推しの“推し”になりたい

思い描いていた21歳の人生とは全くかけ離れた日々を明日は何かあるんじゃないか、来週の日曜日には何か手に入れられるんじゃないかと思いながら過ごしている。

鏡を見ると、目に光がない頬が薄茶色くくすんだ顔の女が、Tシャツから少し見えたインナーをTシャツに無理やり押し込みながらため息をついた。
後から来たフローラルのいい匂いがする見知らぬ女性の仕草を横目で伺う。
洗練されたしぐさ、持ち物に目を奪われ、つい同じタイミングで後をついていくようにその場を離れてしまった。

そんなふうに自分をすぐに見失って他の人に依存する。
最近の自分の癖である。

人にランクづけなどしたくないが、明らかに自分より綺麗な人、面白い人などに無差別に“なりたい”と向上心が爆発する。
その結果、思いがけず無意識のうちに劣等感を持ってしまい、自爆するのだ。
そのことについさっきまで気づいていなかった。

何故だか苦しい、何故だかできない。そんな負の感情が嬉しい、楽しい、面白い、美味しい、気持ちい、好きなどの感情よりも大きくなってしまっていたのだ。

そんな日々を救ってくれているのはお笑い芸人である。
心が強いお笑い芸人にはいつも心の安定剤になっていただいている。
好きなお笑い芸人のYouTube、Twitterであがる画像や動画、文章を摂取しているときだけはそんな負の感情を忘れることができる。
直接劇場に足を運んで実際の目で見ることが1番だとは思うが今の自分の財布的に厳しい。
この人を面白い、好きだと思っているなら大丈夫だ、明日も楽しく生きていられそうだと思える。
言うならばこの人をを好きな自分が好き現象だ。

でも、そんなお笑い芸人達にも生活があって、感情があって、自分では想像のできないような苦しみだってあるだろう。
そうゆう人間らしいところを好きになって時には嫌になったりもする。
特に、好きなお笑い芸人の「推し」の話はわりと苦しい。推しの推しは肯定するべきだと前まで自分の中での固定概念があったけど、面白おかしくその人ならではの語彙を使って推しの話をしている場面は全然笑えない。
お笑い芸人のお笑いの部分を好きならよかったけどその人の人間性も含めて好きになってしまったのだから仕方がないのかもしれない。
だから、好きなお笑い芸人が“推し”の話をし始めたらその人がどこか自分と重なるところはないか、ましてや自分もその“推し”にどうにか近づけないか(物理的な意味ではなく)と考えてしまうのだ。

もし、推しの“推し”になれた瞬間が1秒でもあるならそれは本当の自分とはかけ離れた人間になってしまうかもしれないがある意味、自分を自分で愛せるような人間になれるのではないか、とも考えられる。

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