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火災から生還【弱虫後輩と勇者の先輩】

船の火災は生死の分かれ目
「煙の中で見えた一瞬の光」
その光が差し込まなければ小生はここにいない


1995年


1995年は阪神大震災やサリンテロ事件など記憶に深く刻まれた年だ。
小生も神戸で災害派遣に従事させていただいた。
自分史でもっとも印象に残った事件は乗組んでいた自衛艦に火災が発生し
危うく天国(閻魔大王さま次第では地獄行き)へ召されかけた。
偶然が重ならなければ小生は29歳で人生が終わっていた。

私の乗っていた船は阪神大震災の派遣撤収後
予定より2週間遅れで修理地岡山県へ回航した。
約5カ月間の工事に入った。
完工が近づいた6月中頃に、試験航海(公試と呼ぶ)のため
徳島県沖を航行している時火災が発生した。

事故当時小生は事務室で仕事していた。
狭い室内にはコピー機があり、偶然後輩が一人コピーを取っていた。

くだらない会話をしながら仕事をしていると
前触れもなくドアの隙間から大量の煙が吹き込んできた。
あわててドアを開けると、通路はすでに煙が充満し
1メートル先も見えない状況だ。
とりあえずドアを閉め、後輩と示しあわせて手ぬぐいで
口を押え低い姿勢になった。
しかし事務室内も煙が充満し、エンジンの真上の場所のせいか
床も段々熱くなってきた。
小生は後輩へ「これ以上この場所に留まるのは危険だ」と伝え、
40メートルほど先の階段を上がって上甲板という屋外へ
脱出することを決断した。

灼熱煙地獄からの生還


煙に巻かれないように姿勢を低くしほふく前進の要領で息を止めて進んだ。しかし狭い艦内ではその判断は間違いだった。
タイムリミットの1分(呼吸を止めていられる時間)では階段までたどりつかなかったのだ。
そして決定的な敗因は私がこの船に着任して日が浅く、航海したのは半年前の数回だけだ。
その後ずっと修理中で主な仕事は造船所の事務所で行っていた。


艦内の区画が完全に頭に入っていなかったのだ。
海上自衛官は、たとえ艦内が真っ暗でも自分の現在位置と方向、経路を熟知していなければならない。
そうしなければ自分や同僚の命を守れない。
国民の貴重な財産を危険にさらすのはもっての外だ。

視界のまったく効かない高温の煙が充満した通路はまさに地獄の通路だった。
およそ2分で小生はどうにか上の階へ上がる階段(ラッタル)にたどりついた。

上の階も煙が充満し出口の方向が見えなかったため、仕方なく垂直で15mほど上にある艦橋(ブリッジ)まで2本の
ラッタルを駆け上がった。

その時すでに3分弱を経過し、呼吸を我慢できる限界に達し息を吸い込んでしまった。
煙を吸い込んだことで一層苦しくなり、どうにかブリッジと思われる階へ到着したハズなのに周りは3方向が壁の行き止まりであった。
パニック寸前の小生は、状況が呑み込めず仕方なく反対方向を振り向いた。

その時
「煙の中でうすぼんやりと光が見えた」
私が飛び込んだ行き止まりの空間はブリッジからわずか5段ほどの
階段を下った「トイレ」だった。

もしもあの時、煙の中でぼんやりとした光を見失ったら
私は「ブリッジまであと2メートルの艦橋トイレ」で煙にまかれ
お陀仏だったのかもしれない。

そのあとブリッジに駆け込んできた煤で真っ黒になった小生を見て
舵を握っていいた先輩が「クス」と笑った。
思わず私も笑ってしまった。
トイレで殉職とはクソの役にも立たない自衛官として笑えない
悲しい最後である。

拾い物の29年間は先輩からの贈り物


それ以後の29年間はまさしく拾い物の人生だ。
結婚して・子供が出来て・自分の家を持て・・・
すべてが夢かもしれない。
もしかしたらまだ夢の中かもしれない。

この風景が夢でないなら、勇敢なM先輩と、その先輩を救うために戦った仲間たちによって頂いた拾い物の幸福だ。

その先輩の臨終寸前まで私は同じ病室にいた。
先輩は機関科のエンジン屋さんで、火災発生時エンジンルームから一度避難できた。
しかし操縦室の隊員から
「エンジンが遠隔で停止しない。燃料が止められない」
と伝えられ決死の覚悟で再度エンジンルームへ突入し、エンジンを停止したあと煙に巻かれその場で倒れてしまった。

古い船で火災のせいかもしれないが操縦室からエンジンを停止することができず、エンジン横の装置でしか停止出来なかったようだ。
火災発生源に防火衣もつけずに飛び込んだ先輩がいなければ、燃料が大量に溜まった中間のタンクが爆発したかもしれない。
ほかの燃料などに引火すれば船ごと吹き飛んでいた可能性もある。

勇者を救え


エンジンルームで倒れた先輩を救出するため、たくさんの仲間たちが命がけで火を消して船はなんとか造船所にもどった。
火災の現場で倒れた先輩は仲間の医療チームが現場で蘇生した。
消火中に火傷を負った隊員と先輩が救難ヘリで運ばれていくのを見送っていたら、意識がだんだんと薄らいでいった。
ふと気づいたら小生もヘリの中にいた。

たった2呼吸ほど煙を吸っただけなのに、高温の煙が気道にやけどを負わしたそうだ。
ヘリで運ばれた病室は勇者の先輩と私の二人だった。
この病院で唯一の重篤な患者を収容する部屋だった。
先輩は再圧タンクで治療をうけ意識もはっきりしていた。
小生は少しだけ会話をした。
先輩は看護師に「悪いのは口と脳みそだけだったのに肺まで悪くなった」と冗談まで言った。
しかしその数時間後に意識を失い天国へと旅立った。

真の勇者は語らず


NHKのプロジェクトXが再度復活するようだ。
当時よりNHKは自衛隊に優しくなったが、命がけで船を救った先輩を取り上げてはくれないだろう。
たしかに国民の財産でおこった事故だ。
ただし百数十名の乗員を危険から守った功績は、誰がなんと言おうが小生などの生き残りが後輩へ伝える義務がある。

公表された事故報告には事実が淡々と記述されている。
その時現場でなにが起こったのかという公的な記録と事故原因の分析だ。
伝聞や人間の感情は記述されない。

船の構造や避難経路などをきちんと記憶するのは事生発生時に生死を分ける重要事項だ。
船に限らずあらゆる建物や乗物ではマニュアルを軽視せず、どの方法・経路で避難するか点検する必要がある。

国民や旅客などの生命を守る立場にある搭乗員や乗組員は、なおさら自己の使命を自覚する必要がある。

自分の無様な体験を文章で発表するのは馬鹿げた所業である。
黙っていればすでに29年前の記録はほとんど残っていない。

しかし
1月2日に発生した羽田空港における航空機事故の報道に接し
「小生の情けない・・・トイレで煙に巻かれて殉職しそうになった顛末」
も事前の準備や避難経路の確認が重要という教訓だ。

そして殉職したM先輩にならい
「どんな時もどんなに厳しい局面でもユーモア精神だけは忘れない」
という信念を再度認識した。
おやじギャグ製造装置たる由縁だ。

JALをはじめ旅客を真剣に守る搭乗員、交通機関職員やプロドライバーの皆さん本当にありがとう。
あなた方の努力のおかげで日本の交通機関は世界一安全です。

天国のM先輩
小生はどうにか無事に定年退官できました。
御恩は一生忘れません。

そして情けない小生の轍をふまないように・・・後輩隊員の皆さんは‥
小生のようなボンクラじゃないから心配は杞憂だろう。

船の火災ではクソの役にも立たなかった小生が、アフリカで国際緊急援助隊へ参加させてもらえたのは八百万の神様の
御意思だろう?

本当にお役に立てたのか・・・それとも後輩の邪魔をしただけか・・・
自分ではわからない。

今日も災害派遣や訓練に励む自衛官のみなさん
これからもよろしくお願いします。

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