災害からの社会の「復興」と、障害からの個人の「復権」 ①
災害からの社会の「復興」
そして、障害からの個人の「復権」
私がこれまで関わってきたリハビリテーションは、後者を意味する。
しかし意味を英訳してみると、何と、どちらも"rehabilitation"(リハビリテーション)となる。
「日本の戦後復興」を英訳すると、"Japan's postwar rehabilitation"となるようで、この事実は意外と、私と同様、同じ意味である事に驚きを覚える人も少なくないと思う。
リハビリテーションの概念は、元々海外から伝来したものである。
実は私たちは、一見身近になっているこの言葉の本当の意味を理解していないのかも知れない。
「復興」といえば、わが国では、たびたび起こる大災害からの復興が、今や国家的な課題であり、私達にとってある意味大変身近な言葉となっている。
そして皆さんも十分ご存じのように、災害復興のあり方には整理されていない大きな問題が山積している。
私は以前から「復興」という言葉の解釈に大きな疑義を抱いていた。
それは、誰の視点からの言葉だろうかという事である。
私は当然、災害を直に受けて何等か自分の大切なものを損なわれた立場
同じ意味の言葉であるという事実は、私が提起するリハビリテーションのあり方に関する問題意識に対し、問題共有の正当性を与え、問題解決に向けて突き進む大きな力を与える事になった。
すなわちそれは、災害復興に関わる諸問題のエッセンスと、私が感じているリハビリテーションのあり方についての問題意識のエッセンスは共通しているかも知れない。という事である。
1995年1月、私は兵庫県神戸市で阪神大震災に遭遇した。
私に直接的な被害はほとんどなかったものの、大災害に遭遇した街の惨状や市民の窮状は今でも目や耳に焼き付いて離れない。
数人の友人が自宅損壊などの大きな被害を受け、一時、彼らの避難生活に関わる事があった。
あれから四半世紀を超える月日が経った。
壊れた建物は新しく立派な復興住宅に、道路や区画もすっかり生まれ変わり、現在の神戸の街は一見震災から立ち直ったかのように見える。
ハード面だけでなく、市民の生活支援策についても不十分ながら機能しているように思われる。
しかし、市民の生活目線になってみるとどうなのだろうか?
震災前の生活には一向に戻らず、公的な支援も限界がある。
あとの在りようは、私たち自身の力で・・・なのである。
一見、援助から見放された思いがするだろうが、何も孤独になることはない。
ただ、今一度自らが主体となり、ここからがまさにリハビリテーションの領域であり、
自分らしい人生の再建に向けて、一生かけて終わりなき、自分らしさの復権・復興に取り組むのである。