見出し画像

京都散歩 令和6年時代祭

 10月22日、京都の時代祭に行ってきた。


記録用に渋々写真を撮る

 今週は3連休だったのだが、これと行くあてもなかった。
今度は鞍馬の方まで足を伸ばしてみようかなどとぼんやり考えながらガイドブックを捲っていた折、ちょうど22日に時代祭があることを知った。

 日頃より祭りごとにはあまり縁がない。
派手好きでなく、出不精で、人混みが苦手なわたし。
お祭りは行き帰りの電車が混むことを思うだけで敬遠したくなるのだが、折角の機会だと思って出かけることにした。

 今日は阪急に揺られて烏丸まで、地下鉄に乗り換えて京都御所には11時過ぎに到着した。

 時代祭は京都御所から平安神宮までの行列がメインイベントで、みんな思い思いの場所で見るので人がばらける。
加えて、平日ということもあってかそれほど混雑していない。
おかげで、建礼門のすぐ前で行列が始まるのをみることができた。
席を買えばゆっくり座って見ることができるのだが、席料はそれなりに高価にも関わらず至って普通のパイプ椅子。
おかげで当日になっても席はかなり余っている有り様である。
椅子を運んできて並べ立てる手間や、混雑が問題を引き起こす可能性を考えれば、もっと安くしてみんなに座ってもらったほうがいいんじゃなかろうか。

 まあそうはいっても、お金もかからず事前準備もなしに、良い場所で見られるのは素晴らしいことだ。
開催側であれば愚痴のひとつでも垂れようものだが、わたしはただの一般市民。
なんなら、京都市民ですらない。ここは素直に享受すべきだろう。

 観覧者としては年配の人や海外の人が目立った印象。
平日開催のうえ、平安神宮と違って御所の方は観光ゾーンからも外れているから、地元の人が多いのも頷ける。

 指定席では着物姿で丁寧にご挨拶を交わす人も散見された。
時代祭の行列はそれぞれの時代を市内の学区が担当するようで、地域のお祭り、交流という側面も強いのかもしれない。
わたしはその点完全に部外者だ。
お祭りや文化に対する心意気や誇り、思い入れはもちろんのこと、半ば強制的に参加させられ、市中を何キロも歩く羽目になることへの憤懣も持ち合わせていない。
人の心も社会的な影響も、ポジティブな部分もネガティブな部分も全てひっくるめて、この地に暮らす人だけのものだ。
わたしに出来ることは、あくまでその片鱗を知り、華やかな出し物に目を楽しませ、その賑わいのおこぼれをいただくという、それぐらいのものである。

 わたしはいつか(そのうち)京都に住んでみたいと思っている。
しかし移住したとして、それだけではわたしは京都の人になれるわけではない。
今現在にしても、住民票こそ大阪にあれ、わたしは大阪人ではないのだ。
では、人はどうすればその土地の人になれるだろうか?
お祭りを催す彼らだけが感じられるものを、わたしが感じられるようになれるだろうか?
過去の因縁によって、すでに帰るべき故郷も家も失ったわたしが、それを見つけられるだろうか?

まあそういう、言ってみれば個人の地域社会への帰属みたいな部分については、またの機会に勉強してみようと思っている。
「故郷」などというものが、わたしの人生に必要なものなのかも含めて、考えてみるつもりだ。

 さて、行列の出発はつつがなく行われ、2時間程度で終了。
その後は相国寺にお参りに行こうかなどとも考えたのだが、どうにも天気の具合がよろしくない。
雨こそ降らないもののひどくどんよりとして、低気圧が頭を締め付けはじめる。
出町の商店街にあるという人気の和菓子店には足を運んでみたかったのだが、残念ながら火曜は定休日。
再び行くあてを失ったわたしは、出町柳から帰路につくことにした。
途中下車して街中を散歩しようかとも思ったが、結局帰ってしまった。

思えば、平安神宮で行列の到着を観覧すればよかったのかもしれない。
限定御朱印もいただけたみたいだし…。
でも、混むんだろうなぁ。また次の機会に。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?