、徹頭徹尾、ほかならぬ「小説家」が、あくまでも孤独に書き出し、あくまでも孤独に書き連ね、あくまでも孤独に書き上げた作品のことを、言うのである。
作品の中に、科学や、数学や、医学やの、説明のような、解説のような、分析のような文章が、「そのまま」紛れ込んでしまったとしたら、そのとたん、もはや「純粋なる文学」ではなくなるのである。
科学や、数学や、医学やの、論理も、理屈も、理詰めの道筋も、「文学的に、あまりに文学的に」添削され、推敲され、翻訳されたもの、――それが、「純文学」の本質である。
そういう「純文学的」文章や、展開や、結末こそが、「あらすじ」ではない、「本編」にこそ託される役処なのである。
「あらすじ」読んだ時の気持ちを、思い出してみれば、分かることだ。
「昆虫採集にやって来た男が、砂の穴の中にある、やもめの家に泊めてもらったが、そこから抜け出せなくなってしまった…」
こんなにも短い、簡素な、行間も開くだけ開いたような一文に、心をひかれたのは、なぜだろうか?
何を期待し、何を求め、何を見てみたくて、「本編」へと進もうとしたのだろうか?
――たとえば、高級なレストランを訪れて、流れるような文字だけの品書きを読むとき、何を想像し、オーダーにいたるのか?
ディズニーランドへ遊びに行って、長蛇の列の最後尾にでも着こうとするのは、何を欲しているからなのか?
マジシャンによる華麗なる曲芸を見たいのは、いかなるイリュージョンを体験させてほしいからなのか?
――それと同様である。
もし、
「純文学」が、その物語の展開を、理詰めで埋めていく作業を見せつけたとしたら、どうなるか?
目にもあざやかで、舌の上にもとろけるような、非日常的な料理を楽しませる前に、厨房の裏側や、調理の実際や、食材の正体まで、事細かに見せられ、説明されたら、どうだろうか。
行列の中、いまかいまかと順番を待つ時間の余興として、夢と魔法の王国の汗臭く、血生臭いような舞台裏を見せつけられたとしたら、どうだろうか。
それがあることなど百も承知しているのに、あらかじめタネを明かされたとしたら、それでもそんな曲芸を、「魔術」として楽しめるだろうか。
『砂の女』が、その「本編」でしてしまったことは、厨房の裏側や、王国の舞台裏、魔術のタネあかしと、よく似ている。
たとえば、
「…百科事典での砂の項目をひいてみると、次のように書いてある。
≪ 砂――岩石の破片の集合体。時として磁鉄鉱、錫石、まれに砂金等を含む。直径2~1/16m.m. ≫…」
こんな一文を、そのまま作品の中に持ち込むなんて、まったくなんという「曲芸」だろう…! まるで小学生の自由研究にも見劣る、「丸写し」ではないか…!
その後も、数十行に渡って、「小説家」はさながら「学者」のように、「砂」についての説明文を、解説文を、考察文を、とくとくとして、語り連ねていく。
そういう一連の作業こそが、厨房の裏側や、王国の舞台裏や、魔術のタネあかしであるというのに…。
物語の導入部において、「これからボクが書こうとしているストーリーの鍵は砂です」などと、「おしゃべり」してしまって、どうするのだろう…?「犯人はその乗客全員である」と、あらかじめアガサ・クリスティが漏らしてしまったオリエント急行になど、誰が乗りたいだろうか…?
それゆえに、
物語の最後の最後で、主人公である昆虫採集男が、とある大発見に至った場面にあっても、(安倍公房が言うほどの)迫力にも興奮にも、欠いてしまうのだ。
「男は、次第にこみ上げてくる興奮を、おさえきれない。考えられる答えは、一つしかなかった。砂の毛管現象だ。砂の表面は、比熱が高いために、いつも乾燥しているが、下の方はかならずしめっているものである。表面の蒸発が・・・」
というふうに、またしても「学者的」な文章をもって、「大発見のご解説」が始まってしまう。
それがゆえに、
この「砂の毛管現象」が、閉じ込めらた穴の底にあっても、水の補給を可能にする溜水装置を作り出す、いわば「ゲーム・チェンジャー」的な役割を果たしていくにもかかわらず、作者によって、そのカラクリが理詰めで説明されてしまっている以上、読者にとっては、「大発見」でもなんでもない、ただの「タネの明かされた魔術」に、堕してしまう。
だから、オモシロクナイのである。
出された料理がものすごく美味しいのは、なぜだろうか? どうしたら、こんな非日常的な味が、出せるのだろうか? そんな「体験」こそが高級レストランの醍醐味であって、「なぜ」や「どうしたら」については、調べたければ、客の方で勝手に調べたらいいのだ。――どうせ分かりっこないんだから。分かったところで、別に気にしない。才能とセンスにあふれた俺の作ったものと、シロートが作ったものと――というような、料理人としての自負が無いから、わざわざ「解説」するのだろうか? あるいは、有りすぎるから? それとも――?
こうして、『砂の女』という物語は、主人公が「思いもよらなかったような唐突な展開」を見せながらも、作者による理詰めの解説と、説明と、考察によって、全然オモシロクもオカシクもない、以下のようなヒューマンドラマ的文章を持って、終幕へ向かっていく。
「モザイックというものは、距離をおいてみなければ、なかなか判断をつけにくいものである。むきになって、眼を近づけたりすると、かえって断片のなかに迷い込んでしまう。一つの断片からは脱け出せても、すぐまた別の断片に、足をさらわれてしまうのだ。どうやら彼が見ていたものは、砂ではなくて、単なる砂の粒子だったのかもしれない。…砂の変化は、同時に彼の変化でもあった。彼は、砂の中から、水といっしょに、もう一人の自分をひろい出してきたのかもしれなかった。…」
あらゆるヒューマンドラマの醍醐味である、主人公の「内的変化」についても、こんなふうに「説明」されてしまったのでは、退屈な教諭の講義でも聞かされているような気分にさせられるだけである…。
もし、こんな物語のエンディングに、以下のようなあらすじを書いたとしたら、どうだろうか?
「男は、ある朝、砂の穴の底で、水の溜まった器を発見した。ここ半月、雨も降っていないというのに…。男は、ある仮説を立てた。そして、試行錯誤の末に、ついに穴の底で、溜水装置を生み出すことに成功した。男は小躍りした。これでもう、断水による脅迫に屈することはなくなったのだ…! が、その時、男はふと、我に返ったように気がついた。
俺はいつしか、この砂穴の底で生きることを楽しんでいる。砂穴の底で水を掘り当てたことを、喜び、誇っている。俺はもはや、この砂穴から出ようと思っていない。むしろ、この画期的大発見を、俺をあざむき、今日まで穴底に閉じ込めた、憎き村人たちに向かって、話したくてたまらなくなっている…。俺はこれから、どうするのだ? 穴の底か、穴の外か、どちらの世界で生きていくというのだ…?」
これはもはや「あらすじ」とも言えない、『砂の女』全体の「解説」にさえなっている。そして、「本編」よりも、こんなおそまつな「解説」の方が、個人的にはずっと面白い。
もし、安倍公房が、
溜水装置の成功に至るまでの過程を、「学術的」な説明など一切なくして、ただ起こった現象と、見つめた事実と、行った仕事だけを、きわめて「純文学」的に書き連ねていったとしたら、どうだったろうか?
物好きな読者にも気づくように「毛管現象」をにおわせながら、あるいは、そんな詮索好きな読者へのサービス精神など、徹底的に排除したように――
「謎」は残ったままでも、「何か科学的に説明がつくはずだ」という読後感を抱かせるように――
そんな「謎」とともに、主人公の身の上に起こった「変化」についても、内的会話のような、自分の内部を見つめ、問いただすような思考の足跡も、いっさい書くことなく、ただ「変化」だけを間違いなく汲み取れるように――
書き上げたとしたら?
それは、けっして、口で言うほど容易い芸当でないものと、日々この身をもって体験している。
そんなふうに、「におわせるだけ」のやり方こそ、本当に「純文学」なのか?――という自問自答が、起こらないわけでもない。
それでも――
「物語の展開を理詰めで埋めていく」というやり方は「純文学ではない」と、確信している。
そういう小説があってもいいが、それはエンタテイメント系のSFか、サスペンスか、推理小説なんかに、ぴったりである。そんなジャンルの小説は、おおよそ、「あらすじ」よりも「本編」の方が、ずっと面白いから。
それゆえに、それゆえに、
「純文学」とは、「裸の人間」が書いた物語なのである。
科学者とか、数学者とか、医者とか、刑事とか、教師とか、サラリーマンとか…そんな「社会的な存在」が書いたものではなく、
たとえば、「セールスマンだったのに、ある朝起きたら巨大な虫になっていたような、ただの人間」が、たった一人(一匹)で、書き始め、書き連ね、書き上げた作品が、「純文学」なのだ。
純文学の小説家とは、いかなる「社会的な存在」である以前に、「ただの人間」である。しかも、「天上天下唯我独尊」という言葉を、もっとも「誤解した人間」でなければ、科学者とか、数学者とか、医者とか…いう「社会的存在」から、自分の作品を「解説」されてしまう。
自分の料理を力説するシェフの言葉ほど、その料理が美味しく感じられないのと同じように、作家が自分の物語の中で、さかしらに、えらそうに、とくとくとして自作を解説し、説明しているような小説が、「あらすじ」より面白くなるワケがないのである。