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【劇評】贋作・桜の森の満開の下(夢の遊眠社)
2023/11/4 DVD視聴
作・演出 野田秀樹
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野田秀樹作品の分からなさと面白さについて
野田秀樹作品というのは前提知識が色々と必要な上、言葉遊びが非常に多くかつ時事ネタが散りばめられているだけでも大変なのに、さらに基本的に3つほどの世界が重なり合うような構成になっていることが多い。
だから噛みごたえがありすぎるほどあり、なかなか何回観ても咀嚼仕切れない部分もあるが、だからこそ何度観ても面白いのだと思う。むしろ分かりきれないからこそ面白いというか。
分かることと面白いということは全く別軸の話であり、相関関係はないのだということを明確に気づかせてくれたのは、おそらく野田秀樹作品が初めてだと思う。
オーバーラップする複数の世界
『贋作・桜の森の満開の下』では、坂口安吾の『桜の森の満開の下』と『夜長姫と耳男』が底に敷かれている。その上に、坂口安吾の提唱する「飛騨・高山抹殺説」(『安吾の新日本地理ー飛騨・高山の抹殺』『飛騨の顔』など)と壬申の乱が乗っかる。
- 『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』
- 「飛騨・高山抹殺説」(『安吾の新日本地理ー飛騨・高山の抹殺』『飛騨の顔』など)
- 壬申の乱
ここあたりの知識がゼロだと初見で死ぬことになる。私は事前に戯曲『贋作・桜の森の満開の下』『桜の森の満開の下』だけを読んで舞台を見たので、それだけだと分からないことが多すぎた。せめて壬申の乱を覚えていればもう少しマシであっただろうが‥‥予習しすぎも面白くないので、あれでよかったと思う。
さらにここに
- 1990年代当時の時事ネタ・小ネタ(芸能人ネタやCMネタなど)
- 言葉遊びの乱立(「まぶたはあるけれど耳たぶはないから、耳たぶはあるけど、耳ぶたはないから」「おかしらがいれば、どんなメシでも、おかしらつき」)
- 前提教養(「ベアトリーチェ」)
- 坂口安吾の他作品(「惚れて死ぬのは、人生がフツカヨイしています」)
が随所に散りばめられるのであるから、もうなかなかに大変である。
野田秀樹本人も、流石に色々詰め込みすぎたとどこかに書いてあった。野田秀樹は坂口安吾の生まれ変わりを自称するくらいなので、かなり気合が入っていたのだと思う。
カオスな夢の中
初見時はどうしてもポカン…とほぼほぼ分からない状態になるが、でもその中でもとにかく「すごい」と言葉をなくして圧倒されるのであるから、面白い。
騒がしいカオスな夢のように何層もの世界が混じりあい、しかしそれが破綻せずに成り立っているのだから、一体どうやって戯曲を書いているのか、想像もつかない。およそ真似できるとも思えない。
好きな言葉・シーン
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好きなシーンはいくつもあるが、あえて一つ挙げると「押されてなるものか、血を吸え、そしてヒメの十六の正月に、イノチが宿って化け物になれ」と耳男が叫び、ノミを打つ音がカンカンと響きわたり、それが何重にも重なり合奏のような時間が続くシーンが好きだ。
また、他にも好きな言葉を列挙したい。
- 「俺の背中、荷物だけでした?」「夕陽も背負ってる」
- 「だめです、耳は無口です」
- 「ここは信仰心のゴミ捨て場」「本当だ!燃える信仰心と燃えない信仰心」
- 「やい、名人かぶれ」「なんだ、やぶれかぶれ」
- 「オニの息吹のかかるところがないと、この世は駄目な気がする」
- 「なにに押し返されるの?」「落ちてきそうな青空にです」
- 「これからは、一目散に、永遠をくだりつづけていくのですよ」
ラストシーン
桜舞うラストシーンはあまりに美しい。
坂口安吾の『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』を読んだ時、大量の汗を書きながら朦朧とした眩暈の中見る夢幻のようだと感じたが、それと同じものが舞台上にある。
おそろしくも美しく、静寂の中で仰向けにゆっくりと落ちていく中で、夜の桜が吹雪くさまを見るような。
夜長姫が耳男に殺される時、首をのけぞって少しずつ崩折れていくのだが、その一瞬一瞬の美しいこと。
また、死ぬ直前の夜長姫の言葉は、坂口安吾作品からほぼそのまま引用している、この作品の中核をなすものである。
「いいの。好きなものは、呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前の大きなミロクがダメだったのもそのせいだし、お前のバケモノが、すばらしかったのも、そのためなのよ。ねえもしも、また新しく、なにかをつくろうと思うのなら、いつも、落ちてきそうな広くて青い空をつるして、今私を殺したように、耳男、立派な仕事をして……」
坂口安吾の『夜長姫と耳男』における2人の関係性は、創作における精神を表しているようだ。
坂口安吾や野田秀樹にとって、創作行為というのはあの恐ろしくもどうしようもなく惹きつけられるような夜長姫のようであり、時に呪い、時に争い憎み、それでも離れることのできないものなのだろう。耳男が彫った大きなミロクは名声にかまけ創作の心を忘れていたからだめだった。
それにしても、その恐ろしくも惹きつけられるような思いを「落ちてきそうな広くて青い空をつるして」と表現するのは一体どういう生活をしていればそんな言葉がでるのか。すごい。
ラストの余韻はすごい。
ここら辺はもうずっと言葉も音楽も演出も何もかもが好きなので、どう言及すればいいか分からないが、とにかく本当に好きだ。
また詳細を書きたくなったら追記したい。今はとりあえずラストシーンのセリフを抜粋して記すのみにする。
「そんなところでじいっとして、冷たくはありませんか?」
「花の涯から吹きよせる、冷たい風も、もうここにはありません。ただひっそりとそして、ひそひそと、だけどこれからはいつまでも、ここで身動きもせず、じいっと座っていることができます。」
「桜の森の満開の下に?」
「もう帰るところがありませんから」
「その道しるべには何を刻んでくれるの?」
「あっ……その声」
「何を刻むの?」
「この桜の木の下からどこにもまいらず、けれどどこにでもいけるおまじない」
「え?」
「いやあ、まいった、まいった」