黙春(もくしゅん)

理学療法士でAFP資格を持つ黙春です。2つの領域に共通する概念は「自分らしい人生」を支援するという事。原義のリハビリテーションは「自分らしさの復興」。わが国では医療サービスに過ぎない存在から、人生における自分らしさの復興を支援する”真のリハビリテーション”に再構築したいのです。

黙春(もくしゅん)

理学療法士でAFP資格を持つ黙春です。2つの領域に共通する概念は「自分らしい人生」を支援するという事。原義のリハビリテーションは「自分らしさの復興」。わが国では医療サービスに過ぎない存在から、人生における自分らしさの復興を支援する”真のリハビリテーション”に再構築したいのです。

最近の記事

人の価値(基本)②

「リハビリテーション原義主義」では、人の価値について、 人は他者と関わりあう上で、皆それぞれ、良いところと悪いところがあって、その比率は、”6(良い)対4(悪い)”とする事で観念を固定する。 「リハビリテーション原義主義」は、個人の”強み”をなるべく正確に捉えて、それを頑なに支援する考えである。 故に、誰しも良いところは悪いところを少し上回っているという、人の基本構造についての定めが必要なのだ。 互いにそう信じようとの、人としての優しさ・寛容の要素が、この考えの核心部分にはあ

    • 人の価値(基本)①

      人は生まれ出たその時は、何人も同じと考える。 生まれながらに悪人はいないし、また善人もいないと考える。 機能的な優劣や見た目の特徴は全て個性と捉える。 個性には当然ながら違いがある。 では、何が同じなのか? それは同じ”存在”という事だ。 ”存在”とは、「自分らしく生きたい」という大きな価値観を持つ一人の人が、今ここに居るという事である。 「自分らしく生きたい」という自意識は成長とともに芽生えるが、それまでの間は養育者が「この子を自分らしく生きさせたい」と自分らしさを大切に保

      • リハビリテーションのリハビリテーション②

        リハビリテーションを真のリハビリテーションに回帰させる事で、社会における諸問題の根本問題が見えてくる。 私の提起するリハビリテーションの事だけでなく、全般的な社会問題への対処として、国の方向性に異を唱えたい。 ひとり親問題、いじめの問題、性的マイノリティの問題などは、 まずは手当てという事で、何らかの利得を、全て社会保障制度の中に組み込む。その財源は無限とされる赤字国債の発行で賄い、”いま・ここ”的に問題を安易に処理して、ほぼ対処は終わる。 根本に潜む真の問題探究に切り込まな

        • リハビリテーションのリハビリテーション①

          私は長らくリハビリテーションに関わっている。 以前話したが、リハビリテーションは本人の価値観であると考えているので、私は必ず”支援”との表現を付け加えている。 理学療法士である私は、理学療法という治療法を、リハビリテーション支援の主な手段としているが、”治療”というだけに、現在の(傷害の)状態を改善する、(機能低下を)予防するといった”効果”を期待されている。 患者本人からは特に、”治す”事を大きく期待される事が常であるが、 実は、私が長年最も興味を持ち、全力で取り組んでいる

          いじめとは存在の共食いである

          今回は「いじめ」の解釈について考えを述べる。 「いじめ」は、個人に対して傷付ける事を目的とした攻撃である。 私自身も、小学生高学年の時に、クラスメートから陰惨ないじめを受けた。 その時に受けた心理的傷害は、治っておらず、時間とともに大分傷は癒えたが、半世紀近く経った今でも、思い出すと心が痛む。忘れる事はこの先もないだろう。 私はいじめを受けたこの時代の思い出を、心の中から消している。 その時代に、私らしい私はいなかった事にしているのだ。 それは、著しく私らしさが損なわれたか

          いじめとは存在の共食いである

          肉体の性・存在の性③

          「性のリハビリテーション」 自分らしく生きる上で、自分らしい性は重要である。性同一性障害という”病態”における「心の性」とは医学的解釈にほかならない。 リハビリテーション原義主義では、”心の性”を「存在の性」と表現する。 ”心の性”とは、”心の中の性”と意味取れる。 この心(心の中)という言葉には、「他者や社会が理解できないその人だけが分かり得るもの」とのメッセージが包含されている。 ”心の中の性”は主観である。これを客観的に理解するのは無理だ。 一方、「存在」は客観的であ

          肉体の性・存在の性③

          構えと存在③

          「リハビリテーション原義主義」とは、 わが国において医療福祉分野の意味で通っている”リハビリテーション”を、元々の意味である”復活”や”復興”に照らし合わせて、その意味を再編し、「(苦難にあっても)再び自分らしく生きる」という個人の意思と、それを適切に受容する社会の在り方を、本来の”原義に基くリハビリテーション”として、その価値を強く提示する考え方である。 リハビリテーション原義主義の核心となる概念が 「構え」と「存在」である。 「自分らしく」生き続ける上での、人生のリハビリ

          構えと存在②

          「リハビリテーション原義主義」とは、 わが国において医療福祉分野の意味で通っている”リハビリテーション”を、元々の意味である”復活”や”復興”に照らし合わせて、その意味を再編し、「(苦難にあっても)再び自分らしく生きる」という個人の意思と、それを適切に受容する社会の在り方を、本来の”原義に基くリハビリテーション”として、その価値を強く提示する考えである。 リハビリテーション原義主義の核心となる概念が 「構え」と「存在」である。 「自分らしく」生き続ける上での、人生のリハビリテ

          構えと存在①

          「リハビリテーション原義主義」とは、 わが国において医療福祉分野の意味で通っている”リハビリテーション”を、元々の意味である”復活”や”復興”に照らし合わせて、その意味を再編し、「(苦難にあっても)再び自分らしく生きる」という個人の意思と、それを適切に受容する社会の在り方を、本来の”原義に基くリハビリテーション”として、その価値を強く提示する考えである。 リハビリテーション原義主義の核心となる概念が 「構え」と「存在」である。 「自分らしく」生き続ける上での、人生のリハビリテ

          肉体の性・存在の性②

          「性概念のリハビリテーション」 我が国において性同一性障害の概念が人々に認識され始めたのは、長い人間史においてごく最近の事である。 「性別違和(=性同一性障害)」の概念は、肉体の性とこころの性が一致しない状態であると説明があるが、 こころの性とは存在の性ではないかと私は思う。 肉体の性と存在の性とは、どのように違うのだろうか。 肉体の性は種の保存・繁栄を目的とした、女と男のマッチングを前提とした概念と言える。 女と男というのは、肉体の性における区別であり、 動物に見られ

          肉体の性・存在の性②

          肉体の性・存在の性①

          生物には「生」と「死」があって、生体においては生は偶然、死は必然であった。 偶然の生で始まって必然の死で終わる。 生体には、偶然に始まった生を広く繁栄させる為に、「性」の別が備わっている。 これが生体の性である。 人間という生物には、「性」について2つの概念が備わっている。 1つはこれまでの生物としての生の繁栄を目的とした「生体の性」である。 もう1つは、人間が自らの頭脳で描く、アイデンティティーの一部としての「存在の性」である。 「死」においても、「生」においても、人

          肉体の性・存在の性①

          肉体の生・存在の生②

          私が提唱している「リハビリテーション原義主義」は、存在の生を全面肯定し、かつ重きを置く考えだ。 元々のリハビリテーションの概念は、復権すなわち存在の生の回復という意味であった。 私は「自分らしく生きる価値を復する事」と表現している。 一方で今の我が国で語られるリハビリテーション概念、すなわち、 社会保障における保険医療制度上の医学的リハビリテーションでは、「生体の生」が重視される。 生体の生、すなわち、心身の機能を回復させる事が、医学的リハビリテーションの主たる目的である。

          肉体の生・存在の生②

          肉体の生・存在の生①

          「2つの死」があれば「2つの生」もある。 死には、生体の死と存在の死という2つの死があると言った。 私は、生きる事にもまた、生体の生と存在の生があると思う。 「死」とは必然であった。 全ての生物に死は訪れる。 「生」はどうだろうか? 生きている事とは、全くの偶然の産物である。 過去に生まれてきた事が偶然の始まりであり、現在進行形の生きている事も偶然である。 未来も生きているだろうか? これは全くの白紙である。 「生」に未来はなく、必然の「死」までの間、現在進行形の偶然

          肉体の生・存在の生①

          肉体の死・存在の死

          人間にとっての「死」の概念は2つある 「死」とは、生物にとって必然の現象である。 生きているものは必ず死ぬのだ。 生物体には寿命があって、寿命の後半で段々老化が起こり、心身の諸機能が低下してやがて死に至る。 また、外的及び内的要因により突然機能停止が起こり、死に至る時もある。 これは言わば、「肉体の死」と言える。 肉体の死は、 一方で皆さんは、人の死に 際して、このような発言を耳にした事はないだろうか? 「皆さんにはいつまでもこの子の事を忘れないでやって欲しいです」 「

          肉体の死・存在の死

          FPからリハビリテーション在り方を考えています。 幸福との距離なんですが、お金は幸せに最も近いでしょうか。それは欲しいものが交換で手に入るから。たくさんある方が良い?リハビリテーションは人生の歩んできた中に幸せが結構たくさんあって、本当に欲しかったものはそこにあったよと、知る事

          FPからリハビリテーション在り方を考えています。 幸福との距離なんですが、お金は幸せに最も近いでしょうか。それは欲しいものが交換で手に入るから。たくさんある方が良い?リハビリテーションは人生の歩んできた中に幸せが結構たくさんあって、本当に欲しかったものはそこにあったよと、知る事

          対症療法施策「いま・ここ」偏重の弊害 ①

          私たちのまわりでは「今、何が必要か」が偏重され過ぎているのではないだろうか? 私たちはこれまで、あらゆるものが満たされている環境の中で、この素晴らしい環境は永続的だと盲目的な誤解をしてきた。 今日、資源に限りがある事が常識として認知され、その永続性は完全に否定された。 未来への見通しは悲観的なものである。 しかし、私たちはこれまでを悔い改める事はせず、漠然とした不安に駆り立てられて刹那的な消費と過剰な保身に走っている。 この傾向は残念ながら、力の強い者に、より色濃く見られる傾

          対症療法施策「いま・ここ」偏重の弊害 ①