
お一人様こちらへどうぞ〜今日ひとりで食べること
オフィス街なら昼になるとあっという間にどこも満席になる。
物心ついた頃からみんなで手を合わせ、みんなで同じものを食べてきた。
待ち遠しいあのメニュー
嫌いで残したあのおかず
早食いも、ゆっくりも同じ時間にみんなで同じものを食べてきた。
遠足なら一気にパワーに溢れておしゃべりしながら楽しく食べたよ。
みんな大切な思い出で、道徳として食育の大切さを体験して人の温かみを感じてきた。
社会人ともなれば12:00前に気の知れた仲間と早めのランチの店に行くなど日常だ。
でも午後の仕事の前に長蛇の列にスマホ片手に並ぶのはどうも苦手な人だっている。
並ぶ→呼ばれる→注文→今から作って→おまちどうさま。
そこから正味10分で食べて「ごちそうさま」
会社員だって忙しい。
先輩なら並びたくないわがままも言えるが上司から昼行こうぜと言われ(10分くらいなら。)とこころ許すときだってある。
人気店ならたちまち15分、20分なんてことになって、”おいおい、ここで並んで体力失ってどうする“なんて並ぶ選択をした自分にため息の風が吹き込んでくる。腹いっぱいで午後の思考力が落ちることは周知の事実。
ましてや新規開拓で行った店がイマイチだったりしたらなんとなく損した気分になるのは自分だけか?
午前中の続きみたいなランチミーティング。
単なる息抜きコミュニケーション。
仲良しグループに留まっておきたい気持ち。
意識してなくてもみんなに同調してる自分。。
営業ならそんな仲間たちとのまどろみも月に一度あるかないかで助かる。
食べられる時間が昼飯時。12:00という時間帯に特別な感じはない。
かの井之頭五郎さんが孤独でないのは自由な選択、腹の向くままに食に集中できるからだと信望している。
デスクワークなら「今ちょっと、、これやっとかないと間に合いそうにないんで」
そんな毎回レンガのごときオーラを解き放ってると段々声がかからなくなって、最初は仲間ハズレ、のちに孤独感も漂ってくる。
それにしたって並びたくない。
時短ならキッチンカーテイクアウトにコンビニ弁当(今クオリティ高くハズレない美味さ)、弁当屋に弁当持参、こんないろんなスタイルに共通するものがある。
ー自分の好きなものを食べたい
ーそこに何らしがらみがないこと
時が過ぎやがて同じ感覚を皆体験する。
テレワーク、ひとり旅。
ひとり飯は寂しいからイヤだっていうのもよくわかる。
でもその上をいくしがらみから解放されたら自分の思考が動き出す。
食事の取り方だって、長年大学病院の総合救急診療体制の確立に尽力した矢作直樹氏の話なら
一日三食も、絶対ではない。自分に合った食べ方は、からだだけが知っている
凡人の私だって集中したい時にはこの話は共感する。
毎回同じシチュエーションで、そこに奇妙な同調ももちろん忖度などもなく食事をしたい。
お願いごとをしたいとき昼食くらい上司の誘いに従順であっていい。
仲間を大切にしたいならどんな食事にも時間を割き、思考回路をリセットしたいなら自分に素直になれる食事時間も大切にしたい。
「お一人様。こちらへどうぞ」
そう言われて悪い気はしない。

案内されればたちまち自分の世界が作られる。
個食で生まれる時間も自分の整理に必要だし、有意義に過ごす(集中する)こともできる。
一方でバーチャルでなく繋がっていたいという思いもまた事実である理由を食文化の歴史で教えてくれる。
食文化研究の大家である元国立民俗博物館館長の石毛直道は、人間の食行動に関して、次のような二つのテーゼを提唱した。
「人間は料理をする動物である」
「人間は共食をする動物である」
食事もままならない子どもたちもいる。
だからこそ思う。
食べることで勇気が出る。提供されたいのは食事だけでなく「場」なんだ。
そして一日の終わりにでも気の合う仲間や家族、恋人と食事をしながら知識や文化を共有しながら共食出来たら幸せだろうなと。
そこに居たいだけなんだ。