東海道線グリーン車名物「河野太郎さんと徳光さん」
平塚駅西口から乗るバスの行先は
「西海岸」
どこまで行くのか不明のバスに揺られ
駅から2キロほどの閑静な住宅街は
西湘バイパス入り口付近の
マンション以外はすべて低層で
国道134号線を行きかうクルマが
少ない日は波音が聞こえる※ほどであった・・・
なぜこんな場所に社宅が・・・
その理由は「旧海軍平塚工廠」の
お偉いさんの住宅がこの周辺に
あったため国有地が残っていたからだという。
大磯を含め相模湾沿いの海岸は
明治後期より別荘地であり
日本で最初の海水浴場は社宅から
徒歩10分の位置にある。
社宅から200メートルほどの
小川を渡ればそこは大磯町で
このあたりの最寄り駅は大磯駅だ。
どちらの駅も歩いて25分くらいなので
深夜などにタクシー代をケチる場合
ゆっくりと歩いて帰ったが
治安にはまったく不安のない地域であった。
東日本大震災の頃
この社宅から東京まで電車で通勤していた
発災後から4月末まで東海道線は
「どうにか走っている」程度で
普通車に座ることは困難であり
「500円で着席できる」
湘南ライナーは運休していた。
小生が電車にのる
「大磯駅」「平塚駅」は
ほとんどの普通列車に
「朝は座れる」最後の駅であった。
隣の茅ヶ崎駅は
毎朝「空席争奪選手権」が
開催される駅であり
辻堂駅は
「幸運の女神」がほほ笑んだモノだけが
空席をゲットできる駅だった。
湘南地域へ住んだことのない方が
「平塚はイメージが良くない」
「平塚は湘南じゃない」
などと悪態をつくが・・・
住めばわかる事実は
歴史的に伝統のある高級住宅地は
「大磯と平塚の海側」という事だ。
茅ヶ崎の海側は戦後住民が増えた地域だ
戦前あまり宅地化されなかった理由は
地名を読み取ればハッキリする
「南湖」「柳島」「東海岸」など
海や水に関する地名である。
茅ヶ崎の「茅」は「かや」という水辺植物で
南湖やサザンビーチ周辺は
「潟湖」=ラグーンが存在したのだろう。
その痕跡は現在も点在する小沼が
砂質の土壌に囲まれ
周辺には「浜丘=Beach ridge」が
点在する地形から読み取れる。
風や波によって小さな丘が移動し・・・
窪地には海水がたまって・・・入り口が
閉じられてラグーンができる。
砂地であるため田んぼには向かず・・・
そりゃそうなのだ「相模川」という
大河川が「どんどこどんどこ」砂や小石を
運び堆積した海岸である。
加えて相模川は東岸のほうが勾配が緩やかである。
西側には箱根丹沢から連なる山地があり
東側へ砂を余分に堆積しても
理屈にあう。
加えて西側の方が「土を運んで畑にする」
のに距離が短い
人間が多数住んで・・・
同じような地形でありながら
土地の利用は平塚側が断然早かった
その理由は
地形によるアドバンテージだろう。
しかし・・・
そのアドバンテージによって
加山雄三とサザンオールスターズで
崩れたのが現在の「茅ヶ崎優位」
に繋がっているのだ。
徳光さんが東海岸に家を買った時期は
「茅ヶ崎は交通の便がよい海側の土地が安価」
だった。
排水がよく田んぼに向かない平地が茅ヶ崎の南湖や
東海岸には大量に存在した。
宅地化を進めない理由はない。
小生が平塚に住み始めた時期は
「茅ヶ崎でも空席は一車両に10カ所以上残っていた」
「平塚で車両の空席半分が埋まり・茅ヶ崎で残りが埋まる」
そんな構造だった。
ところが・・・
平塚駅海側にあったJTなどの遊休地や空き地も
どんどん宅地化され・・・
私が平塚を転出するころには
「大磯駅でないと確実に空席にありつけない」
状況となった。
空席が埋まる駅がどんどん小田原側へ
「西へ西へ」と後退している。
そんなわけで
朝は大磯駅から普通車両で座って東京駅
帰りは
東京駅から「湘南ライナー」
というのが
毎日の日課となっていた。
ところが・・・
地震で普通の席には
「乗り込めないほどの大量の旅客」
が押し寄せ
仕方なくグリーン券を買って
「グリーン車で立って平塚へ戻る生活」
が3・11のあと
半月ほど続いた。
4月半ばに入ると・・・
東海道線の混雑も幾分落ち着いてきた
ある日仕方なく750円払って
グリーン車の両端にあるトイレと車掌室側の
席に座っていると、新橋で濃いグレーの
コートを着た女性が横の空席へ座った。
本を読むでもなく・・・携帯を眺める訳でもなく
「じっと真横の自動扉」を眺めていた。
「じろじろ見るのは失礼」だと
思い・・・
小生は初期のiphone3GSの画面を眺めていた。
40分ほどその状態が続き
女性は辻堂駅で降りていった。
横顔が少し正面を向いて・・・
ハッキリ確認できた。
「杉山愛さんだった」
残念であった・・・
話しかけるのは失礼だろうし
握手も当時のご時世では・・・
でも少し後悔が残った。
東海道線のグリーン車で一番
たくさん見かけたのは
徳光さんと河野太郎さん
だろう・・・
定期券を持っていて
土日のヒマな時無用に
東京や横浜などを往復していた・・・
子連れで・・・オオカミではないが
ある日・・子供とグリーン車に乗ろうと
大磯駅で待っていると
子供の靴の片方がホームと車両の隙間に
落ちた。
半分はだしの子供を席に座らせ
あわててデッキから大磯駅へ電話をして
「子供の靴の片方が落ちていないか」
確認の電話をしたが・・・
小駅で駅員も少なく・・・
平塚・茅ヶ崎となかなからちが明かなかった。
辻堂あたりで
「靴ありましたカエルのついたヤツ」
と駅員さんが見つけてくれ・・・
「あとで取りに行きます」
と電話を終え・・・子供が座っている席へ戻ると
「たいへんだね~」と言ってくれた
デッキは開放型で二階席との間には
ドアがない・・・電話の声が筒抜けだった
迷惑をかけた客へ
優しく声をかけてくれた
初老の紳士は徳光和夫さんだった。
徳光さんはその後も何度か・・・
主に新橋駅からほろ酔いでグリーン車に
乗ってこられる場面をお見かけした。
河野太郎さんは東海道線の常連さんだ。
湘南ライナーは大磯駅には止まらなかったので
小生の帰路は概ね平塚駅西口下車であった。
河野さんは・・・
秘書の方などとご一緒の場面は一度も
見ていない・・・
当時は要職にもついておられなかったので
SPもいなかった。
「政治家もひとりで電車に乗るのか」
という印象がある。
「河野太郎事務所」は平塚駅南口にあり
「事務所へ行くのかな?」と思っていたが
バス停のない南口の階段を降りると・・・
お迎えのクルマが待っており
自宅へ戻られるようであった。
平塚駅南口は小生が住んでいた社宅の周りが
高級住宅街であるように・・・
家族を迎えに集まってくるクルマは
ベンツ・BMWなんてあたりまえで
ベントレーやジャガー・カイエンなど
高級車見本市会場のようであった・・・
河野太郎さんのお迎えは・・・車種は言わないが
極普通の国産車・・・
「代々政治家の一家」で大きなおうちに住んでいる割に
普通の国産車が妙に似合っているのは
「虚飾がきらい」なんだろう~といつも
思っていた。
性格ゆえなのか・・・
「変人あつかい」されることが多い
彼も・・・案外小生と年齢の近い普通のおじさん。
だと思えてくる。
国のかじ取りは特別な使命と自覚を持った
「普通のおじさんかおばさん」が担うのが
もっとも適していると思う。
どこかの首長が勘違いしているが
特権意識は不要だ。